ナンバリング・7
男性がビルに入っていったのを見届けると、健は踵を返しながら、左の耳に何かを嵌め込んだ。
「これだけ?」
と、志乃が間の抜けた声で尋ねる。
健は、にっこり笑った。
「まさか」
「……だよなぁ。それで? 次は何をするんだい?」
「出勤だけでは片手落ちだろう。帰りまで、待つんだ」
「はぁ?」
健が、先に歩き出してしまう。
慌てて後を追い、志乃は前に回り込むと、立ちふさがるように、呆れ顔で腰に手を当てた。
「あんた、俺をからかってねぇか? こんなくだらない仕事のために付き合わせたってんなら、帰るぞ」
よく考えてみると、健の行動自体、おかしかったのだ。
護衛というわりに、電車の中でも、歩いているときも、さほど男性に気を配っていなかった。まるで、散歩でもしているように、のんびりと歩いていたようにしか、思えないのだ。
いくら、実の代役とはいえ、無駄な時間をだらだらとしているくらいなら、家にいたほうがマシだ。
要するに、今朝のことを含めて、志乃は、健が、自分を実から遠ざけるために連れ出したのだと思った。
夕子まで出掛けているから、家にいるのは護だけだ。
今まで、志乃は護と一言も口をきいていない。また、普段のメンバーの中でも、彼だけはほとんど誰かと話すこともない。少なくとも、まともに彼の声を聞いたことがないのだ。
それどころか、存在感が希薄で、時おり、そこにいたのかと気づくほど、志乃にとっては影の薄い存在でしかなかった。
と、なれば、彼が居残っていたとしても、こっそり実に会うのに、障害になるはずがない。
健は、それを懸念して、連れ出したにちがいない。
ならば、今からでも帰ってしまおう……
そう考えていた志乃を見上げて、健は人通りがあるにも関わらず、彼の髪を漉き上げた。
「愛しているよ」
「なっ……」
いきなり何をいうのか……顔どころか、身体中が熱くなる。
「な、んだよ。て、照れるじゃねぇか」
先程の、車内での昂りが蘇り、志乃は慌てて彼の手から顔をずらした。
「おいで。まだ、仕事があるんだ」
平然と手を下ろすと、健はまた、歩き出した。
向かっているのは、駅の方だった。
どうもはぐらかされた気がする。
健には、そういうつもりがないのかもしれないが、自分の目的を話そうとせず、うまく誘導しているような感じがする。
逆らえなかった。
あの笑顔で言われると、力が抜ける。脅迫的であり、まるで魔力のようだ。
仕方なく、ついていくしかなかった。
大通りを、人の波に逆らって歩いていた健だが、駅が見えるという距離まで来たとき、突然足を止めた。
隣の志乃が行き過ぎ、すぐに振り返る。
健は、俯けた顔を、抑えていた。
「どうした?」
と、声をかけた途端、
「……だめか……」
という呟きと共に、足が崩れた。
「お、おい!」
支えることは間に合わなかったが、踞った体を掴む。
歩いている周囲の足がいくつか止まるなか、健の右手が、両目を覆う。
「ブレスレットを……」
と、僅かな震えを伴って、左手が上がる。
志乃は、胸で彼を支えながら、それを外した。
「人気のないところに……運んでくれないか。ちょっと、動けそうもない」
「ど、どこに? どうしたんだよ?」
「どこでもいいよ」
声は弱いが、言葉ははっきりしている。
辛そうに顔をしかめているのか、口許がひきつっていた。
が、意識はしっかりしているようだ。
志乃は、周囲を見渡した。
「き、喫茶店があるけど……ダメかな?」
「頼む」
このとき、彼らを気にしながら行き交う一人から声がかかった。
「どうしました?」
勇気をもって声をかけてくれたのだろう。若い女性だった。
志乃が、健を見下ろす。
どう答えていいのかわからなかったのだ。
返事をしたのは、踞ったままの健だった。
無理に顔をあげて、弱々しく笑いかける。
「なんでも……ありません」
「顔色が……あの、この先に病院が……」
