集合前 7
翌日の夕方、本部ビルの受付に荷物が届いた。
プラスチックの箱は透明で、その中には一本の瓶が入っている。
箱には送り状が貼ってあり、宛名が『黒沢実』となっているのを見た受付の女性は、躊躇いを伴って部屋に戻った。
このハウスクリーニング部門は男女合わせて十五人のスタッフがいて、受付は交代制だ。
女性は、昨日の駒田梓のように制服が支給されているが、それを着るのは大体半月に一度というローテーションになる。
今日の当番である彼女は、部屋に残っているスタッフに荷物を見せて相談を持ちかけた。
実がここに来たのは今朝のことだ。
道路から玄関に至る小さな階段を誰かが上がるとチャイムが鳴るので、彼女は受付に出て、客の到着を待っていた。
その前を実が通りすぎたのだが、彼女の挨拶にまったく無反応で行ってしまった。
二度目に見かけたのは、それから十五分ほど経っていただろうか。
エレベーターから降りてきたのを見て声をかけたのだが、彼はやはり一瞥もせずに裏に消えていった。
そんなことがあったため、かなり印象が悪かったのだ。
昨日は、駒田が三人のメンバーに対応した。
三人とも気さくに話しかけてくれたと聞いて、今日の当番を楽しみにしていたのだが……。
さんざん迷ったあげく、スタッフの男性一人が受付カウンターに足を向けた。
部屋に連絡をかって出てくれたのだ。
スイッチ横のオープンスピーカーからコールが聞こえる。
三回、四回……そして、五回目の途中で途切れた。
が、スピーカーからは何の反応もない。
普通、返事の一つくらいはあるものだ。
困惑した女性と顔を見合わせて、男性スタッフがマイクに向いた。
「黒沢さん、荷物が……」
途端に、通信が切れた。
「なっ……」
「切れたわね」
「すげぇな。想像以上に気難しいぞ。どうすりゃいいんだ? これ……」
部屋から他のスタッフも出てきた。
話は聞こえていたらしい。
「持っていくしかないんじゃないか?」
という一人に、受付の女性が震え上がる。
「あたし、嫌だわ。怖そうだもん」
「でも、そうするしかないだろう?」
言いながら女性を見下ろして、最初の男性スタッフは息をついた。
「いいよ、俺が持ってく。対応したのは俺だし」
「ごめん、頼むわ」
とはいえ、やはりすぐに動くのに躊躇する。
それをごまかすために、箱に視線を落とした。
「これ……なんだろ? 水……なわけないし」
「ねえ、この瓶、理科室とかで見たことない? 何かの薬じゃないかしら?」
「薬? ……だって、こういうのを持つには免許とか必要なはずだぞ?」
「確か、ノーセレクトって何でもできる人たちでしょ? 医者の免許くらい持っていそうじゃない。それに、ほら……あの人の荷物、割れ物や危険物の扱いだったって……」
部屋の担当は、最初は女性スタッフだった。
彼の荷物の到着が昨日の夕方のことで、そのときに取り扱いに気を使ったことを部門のチーフに報告した。
チーフはそれを司令に伝え、そのときに何らかの通達があったのだろう、チーフ自らが部屋を担当するという変更が、今朝のミーティングで発表された。
「じゃ、やっぱり薬かな?」
嫌な予感がする、と男性スタッフは言った。
この先も、こうして実宛の荷物が届くのではないか、と。
そう思うとゲンナリしてしまいそうな気持ちに気合いを入れて、
「仕方ない、行ってくるよ」
と、カウンターを回り込む。
「ホント、ごめんね」
手を合わせて拝みこんだ彼女を横目に一歩踏み出したところで、裏に続くドアが開き、実が入ってくるのに気がついた。
「あ、来た」
実は真っ直ぐ受付に歩いてくると、二人のうちの男性の前で立ち止まり、黙って手を差し出した。
どうやら、荷物が届くことは承知だったらしい。
「黒沢さん、これが届いています」
