ナンバリング・1
━━目覚まし時計が鳴っている。
それほど大きくない電子音だが、眠っている意識の中に、少しずつ入り込んでいく。
毛布の中で、モゾモゾと動いていた手がヌッと出て、音源を探り、そしてスイッチは切られた。
そのままの形で、手が止まる。
が、しばらくして、また毛布の中身が動いた。
志乃は、今度こそ気だるげに半身を起こした。
まだ、はっきりしない頭で、無意識に目をこすりながら時計を手に取る。
毎晩、アラームをかけているのだが、この音を聞いたのは初めてではないだろうか。
少しずつ、眠気が覚めていく中で、そんなことが頭に浮かんだ。
いつもは、アラームが鳴る前に……そうだ、実に起こされるから……。
実には、体内に時計が仕込まれているのではないだろうか。そう思わせるほど、同じ時間に起こされる。その方法は、乱暴極まりない。
なのに、今朝はどうしたのだろう。
時計を戻し、志乃は隣を見下ろした。
毛布を頭から被ったまま、実は目覚ましの音にも反応しなかったようだ。
静かに毛布をめくってみたが、丸くなって眠ったままだ。
部屋のライトが煌々とついている上に、カーテン越しから朝の光が差し込んでいるというのに、身動きひとつしない。
「ミノル」
背を向けている体を軽く揺り動かしても、やはり起きる気配もない。
光の加減次第で、濃い緑を思わせる、艶のある黒髪が、緩いウエーブになって顔にかかっている。その隙間から、黒く光るひし形のピアスと、丸い、珊瑚のような、真っ赤なピアスが見えた。
決して触れることを許さないその赤いピアスは、志乃が知る限り、一度も外すところをみたことが、ない。
いつもと逆の立場に、軽く頭を掻いて、起こすことを諦めながら志乃は、ベッドを降りた。
まずは着替えが先だ。
クローゼットから服を出し、部屋を出る。
スエットスーツのまま階段を降りると、リビングと繋がっているキッチンから声が掛かった。
「おはようございます」
いつもながら、夕子の朝は早い。全員の朝食を作るためとはいえ、一人でよくやっているものだ。
志乃は、にっこり笑った。
「まだ、誰も起きないのかい?」
「いえ。ケンが起きていますよ。庭にいます。コーヒーを入れましょうか?」
彼は、手に持った服を彼女に見せながら言った。
「シャワーを浴びてくるよ」
「じゃ、そのあとね?」
「うん」
キッチン側から廊下に出ると、すぐにバスルームがある。
志乃がキッチンを出るのを見届けて、彼女はまた、料理の手を動かし始めた。
「ケン」
隆宏は、コーヒーカップを片手に、健の隣に腰を下ろした。
冬になって枯れているものの、整然と敷き詰められた芝は、そのまま座ると土の香りがする。
二月の、薄晴れでは隆宏には寒さが身に染みるが、健のほうは、厚手のシャツ一枚で平気らしい。
気持ち良さそうに本を読んでいたが、隆宏の声に、それを横に伏せて置いた。
「みんなは起きた?」
「リビングにいるよ。ミノルがまだ。シノはシャワーを浴びているって」
「……珍しいな」
「そうだね。……食事、できたよ」
「じゃ、中に入るか」
伏せた本は、そのまま閉じられた。単なる時間潰しだったため、栞を挟むつもりはなかったらしい。
隆宏が、健の傍らに置いてあったコーヒーカップを取り上げて腰を上げる。
冷めたまま、半分も減っていなかった。
曇りがちだが、薄日が差している空を見上げて、健は言った。
「昨日よりは暖かいかな」
「そう思うのは君だけだよ」
まだ、二月だ。
隆宏は、軽く身震いをして、健の後から家に入った。
さっぱりした頭をタオルで拭きながらリビングに入ると、もう、みんながテーブルについている。
毎日のことながら、健たちの早起きには驚いてしまう。
いつも、実に起こされて、半分しか覚めていない目でここに来ると、こうして揃っているのだ。
「あ、おはよう、シノ」
明るい高志の声に、志乃は得意気に胸を張った。
「聞いてくれよ、タカシ。今日は俺のほうが早く起きたんだぜ」
高志が、思わず吹き出しながら言った。
「知っているよ。ミノルはまだ降りて来ないしさ」
「そうなのかい? じゃ、起こして来るかぁ」
初めてのことで、それほど得意になることはないのだが、志乃は、足取りも軽く、二階に上がった。
一応、礼儀としてのノックは習慣づいている。
返事がないままドアを開けると、ベッドの実は、やはり同じ格好で眠っていた。
“ホント、珍しいな”
思いながらも、志乃は少し不安を感じ始めた。
具合でも悪いのだろうか。
ベッドに軽く腰を下ろして、志乃が呼び掛ける。
「ミノル」