病院、と聞いた途端、健は彼女の言葉を遮り、冷たく言った。
「構わないでくれ……シノ」
声の変化に、志乃は女性に目もくれずに健の腕を自分の肩に回すと、見つけた喫茶店に足を向けた。
そこに入る直前に振り返ると、先程の女性が、心配そうにこちらを見ていたが、無視して扉を開ける。
「いらっしゃい……ま、せ……」
「病人! 少し休ませてくれ。奥の席を借りるぞ」
「は、はい」
勢いに押されて、ウエイトレスが通路を開ける。
扉から、一番奥まったボックス席に健を運ぶと、そこに寝かせ、志乃は膝をついた。
「それで? どうすりゃいいんだ?」
今しがたの、女性の親切を冷たく断ったことから、持病の貧血なのだということはわかったが、肝心の実はダウンしている。
志乃は、こういうときの対処を知らなかった。
僅かに、覆っていた手をずらして、健はブレスレットを示した。
「タカヒロかタカシを呼んで。ここに……薬を持ってくるように……」
「わ、わかった」
だから、外させたのか。
使い方とナンバーは、夕子から教わっている。
志乃は、その場に膝をついたまま隆宏を呼び出すと、耳に当てた。
『はい。どうしたの? ケン』
ブレスレットは、名前が表示される。
隆宏の声に、一瞬間をおいて、志乃は息を吸い込んだ。
「俺、シノだけど。ケンが倒れたんだ。薬を……」
『また? ……ああ、そういえば、飲まないで出ていったっけ。ミノルに怒られるのに、どうして忘れるかなぁ』
隆宏の向こうで、高志の、『また忘れたのか?』という声が混じっている。
二人とも、のんびりした声だった。
「ず、ずいぶん落ち着いてるじゃねぇか……」
こっちは、本人を見ているから慌てているというのに……。
『よくあることだからね。オレたちが忘れていたのも悪いんだけれど……。それで? 今、どこ?』
志乃は、場所を教えて言葉を止めた。
「ちょっと待ってくれ。……ちょい、そこの姉ちゃん。この店、なんて名前なんだ?」
近場の、目についた店構えだけで入ったため、名前まで確認していなかった。
どうしていいのかわからず、それでもとりあえず水を持っていくように言われたらしく、ウエイトレスは、テーブルから少し離れた通路で、声も小さく答えた。
片手で礼をいって、すかさず店名を隆宏に伝える。
すぐに行くとはいえ、少し時間がかかると言って、隆宏の声は切れた。
「来てくれるってさ。俺はどうすればいい?」
隆宏と話したせいか、少しだけ、落ち着いた。
健が、目を閉じたまま、テーブルの向こうを指差した。
「座っていれば、いいよ。コーヒー……飲み損ねただろう?」
「へっ? ……あ、ああ、さっきの」
行きがけに、飲み干すに至らなかったコーヒーのことを言っているのだと気がついた。
まったく、自分が倒れたというのに、呑気なものだ。おまけに、隆宏たちに心配の欠片もない。いつものことと言っていたが、前には頻繁にあったということだろうか。
こっちは初めてのことに驚いたというのに……。
一人で慌てた自分がバカみたいじゃないか、などと心で毒づきながら、テーブルの対面に座ると、まだ立っているウエイトレスに手招きした。
「厄介ごとを持ち込んで悪いな。少しの間、休ませてもらうよ」
「あ、いえ……あの、救急車かなにか……」
「あんたもかい?」
「はい?」
テーブルの影になっている健に顎を向けて、志乃は言った。
「休めば治るんだよ。大袈裟に騒ぐこっちゃない。迷惑なら出てくけど?」
「あ、あの……」
困り果てて、ウエイトレスはカウンターを振り返った。
無理もない。まだ若そうな彼女は、このような事態に直面したことがなかったのだろう。
マスターが、ようやくこちらに向かってきた。
「あの、もしよろしかったら、奥に部屋がありますから、そちらでお休みになられますか?」
精一杯の心配顔と、それに反して迷惑だと言いたげな内容の言葉に、志乃が同意する。
「そりゃ助かるな。……いいだろ? ケン」