無言の態度に圧倒されながらも、箱を差し出す。
受けとるなり、実は箱を開けた。
中身だけを取りだし、透明の緩衝材を剥がし、箱とそれを突き返すと瓶を透かして光にかざしたが、やがてそのまま引き返しはじめた。
「黒沢さん、この箱は? メモのようなものが見えますが?」
返事はなかった。
本部側と違って、別館にはエレベーターが一基しかない。
隆宏は、ホールに向かった。
上に向かうスイッチを押して、階数の表示を見上げる。
一階のランプが、二階で止まった。
ドアが開く途中で乗り込む……つもりだった。
「あっ!」
中に誰かが乗っていたのだ。
相手も、開ききらないうちに出ようとしたらしいが、勢いは止められなかった。
ぶつかった途端に、何かが割れる鈍い音が響いた。
「す、すみません」
見ると、エレベーター内部の床に割れたガラスと散らばった液体が、相手の足元に広がっている。
隆宏は、慌ててしゃがみこむと破片を拾おうとした。
「触るなっ!」
「え? あ……痛っ!」
頭上から怒鳴られて思わず見上げた拍子に、ガラスが指に触れた。
咄嗟に抑えた彼の右手の、親指と人差し指に赤い線が走った。
「切ったか?」
屈みこんだ相手に頷く間に、彼の指から血液が滴になって落ちた。
しかし、痛みはさほどではなかったから、
「大丈夫です。ちょっと切っただけですから……」
と、傷口を口に持っていこうとしたその手が、強引に掴まれてしまった。
「来い」
静かな声とは裏腹に強すぎるほどの力で右手首を掴まれ、隆宏はそのまま引きずられるように連れ込まれたのは……。
実の部屋ではないか。
いきなりのことだったから、医務室が本部側にあることを忘れていたのは事実だが、スライドするドアから押し込まれたとき、彼は慌てて相手を止めた。
「ちょっと、待って! ここ、ミノルの部屋ですよ?」
「それがどうした?」
「どうした……って……まさか、君がミノル?」
呆然とした一瞬に、実も中に入るとドアに鍵をかけ、そのままソファに隆宏を座らせた。
彼の左手を掴んで、右手首にあてがう。
「そのまま抑えていろ。力は抜くな」
そして彼は、窓の収納棚を開けた。
中からいくつかの器具と薬を取り出す様子を、隆宏は唖然として見ている。
信じられなかったのだ。
送り続けられていたデータで、精神数値がいつも最低だった実という男を、隆宏は弱々しいイメージとして捉えていた。
昨日のうちに高志と打ち解けて実の話題になったとき、やはり二人とも同じイメージを持っていたという結論になった。
となると、フォローの必要性はでてくる。
だが、その必要は……あるのか?
最初に怒鳴られたものの、そのあとの声はそれほど大きくはなく、だがそこには想像した弱さも感じない。
突き刺すように向いた、きつい瞳も、見事に想像を裏切っていた。
同じ棚から取り出した小型のトレイに器具を乗せて戻ってきた実は、隆宏の隣に座って、手首を握らせたままの右手を引き寄せると、液体を染み込ませて傷の部分を軽く拭き取った。
すぐに血液が浮かび上がるが、それでも傷自体は浅く、痕に残るようなものではなかった。
しかし、実は安心する様子もなく、むしろ難しい顔をして薬を塗りはじめた。
薬箱によくあるような普通のチューブに、隆宏のほうが気楽に笑う。
「こんな傷ならテープを貼るだけで充分じゃない?」
だが、それだけでは終わらなかった。
一度隆宏の目を覗き込んで、実は席を立つと、今度は別のトレイを持ってきて、そこに乗っていたスプレーを二の腕に吹き付けて注射まで施したのだ。
前触れもなかったことだ。
「……もしかして……あの液体は悪いものだったの?」
ようやく、不安になってきた。
エレベーターではあっという間にぶつかったから、相手が何を持っていたのか、いや、何かを持っていたことすらわからなかった。