窓のほうに向いたまま、丸くなっている彼の体を仰向けに動かして、その髪をかき揚げる。
額に手を当ててみたが、シャワーを浴びたばかりで温まっている手には、体温の高さを感じ取れなかった。
「起きろよ、ミノル」
今度は、多少強めに揺り動かす。
何度目かで、やっと反応があった。
「ミノル」
「……ン……」
「起きろって」
「……な……んだよ……」
「朝だって。みんな起きているんだぞ」
重そうに目が開いた。
気分によって表情が変わる、茶色に近い今朝の瞳の色には、覇気がない。
「……シノ……」
「具合が悪いのか?」
志乃の言った言葉がよく理解できないのか、答えには間があった。
「……眠い……んだ」
「珍しいじゃねぇか。どうする? まだ寝てるか? ケンたちには言っていくけど?」
「……起きる……」
ひどくゆっくりとした動きで、実は体を起こした。
「大丈夫かよ? 眠いんなら寝てたらどうだ?」
やはり反応は鈍かった。
「いや……ケンを……一人に……できない」
「しょうがねぇなぁ。……なら、服を着せてやるから待ってろ」
志乃は、今にも倒れてしまいそうな実から離れると、クローゼットを開けた。
中から一揃えの服を出して、不器用に着せる。
シャツのボタンをはめる手がぎこちないのは、実の様子を伺いながらだったからだ。
時間をかけて服を着せると、志乃は肩を貸すように実を立たせた。
「あんた、ホントに大丈夫なのか? 具合が悪いんじゃない?」
「眠い……だけだ」
「歩けるか?」
いちいち、返事に時間がかかることなど、今までなかった。
実は、力なく志乃から離れると、代わりに、ベッドに隣接している机に手をついて、そこに載っているリストバンドに手を伸ばした。
「ああ、もう」
一つ一つの仕草が危なっかしい。
志乃が、横からそれを取り上げると、片方ずつ実の手首にはめた。
いつも、思う。
自分と比べると、実の手首は、まるで女のように細い、と。
「ほら、行くよ」
一人で歩けるのか心配しながらも、先に立ってドアを開けた。
実は、その場から動くことなく、呟くように言った。
「先に……降りていろ。……薬を作って……から行くから」
「薬? ケンの?」
一日一度、朝食のあとに、健は必ず薬を飲んでいる。
貧血なのだと聞いていたから、そのことを言っているのだろう。
なるほど、いつも実は、志乃を起こす前に作っていたわけだ。
よろめくように、志乃のベッドの足元に設置してある薬棚に向かう実を気にしながらも、志乃は部屋を出た。
「……あれ? ミノルは?」
階段を下りる音に、高志が声をかける。
志乃は、席につきながら、健に言った。
「あんたの薬を作るって。……なあ、あいつ、変だよ」
「変?」
「眠いって。……そんなこと、あったのかい?」
答える代わりに、健は少しの間、考えて、逆に聞き返した。
「オレの薬を用意している、……と言ったの?」
「うん」
「夕べは……何か変わったことはあった?」
変わったこと……と、小さく呟いて、志乃は目を逸らしながら考え、思い当たったのか、また、健に向いた。
「そういえば、眠れないって言ってた。なんか、あいつも薬飲んで寝たよ」
今までにないことをするときには、何らかのメッセージが込められていることを、どうやら志乃はまだ、知らないらしい。
健は、苦笑混じりに言った。
「そのせいかもね」
「……つまり、あれ、睡眠薬かなんかってことかい?」
「ここしばらくは服用することがなかったみたいだけれど」
テーブルに肘をついて、志乃はしみじみと呟いた。
「そうだったのか……。そんな細かいことまではまだ、聞いてねぇからなぁ」
まだ、乾ききっていない黒髪が、ついた肘に絡み付き、彼はうっとうしそうに後ろに流した。
志乃の髪は、柔らかい黒髪だ。実のような、光の加減で緑にも見える、という色ではない。正真正銘、漆黒という艶を持っている。それが、柔らかいゆえに、無造作に伸びているため、体格さえ無視すれば、後ろから見た限り、女性のようにも見える。
絵里は、肩口までのボブカットだが、志乃は彼女より長い。
どちらかというと、夕子の長さに近いだろう。
実の席を挟んだ隣にいた健は、無意識に髪を後ろに追いやる志乃に、優しく言った。
「急ぐことは……ないんだよ。一年という区切りをつけたのはオレの方なんだから。ゆっくりと馴染んでいけばいいんだ」
笑顔と同様の、柔らかい声に、志乃が呆れてため息をつく。
「まったく、変な連中だよ、あんたらはさ」
心外だ、とでも言いたげに隆宏が苦笑する。
その隣にいた高志に至っては、ある意味皮肉混じりの反論があった。