「……すみません。ご迷惑をおかけします。案内を……お願いできますか?」
見苦しい姿なのは承知しているが、体が動かない。
しかし、力の入らない腕で、かろうじて僅かに起き上がった。
その態度と、柔らかい言葉遣いに、初めてマスターが微笑んだ。
志乃の態度は決して誉められたものではないが、健の言葉は、マスターの気持ちを和らげたらしい。
それでも、病人が客席にいるのは、店にとっても見映えが悪いどころか、悪評の種になりかねない。
そういう思いだけは、僅かに表情に出ていたが。
「こちらへどうぞ」
志乃がまた、健に肩を貸す。だが、さっきよりも健の足に力が入らないのか、彼の重さが増した。
面倒だ、と、唐突に背負った。
想像以上に軽いことに驚いたものの、そのまま、他の客の注目の中、マスターのあとについて、カウンターの奥に入っていく。
どうやら、従業員の休憩室のようだ。
ロッカーと、小さなテーブル、それにテレビが置いてある。
片隅の長いソファに、健を寝かせておけそうだった
「毛布をお持ちしますか?」
「どうする? ケン」
「……毛布は結構です。申し訳ありませんが、彼にコーヒーをお願いします」
「かしこまりました」
マスターが出ていくと、志乃は健の傍らに膝をついて、額に手を当てた。
「少し熱があるみたいだぜ」
「微熱程度じゃないかな」
「なあ……本当にこのままでいいのか? なにか、他にできること、ねえのかよ?」
「……こうしているしか、ないんだ。困らせてしまったね。ごめん」
「病人が気を使うんじゃねぇよ。まったく……」
健はいつもこうなのだろうか。自分よりもメンバーのことを考えているのはわかるが、まさか、志乃にまで気を回すとは。
あるいは、話しかけるから、無理して付き合っているのか?
「俺、黙ってたほうがいいか?」
「構わないよ。体が動かないだけだから」
その割りに、いつもの穏やかさがない。時おり、顔をしかめているということは、相当な目眩がしているのかもしれない。
「それって、ホントに貧血の症状なのかい? 体が動かなくなるもんなのか?」
病人の世話をし慣れていない上に、自分が健康体だったから、志乃には病名以外、症状が理解できない。
だが、普通は、目眩の症状くらいではないのだろうかと、訝る。
「……言い方が違うのか……。ひどく目が回るんだ。だから、体を動かそうとすると、反動がくるんだよ」
「ああ、そういうことか。貧血、なんて、立ちくらみくらいしか知らねぇからな。軽くみてたけど、辛いんだろうなぁ」
目眩自体は嘘ではなかったが、本当に体が動かない、とはいえなかった。
これ以上心配させたくなかったのだ。
今回は下半身だけのようだが、ひどいときは、身体中が痺れるように動かなくなる。
今は慣れたとはいえ、これで隆宏たちにも何度か迷惑をかけたことを思えば、志乃に追い討ちをかけても仕方がない。
「あ、あのさ、膝枕ってどう?」
何もできないながら、志乃は自分なりに気遣いたいらしい。
電車の中といい、今といい、彼の本質は、案外、お人好しなのかもしれない。
健は、辛そうだが、苦笑混じりに言った。
「そうしてくれる?」
できれば、頭を動かしたくはなかったが、志乃にそこまでわかるはずがない。
普通の貧血とは違うので、何をしても無駄なのだが、せっかくの申し出を断らなかった。
そそくさと、彼の頭を抱き上げてソファに腰を下ろすと、静かに自分の足に頭を乗せる。
そのまま、覗き込んだ。
「こんなときにタバコってのもおかしいよな。なにか欲しいもんはないのかい?」
「さっき、言ったはずだよ。オレからは何も要求しない。君が、考えるんだ」
「難しいことを言うよなぁ。あいつらは当たり前にやってるんだろう?」
「そうだよ」
「それって、あんたのことよく知ってるから出来るわけだろ?」
考え込んでしまった。
志乃は、健の額に手を当てたまま、ソファの背もたれに頭をのせて、目を閉じた。