床に散らばったのが透明な液体だったから、水かなにかだと思っていたのだ。
実は、答えを言う代わりにソファから降りると、自分の腕時計に目を落として、隆宏の前に膝をついた。
下から、隆宏の瞳を覗き込む。
「オレの姿がハッキリと見えるか?」
「う、うん。……君……ミノル、だよね?」
「めまいは?」
「……ない……」
どうも、隆宏の質問に答える気がないらしい。
何かを汲み取ろうとするかのように、隆宏をじっと見上げていたが、実は、
「手首……もうはずしても構わない」
と、呟いてようやく腰を上げた。
テーブルの上に乗った器具や薬を元の棚に戻し始める。
「ねえ、ミノル、エレベーターの破片をどうするの?」
どうせ、これにも反応はないだろうと思いながら隆宏が言った。
ちょっと指を切っただけでこれだけの騒ぎなのだ。
あのまま液体を放っておいていいはずがないことに、実は気づいているのだろうか。
言われた実は一瞬、隆宏に視線を流したが、やはり返事もせずに棚の扉を閉めると、今度は窓際のベッドに無造作に置かれていた電話を取り上げた。
すぐに相手が出たようだ。
「キャップ、エレベーターの中で薬を割った。始末を頼む」
なにか返事があったらしい。少しの沈黙のあと、隆宏に背を向けた。
「……手が滑っただけだ」
と、声を抑える。
隆宏の名は出なかった。
というより、自分の方は名乗ってもいないのだから、誰だかわからなくて当然か。
実際、ここに連れ込まなければ隆宏自身、彼が実だとは気づかなかった。
スタッフの一人だと思い込んでいたのだから。
「……素手では触るな。あれは……」
一瞬、言い淀んだように見える。
しかし、すぐに続いた。
「強い薬だからな」
これは、隆宏を気遣ってのことではないか?
しかし、それが判った途端、隆宏は逆に不安になった。
だが、実のほうは構わずに電話を切ると、すぐに隆宏の元に戻った。
先程と同じように膝をつき、今度は彼の眼鏡をとって、直に瞳を覗き込む。
「処置は早くしたつもりだが、少しの間、ここにいろ。どこに行くつもりだったかは知らないが、キャンセルしてくれ」
「それは……構わないけれど……どうせ食事にいくだけだったから。それより、聞いてもいい?」
「薬のことか?」
「それもあるけれど……」
目を少し細めて実を見返したものの、隆宏はふと、右指の傷口に目を落とした。そして、決したようにまた、実を見返す。
「あのさ、君、オレが誰だかわかっているの?」
自分のほうは相手を特定できたが、実にはまだ、名乗ってもいないのだ。
明後日には全員が会うとはいえ、今は互いの顔を知らない。
実は、小さく鼻を鳴らした。
「知るものか。興味もない。ケガをしたから連れてきただけだ」
「ひどい言い方だなあ……。仮にも……」
突然、口許を押さえられ、隆宏は思わず声を引っ込めた。
実が、一度息を吸い込み、目を閉じる。
しばらくして、何事もなかったように手を離して、立ち上がった。
見上げた隆宏に映ったのは、微かに、口元に笑みを浮かべた実だった。
「おしゃべりがしたければ、他のやつを探すんだな、タカヒロ」
「……やっぱり知っていたのか。嘘つき」
「知らないと言ったはずだ。興味もない、ともな」
「なら、どうして?」
隆宏に対して、実は呆れていたのだろう。
あからさまに、バカにしたため息が聞こえた。
「おまえの言い方でわからない奴がいれば、よほど間抜けだ」
きょとんとした隆宏は、すぐに視線をさ迷わせて自分が何を言ったのかを思い出そうとした。
しかし、心当たりがない。
「……わかるような言い方をしたかなあ? 名乗らなかったよね? オレは、君をスタッフだと思い込んで……」
「もう、黙れよ」
迷惑そうに遮った実にとって、相手が誰であろうと煩いだけらしく、対峙していたから仕方なく答えたのだという言い方だ。
