思い込みのリセット
呆然と部屋を見渡している実の背後で、健はステレオデッキではなく、ポータブルスピーカーとディスクプレーヤーを用意してきた。
「ずいぶんと……シンプルだな」
護の部屋だ。
彼は、窓際のベッドに、窓のようを向くように腰を下ろして本を読んでいた。
ノックの音に、振り返ったまま、実の姿を見つけ、その彼の一言を聞いたのだ。
シンプル、という言葉の意味が理解できずにいる。
あとから健も入ってきたものだから、彼は思わず本を持ったまま立ち上がった。
健も一瞬、目を丸くする。
「確かに」
彼は、剣崎司令から、壊された部屋の様子は聞いていた。それを取り替えたことも聞いていたが、実際に見てみると、確かにシンプルすぎる。
窓には黒いブラインド、シングルのベッドがひとつ、部屋の真ん中にガラステーブルと、一脚のソファがあり、ベッドの脇にキャスターのついた四角いローテーブルがあるだけだった。
メンバーの部屋は、一人部屋にしては広い方だ。実際、健たちのところには、他に、少なくとも二人掛けのソファが対面に二つ置いてあるし、バスルームに続くドアの側面には、サイドボードも備えてある。それでもなお、人が行き来できるほどのスペースがあるのだ。
なのに、それだけのアイテムがないから、まさにシンプル、という言葉しか出てこない。
テーブルとソファの下の、ラグマットすらなかった。
そして、カーペットすら敷いていないむき出しのウッドフロアでは、夏にも関わらず、涼しげというより、肌寒く感じる。
が、実たちが立ち尽くしたのは一瞬で、訝しげに立ち上がったままの護を無視するように、実は勝手にローテーブルを動かし始めた。
黙々と、ガラステーブルまで部屋の隅に追いやり、手の動きだけで護をどかせると、ベッドまで移動させた。
クローゼットにくっつけるように設置して、ソファをそこに横付けする。
ローテーブルは、ソファの隣だ。
家具の何もかもがほぼ、クローゼット側に追いやられたものだから、部屋の中はほどんど、ガランとした空間になってしまった。
当然のことながら、何事にも動じないだろうと思える護ですら、勝手に自分の部屋のレイアウトを変えられてはいい気はしない。
しないのだが、それよりは、動いているのが実だ、という思いのほうが勝った。
だから、戸惑っている、というほうが正しいのだろう。
プレーヤーとスピーカーをもったまま、健もまた、ドアのところに立ち尽くしている。
彼にしても、実がなぜ、部屋のレイアウトを変えているのかが理解できずにいるからだ。
一度、健のいるドアのところまで下がり、ベッドのある一角を眺めた実は、声だけを健に向けた。
「スピーカーはベッドのほうに向けてくれ」
「了解」
健は、護には注意を向けなかった。言われたとおりにセットすると、ついでとばかりにディスクのスイッチを入れる。
静かな、オルゴールの音楽が流れ始めた。
「これでいい?」
「充分だ」
実は一度、部屋を出ていった。
残った護が、何か問いたげに健の方を見ている。
それに気がついて、彼は首をすくめた。
「おまえの希望を叶えるためだよ。少し待っていて」
「……希望……?」
なんのことだ?
そう問い返す暇もなく、また、実が戻ってきた。
トレイに、いくつかの器具が乗っていた。それと、薬の瓶に、普通のナイフだ。
それをローテーブルの、スピーカーの横に置いて、護に手招きをする。
「ベッドに上がれ」
決して頼んでいるわけではない口調は、有無を言わせない『命令』であった。
だが……。
護が、青ざめて首を振った。
自分がどうなるのか、わからない。
昨日、健から、この部屋がどうなっていたのかを聞いたばかりなのだ。
他の場所ならば、なんということはない。だが、よりによってベッドの上とは……。
彼が、かつてどういう目にあっていたのかを、健は知っているはずだ。
実の声には、容赦がなかった。
「強引に放り込まれたいか?」
棘のある冷たい声に身震いをして、護は、健に助けを求めるような表情を向けた。
が、健は優しく微笑んでいるだけだ。
「ミ……ノル……教えて……くれ。何を……する、つもりで……?」
声まで震えている。
健は、内心ホッとしていた。
やはり、護にも感情があり、時としてそれは、はっきりと表に出るのだということに。
実にだけ向けられる感情の変化でも構わない。それが、抑え込むことなく見られるのであれば……。
もっとも、それも今だけかもしれないが。
実が、護の記憶を封じ込めたときこそ、もう、何の感情も表れることがなくなるかもしれないのだ。
この先、彼がノーセレクトという自覚を持って、生きる意思を持ってくれるようになるまで、どれだけ時間がかかるだろう?
