雨に想う
健たちは朝食をとってしまったし、昼食にするにはまだ早かったのだが、ほぼ丸一日、何も口にしていない護のためだけに、実が調理をし、三人で食事をした。
護はまだ、自分の境遇が理解できなかったようで、戸惑いが表情に出ていたが、実も健も、何も言わない。ただ、隆宏たちの様子を話し合っていただけだ。
それが、食事がすむと、実が一人片付けのためにキッチンの中にはいってしまったから、護は居心地が悪か ったに違いない。
洗い物をする前に、健が呼ばれた。
小声での会話は、テーブルにいた護には聞かれたくなかったらしい。
しばらくは何気に窓の外を見ていたが、話が長い、と思った彼は、自分の部屋に戻るつもりで腰をあげた。
「マモル。手伝ってほしいんだ。もう少し待っていてくれ」
すかさず掛かる声に、また、座り直す。
腰をかけているためか、窓の外に見えるのは、遠くにマンションなどの高層の建物しか見えない。が、それが僅かに霞んでいるのは、どうやら雨が降り始めたかららしい。
今度は無意識に席を離れると、そちらに足を向けた。
空はさほど暗くはない。静かな雨だ。
ここは窓が開かないから、護はガラスに顔を近づけて、ぼんやりと、雨の筋を見ていた。
「マモル」
また、声がかかる。
黙って振り向いた彼を、健が手招きをしていた。
「頼むぞ」
短い一言で、ようやく洗い物を始めた実を残し、健は、護を本館の五階に連れていく。
二人とも、資料室は初めてだ。エレベーターホールはさほどの広さはなく、降りて右手にひとつ、左側には、大きな搬入口があった。
迷わず右手側のドアをノックしようとしたとき、それを待っていたかのようにそこが開き、なぜか水木里見が、驚くでもなく健を押しやり閉めてしまった。
「水……」
「失礼しました。資料室にご用でしたね。ご案内しますが、中のスタッフは無視してください。絶対に対応しないでくださいね。お願いします」
「……?」
どういう意味なのかは理解できなかった。
が、護と顔を見合わせて頷く。
水木は、もう一度念を押すと、ようやくドアをあけた。
部屋のなかは、六台のコンピューターが三台づつ、背中合わせに並んだデスクがあり、そこには、六人の女性が座っていたが、水木の後ろにいた健たちの姿を見た途端、歓声と共に腰をあげた。
「お客さんだ~」
「初めての人たちね」
「白木さんでしょ?」
等々……。
彼女たちは、騒がしいまま、我先にと、奥の部屋に入ってった。
水木が、健たちを促す。
「今のうちです。こちらへ」
本当に、どういうことなのかがわからない。
ともかく、健たちは、女性たちが消えたドアとは反対の奥の部屋に通された。
ドアに鍵をかけた水木が、苦笑混じりに改めて彼らに向き直る。
「剣崎さんから聞いています。どのような資料をお求めですか?」
「はぁ……。……あの……」
と、口ごもりながらドアを指差す健に、水木のため息が聞こえた。
「すみません。うるさかったでしょう? 彼女たちにとってはここに来るスタッフはすべてお客さんなんです。今、飲み物やお菓子を大量に用意していますよ」
「お、お菓子? ……それは困るな……」
何しろ、今、昼食をとってきたばかりなのだ。何より、健は菓子やデザートの類いが苦手なのである。まして、食の細い護に無理強いもできない。
断ろうと口を開いた健を見透かし、水木はわかっています、と言った。
「白木さんが甘いものが苦手なことは資料にありました。ですから、スタッフのことは無視して下さいと言ったんです。こちらにはあの娘たちは出入り禁止なんです。作業はここでできますよ」
それを聞いて、思わず安堵した健に、水木はクスッと笑って、入り口側の壁に面したデスクに足を向けた。
「このコンピューターをお使いください。メインコンピューターに繋がっていますから、お望みのものが調べられます。それ、と……藤下さんのほうは……」
「いえ。オレ一人が使いますから、あとは結構です」
「わかりました。……あと、最後にもうひとつ。多分、お聞きしていないと思いますが、こちらのメインルームはあなたがたは出入り自由になっています。これからは司令室を通さずお越しください。ただし、くれぐれもあの娘たちは無視して、ですが」
「……ありがとう。覚えておきますよ」
「では、私は隣にいますので」
彼女が出ていくドアの向こうでは、女性たちの賑やかな声が響いていた。
健は、デスク近くのソファに護を促し、自分は椅子に座ったままで向き直った。
「これから、タカヒロに頼まれた調べごとをするんだけれど、おまえにはオレを見ていてほしいんだ」
「? ……それ、だけか?」
「彼らの仕事が片付くまでは、オレの傍から離れないこと。それがおまえの任務だよ」
護からは、なんの反応もなかった。返事もなければ、疑問を口にすることもなく、ただ、健を見返しているだけだ。
健は、何事もなかったようにコンピューターに向かった。
窓の外が僅かに煙っている。
霧雨のような雨のせいだ。
完全な防音の室内では、雨音と言えば、力なく窓を叩く、細い水の滴のものくらいだ。なんの音も聞こえない空間だから、なおさら、小さな雨音は、降っていることをできる限り主張するように窓を叩いていた。
一人がけのソファに深く体を沈め、実は、シェードが巻き上げてある窓の外に目を向けていた。
しかし、意識はそこにはない。
体は窓のほうに向いている。だが、瞳は遥か遠くを見ているようにも思える。
真正面に建っている本館の窓には、ちらほらとスタッフが行き交う姿が見える。けれど、実の視線は、それらにピントを合わせることなく、ただ、顔だけが正面を向いているだけだ。
ここに来る前は、時間が許す限りこうして、一人座っていた。たった一人だけ残った友人の前でさえ、一言も口を利かず、その存在すら認識していないかのように、心を閉ざしていたのだ。
実には必要なことであった。
レイラーも、友人も、そして、あるいは片想いであったのかもしれないが付き合っていた女性も、彼にとっては所詮、ノーマルでしかない。
ノーセレクトの仲間のために、自分という精神の均衡を保つためには、一人の時間はどうしても不可欠だったのだ。
一人でいることを苦に感じたことはない。
自分の心の中にいる他人が、一人を感じさせなかったからかもしれない。
『……そう、調べてしまったのね……』
今、思えば、『あの時』の電話が、護のことだったのだろう、と、思う。
まだ、レイラー・美鈴千春も元気で、自分も外で友人たちと飛び回っていた頃だ。
じっと、窓の外に目を向けていた彼の心に、当時の、電話でやり取りをしていたレイラーの声が響く。
『うちは幸い、コンピューターには興味がないみたいだから……』
『そういうことにも興味を持たないのよ。……私も、最初はショックだったけど……』
『自殺でしょう? ……あの子の母親は殺人鬼、なんて、知られるわけにはいかないわよ』
“殺人鬼の息子……か。オレに似合っているのかもな”
ここにきて、はじめて実の口許が自虐的に上がった。
“おまえのほうが、マシだよ、マモル。親が他人を殺したわけじゃない。おまえが殺したわけでも……ないんだ”
『オレを……見てくれ……』
レイラーの声が、ふいに護のものに変わった。
まだ、実の体にくすぶっている護の感触を確かめるように目を閉じる。
十年近く、護は孤独だったに違いない。いや……
今もまだ、孤独を抱えている。
その孤独に一度、同化してしまった実にはもう、護を救うことはできないとわかるからこそ、健に引き継いだのだ。
リーダーである前に、健という存在そのものが、メンバーにとっては不可欠なのである。