「変なのはおまえのほうじゃないか。ミノルを心配するなんて」
「そっ、そりゃ……」
意識していなかった図星を指されて、志乃は狼狽した。
というより、心配するだけのことをしていたわけだから、変だと思われること自体、おかしいことなのだが……。
「確かに、変だよね」
と、追い討ちをかけるように、隆宏が口を挟む。
「仇討ちをするつもりで内部に侵入することには成功したんだよ、君は……。ミノルの心配をするのは筋違いなんじゃない?」
「だって……それはさぁ……」
と、言い訳をする言葉を探しながら、健を睨み付ける。
「大体、同行を許すか? 普通」
志乃にとって、最初の申し出は、単なる宣戦布告のようなものだったのだ。
石橋圭吾という、仕事仲間であり、無二の親友を殺された恨みを持つものがいることを、健たちに知らしめるためだったのである。
何度か、間接的な攻撃をしたことがあった。
が、メンバーは、自分たちを狙っているものの正体を調べようとはしなかった。
だから、直接姿を見せた。
自分の恨みがどれほど深いのか、大事なパートナーを亡くすという気持ちがどういうものなのか、思い知らせるために、スナイパーという職まで放棄した。
メンバーをじっくり調べあげ、どういう方法が、彼らを一番苦しめられるのかを知るために、志乃はまず、正体を明かし、脅すつもりだったのである。
『あんたたちを絶対に殺す。俺の恨みを、思い知ればいい。しばらく同行させてもらうぜ』
あのとき発した言葉、『同行』の意味は、志乃と、健とでは受け取り方が違っていた。
あからさまに付きまとって、じわじわと追い詰めていくつもりだった志乃を、まさか健が同居させるとは、思わなかったのである。
『やっと来てくれたんだね。待っていたよ』
まして、穏やかな微笑みと共に、そう言われるとは……。
呆れたように息をついて、志乃がしみじみと言う。
「思うんだけどさ、あんた、俺を油断させて、恨みを忘れさせようとしているのか? 案外、それが計画だったりして」
健は、志乃の発想が面白かったのか、笑いだした。
しかし、すぐに目を細めて、志乃のように、テーブルに肘をついた。
「そんなに簡単に忘れられる恨みだったの?」
「まさか。でも、あんたらを見てると力が抜けるよ」
というか、健の態度が、そう言わせている。
こちらがどれだけあからさまに殺気を向けようと、まるで、柳に風だ。何を言っても、優しい微笑みで受け流しているようにしか、見えない。
「……ダメだよ、シノ。そういう考えでは、返り討ちだ。……君は、確かにプロだろう。けれど、人数ではオレたちが勝っているんだ。本当に、ケイゴさんの仇を討ちたいのなら、最後まで恨みを忘れないようにしなければね」
と、諭す。
健と志乃は同い年だ。何ヵ月か、健の方が上という違いしかないのに、どうも彼と話すとき、志乃は、自分がずっと年下に感じてしまう。
どこかで馴染んだ感触を、彼に感じる。それがなんなのかを思い出せないのも焦れるが、仇として狙っている相手に、まるで他人事のようにアドバイスをする、その神経がまず、わからない。
健は、いつも穏やかだ。仇という言葉を、真剣に受け止めた上で、志乃を守って、包み込んでいるように……。
「かなわねぇよなぁ」
この一ヶ月の間、実から、メンバーのことを探りだそうとしたのだが、どうしても、健の真意が判断できない。
直接聞いたところで、返ってくる答えは、一つだった。
『君の願いが叶うようにしているつもりだよ』
最初は、圭吾を殺したという罪悪感から言っているのかと思った。志乃の決意をバカにしているのだとも思った。
本気で相手にしていないという考えも浮かんだ。
挙げ句には、プロのスナイパーである自分には負けないという自惚れか、とさえ思った。
だが、どれも違うような気がする。
「ホント、変だよ」
今は、やはりそれしか言えない。
健の言うとおり、時間をかけて、彼らの真意を突き止めるしかないのだ。
もっとも、それが成功するかどうかは、実の落とし方次第なのだが。
「しっかし……遅いなぁ、ミノル」
いつもは、一番遅く、実に起こされて食卓につく志乃が、自分のことを棚にあげて呟く。
健もまた、自分のブレスレットで時間を確認して、言った。
「そうだね。もう一度呼んできてくれないか?」
テーブルの上には、すでに食事の用意ができている。
夕子も席について、隆宏たちにコーヒーを配って待っていたのだ。
志乃は、自分も気になっていたから、快く腰をあげると、再び部屋に戻った。