「あんたのクセ……いや、それだけじゃわかるわけねぇし。……好み……は当然の知識だろ? でも、そんなの教えてもらってねぇぞ。それに、タイミングだろ? 合図を送るわけ、……ねぇしなあ」
志乃の足の上で、健がクスクス笑っている。目眩自体に周期があるのか、それとも笑わずにいられないのか。
気がついて、彼を見下ろす。
「なんだよ。ガラにもなく考えてるっていいたそうだな」
「そう見える?」
「違うってのかい? 大体な、わかるわけ、ないじゃねぇか。ミノルはなんにも教えようとしねぇしよ。あんたとこれだけ話したのも今日が初めてなんだぜ」
「わかっているよ。承知して、言っているんだ。オレを、よく見てごらん」
「あんたを?」
ノックが聞こえた。
考えていた志乃が、慌てて返事をする。
入ってきたのは、トレイを持ったマスターだった。
「お待たせしました。もし、よろしければ、トーストですがお召し上がりください」
と、トレイの二品をテーブルに乗せる。
志乃が片手を上げて、これは礼を言っているつもりらしい。
代わりに、健が答えた。
「ありがとうございます」
「いえ。ですが、本当にこれだけでよろしいですか? 医者を呼ぶこともできますが」
「これ以上は構わないでください。今、主治医がこちらに向かっているので」
どうも、健は実以外の医者を認めていないのか、それとも医者自体が嫌いなのか、その言葉を聞くと声が尖る。
先程の女性に対するほどではないが、休ませてくれているマスターに向かっても、それが伺えた。
しかし、気がつかないマスターは、主治医という言葉に安堵した。
「そういうことでしたら、ゆっくりなさってください」
一礼して、彼は出ていった。
さっそく、志乃がトーストに手を伸ばす。
家では、急かされて出てきてしまったため、正直言えば、食べた気がしなかったのだ。
こぼさないように、皿ごと取り上げる。ついでに、邪魔そうに髪を後ろに飛ばして、健を見下ろした。
「俺だけ悪いな」
「いいよ」
「……でもさ、確かあんた、何も食ってなかったよな。これ、食うか?」
「……シノ……」
「あ、そっか」
自分からは要求しない。無駄に渡すこともできない。
我慢をさせるわけにもいかないし。
貧血状態でも、腹は減るだろう。
しかし、バターたっぷりのトーストでは重いかもしれない。そう考えると、喫茶店の軽食自体、病人には向いていないように思う。
コーヒーを飲ませても、微々たる栄養にしかならないし……。
皿を持ったまま、あれこれと考えていた志乃は、やがて、それをテーブルに戻すと、ゆっくり彼の頭を下ろして席を立ち、部屋を出ていった。
「マスター、リンゴジュースかオレンジジュース、作ってくれねぇか?」
少しの間に、店内には客が増えていた。
マスターは、何人分かのコーヒーを作っている。
「お連れ様のですか?」
「そ。あいつ、朝飯食ってないんだ。ジュースくらいなら飲めるだろうからさ」
「それでしたら、ヨーグルトはいかがですか?」
「あ、それがいいや。頼むよ」
思い付かなかった。
胃にも負担にはならないし、ジュースよりはボリュームがある。
すぐに持っていくというマスターに礼を言って、部屋に戻ると、今度は直に床に腰を下ろした。
「しばらく我慢な。ヨーグルト持ってきてくれるから」
「……助かるよ」
とは言ったものの、苦笑するしかなかった。
ヨーグルトもそうだが、健は、デザートの類いは好きではないのだ。
だから、夕子がせっせとケーキやクッキー、アイスやドーナツと作っても、彼が手をつけるのはせいぜい一口くらいだ。
もちろん、ヨーグルトも出てきたこともあった。一口大に切ったフルーツに絡めてあったが、それも、ひとつを口にしたくらいだ。
確か、志乃もそれを見ていたはずなのだが。
いや、自分で思い付いてオーダーしたことだ。
それだけでも、今は良しとしなければ。