それでも、会って半月も経たないうちに死ぬよりは、遥かにましなのだ。
健の年で二十二年という、長い時間を待ち続けていたのだから。
一向に動こうとしない護に、実は牽制の意味で一歩踏み出した。
その動きに、護が過剰に反応し、逃げようとしたが、ドアのところに健がいる。
「早くしろよ。本当に放り込むぞ」
そう言った実の声が、護には遠くに聞こえた気がした。
それだけ、彼の心の中が混乱していたのだろう。
と、次には、無意識に近い状態で、機械的に足が動いた。
言われるまま、ベッドに上がった彼の精神状態は、恐らく、自己を失っていたのかもしれない。
「オレは部屋に戻っているよ」
遠くで、声が聞こえる……。
実は、いや、と彼を止めた。
「少しの間、ここにいてくれ」
「でも……いいのか?」
「邪魔になったら追い出すさ。ただ、一言も声は出さないでくれ」
わかった、と言いたいところだが、健は最後にと、護を盗み見て、囁いた。
「大丈夫なのか? ずいぶん素直に従ったが……」
「正気にかえるまで待てるだろう?」
「……了解」
実がソファに腰を下ろす。
それから、相当長い間、誰も動かなかった。
ただ、スピーカーから、オルゴールの微かなメロディーが流れ続ける。
やがて、実の声が、部屋に響いた。
「オレが誰だかわかるか?」
健のいる位置からは、護の変化は見えなかった。
しかし、ベッドの傍らのソファに座っていたからこそ、実には、護の瞳の変化に気がついたのだろう。
彼の言葉に、護の顔が動いた。
「……ミノル……」
と、同時に、自分が今、どこにいるのかを把握した。
思わず、体が後ずさる。
しかし、そこにあったのは、クローゼットの扉だった。
実がベッドを移動させたのは、逃げられないようにするためだったのか……。
「落ち着け。何もしない。少しの間、おまえの声を聞きたいだけだ。そのあとで、おまえの望みを叶えてやる」
「……の、ぞみ……?」
「そうだ。おまえが本当に望んでいることを叶える。……わかるな?」
静かで、落ち着いた大人びた声は、いつもの実のものには聞こえなかった。
むしろ、慈愛を込めた優しい声、といえないか……健は、思った。
護の視線が、実から、彼の背後、ドアのところに立っていた健に、気がついたように動いた。
その目が、問いかけている。
『なぜ?』
と。
そして、その問いかけは、小さく、囁くような声に変わった。
「始末は……しないと……生きていろと……」
実が、僅かに振り向く。
一言も口を利くなと言われたことを忠実に守って、健は護に頷いただけだった。
護の視線が、実に戻る。
「オレが、わかるか?」
恐れはあった。しかし、護は、その場からもう、動くことなく頷いた。
「よし。……答えてもらうぞ。……おまえにとって大事なのは誰だ? オレか? おまえ自身か?」
質問の意図が理解できなかったのか、護は眉を寄せ、首をかしげた。
実からは同じ質問はなく、答えを待っている。
「……あなた、だ……ミノル……」
やがて、小さな呟きが聞こえた。
「ならば、おまえが信じているのは誰だ? おまえ自身か? オレか? それとも、他にいるのか? 誰一人信じられないか?」
護の目が、また、健のほうに動いた。
「……ミノル……」
「その名の人間はどこにいる? おまえの目の前か? 心の中か?」
答えには間があった。
目が泳ぐ。左手が口許を覆った。
「落ち着け。気持ちを静めて、考えろ」
「……」
「オレが誰だかわかるか? ……こっちを見ろ」
ゆっくりと、護が実に向く。
「オレは、誰だ?」
「ミノル」
「オレの声が聞こえるな?」
ひどく緩慢な肯定があった。
「オレが見えるな?」
同じ動作で頷く。
「目の前のオレは、おまえの幻か? それとも現実か?」
「……あなたは……ここにいる……」
実は、満足したようにフッと息をつくと、ソファの背もたれに寄りかかった。
肘掛けに両手をついて、足を組む。
「おまえのその目でオレを見るんだ。その耳で、しばらくオレの話を聞いてもらう。……オレは、ここにいる。おまえの全身で、オレのすべてを記憶するんだ。おまえの最期のときまで、一瞬もオレを忘れるな。……できるな?」
やはり、護は頷いただけだった。
「オレは、ノーセレクトだ。それは理解しているか?」
問いかけの意味を図りかねて、護はまた眉を寄せたが、微かに頷いた。
「おまえも、オレと同じだということはわかるか?」
これには、躊躇いの肯定があった。
「同じだということが、嫌なのか?」
驚いたように目を見開き、護は大きく首を振った。
「違う」
「ならば、なにか気に入らないのか?」
辛そうに顔を背けた。
「……申し訳……ない……」
「オレを見ろと言ったはずだ。視線を逸らすな」
静かで、少し低い声。だが、その中に含まれるのは、優しさだ。断言するのではなく、今、実は言い聞かせている。
護が自分に向くのを辛抱強く待ち、また、口を開いた。
「おまえの生が、両親を死に追いやった。生まれながらの殺人者と同じノーセレクトを仲間に持つオレに申し訳ない……そうだな?」
的確に代弁した実に、護がまた頷く。
「それなら、聞くぞ。おまえの親と、オレのどちらが大事なんだ?」
きっと、今まで護は、そのような『比較』を、一度として考えたことがなかったはずだ。
だから、また驚いたように口許が開いた。
即答ではなかったが、じっと待っている実に、そして、ドアのところの健には、聞き取るのに苦労するほど小さな呟きが聞こえた。
「大事なのは……あなただ……」
「覚えていない親を死なせたおまえと、仲間を排除するオレと、どちらが罪深い?」
「……」
質問の真意を心の中に染み込ませた護の顔が、ゆっくりと歪んでいく。
両手で顔を覆って、体を震わせた。
「……すまない……」
「もう一度聞くぞ。おまえが大事なのは、オレか? おまえ自身か?」
答えられるはずがなかった。
両親のことを知ったときから、護は何一つ、変わっていなかったのだ。
実が大切だというその思いは、自分が楽になるための暗示でしかなかったことに、今更ながら気づくとは……。
「マモル、オレを見ろ」
繰り返し、言い聞かせる。
彼が顔をあげるまで、また時間がかかった。
「オレは、ノーセレクトだ。おまえも同じだな?」
辛そうに、小さな肯定があった。
「自分が嫌いか?」
ゆっくりと頷く。
「オレと同じでも、嫌いか?」
「……あなたは……別……」
「同じなんだよ。わかるか? ここにいるのは……オレは誰だ?」
「……ミノル」
「おまえは? ノーマルか?」
僅かに、首が振られた。
「オレは大事な存在か?」
「……わからない……」
「おまえが信じているのは誰だ? オレか?」
また、護の顔が逸れた。
「わからない……」
事態が悪くなっていないか?
黙って立っている健はそう思った。
「おまえは、自分を信じられるか?」
まったく変わらない、低く落ち着いた声に、護は首を振った。
「今、なにを思う?」
護は、顔を逸らしたまま、目を閉じた。
「……消えて……しまいたい……」
「自分でできるのか?」
「……できない……」
「おまえの中に誰がいる? 声は聞こえるか?」
今度は、反応がなかった。
「落ち着いて、おまえの中の声を聞くんだ。誰の声が聞こえる?」
「……」
「目を凝らせ。誰かが見えるか?」
これにも反応はない。
実は、音もなく腰を上げると、健に目配せをして、部屋を出た。
ずっと黙っていた健が、不安そうに口を開いた。
「大丈夫なのか?」
「催眠状態に入りかかっているんだ。オレが呼ぶまで、近づかないでくれ」
「けれど……おまえを信じられなくなったんじゃないのか?」
「そうさせているんだよ」
「どうして……」
「一度、思い込みを壊さなければダメなんだ。とにかく、しばらくは近づくな」
「……わかった」
部屋で待機しているしかない。
そう思って踵を返したが、弱い力で、腕を掴まれた。
「? ミノル?」
振り返ると、実がすかさず抱きついてきた。
「どう、した?」
「すまない……。……やり遂げられるよな? オレに……できるよな?」
健の手が、実の背中を優しく叩いた。
「おまえにしか、できないよ。……信じている。オレも、マモルも、おまえを信じているよ。……大丈夫。おまえなら、できるから」
虚勢という膜を張った、弱さという実の本質は、仲間である護にだからこそ、隠し続けなければならなかったのだろう。
自分の腕の未熟さが不安で、あるいは放棄してしまいたいのかもしれない。
けれど、健の励ましという、新たなベールを纏って、実は静かに彼から離れた。
彼がいれば、自分はなんでもできる。それは、実の自己暗示だった。
実は、振り返ることなく護の部屋に戻っていった。