隆宏は、気まずくソファにもたれた。
何気に天井を見上げる。
高志とは、彼の話好きを知ってすぐに打ち解けた。
それに、今日の午後に来た絵里にも会うことができたため、遅めの昼食を一緒にしたのだ。
彼女もまた、高志同様、よく話をする。
というより、高志のおしゃべりや隆宏との会話に、そつなく合わせてくれた。
訓練や教育で、いつも成績を見比べては励みにしていたという心境も同じだったため、メンバーが集まる日を楽しみにしていたというのも、同様だったという。
それは、話の流れでわかったことだが、やはり皆が呪文のように、『ノーセレクト』という言葉と共に育っていたからだろう、友人や知人は多かったが、心から馴染めなかったそうだ。
同じ雰囲気をもつノーセレクトだから、会った瞬間に懐かしささえ覚えたのは、自然な成り行きだった。
しかし……実にはそれがないのだろうか。
体の具合を聞いた以外、彼のほうから話題を振ろうとさえしない。
「……オレ……部屋に戻ったほうがいいんじゃない?」
正直なところ、こうして一つの部屋で無関心でいられるより、一人でいたほうがマシだ。
実にしても、そのほうがいいのではないかと思っての提案だったのだが、なぜか、否定された。
「邪魔ならば、オレがいなければすむことだ。今は動くな」
もう一度時計を見て、彼はキッチンに足を向けた。
「何か、欲しいものはあるか? ただそこにいるのも退屈だろう?」
どうも、一言が引っ掛かる。
隆宏は、テーブルに置いてあった眼鏡をかけ直してキッチンを振り返った。
「確かに退屈だよ。君がもっと話してくれればいいんだ。ここは君の部屋じゃないか。嫌味だよ。オレはさ、君が嫌なんじゃないかと思って言っているんだよ。動くなというのなら、欲しいのは君の話。他はなにもいらないよ」
「話すことはなにもない」
キッチンの中から、声が洩れた。
「それでもいいよ。君がここにいて、オレに付き合ってくれたら」
尚も食い下がる。
少しでも話をすれば、あるいは相手の性格が少しでもわかるかもしれないのだ。
それに、隆宏にはまだ、聞きたいことがある。
答えはなかった。
しかし、しばらく待っていると、トレイを片手に実が戻ってきた。
まず、テーブルにコースターが敷かれ、その上にオレンジジュースのグラスを乗せて、ストローを隆宏の目の前に置く。
そのまま外に出るかと思いきや、彼はテーブルを挟んで隆宏の対面に座った。
無言で隆宏を見返す。
それがたまらなく、彼はストローをグラスに差し込んで、オレンジジュースを半分ほど空けると口を開いた。
「君は医者なの?」
「違う」
「でも、強い……薬っていったじゃない。免許を持っているんだろう? さっきは注射までしてくれたし。それともあの薬、医務室から持ってきたものだったわけ?」
「いや」
感情のこもらない、静かな返答に、隆宏が息をつく。
「あのさ、もう一言ずつ位、余計に答えてくれない?」
「言ったはずだ。話すことは、ない。おまえに付き合う義理もな」
取りつく島もないというのはこのことだ。
隆宏は、小さく首をすくめると、残りを飲み干した。
「あの薬……一体なんだったの?」
「調合薬」
「どこか悪いのか?」
一言でも答えれば、こうして畳み掛けるように質問をしてくる。
それが嫌で黙っていろと言ったのだが、隆宏のほうは諦める気がないらしい。
実は、うんざりとした顔で目を閉じた。
エチケットとして、出るほうが先だということが身に付いていた実にすれば、責任は隆宏のほうにあるのは確実なのだが、かといって、それを責めるつもりはなく、また、まったく実に責任がないわけでもない。
中身だけを持っていたことも原因なのだから。
そうなると、確かに中身を聞く権利はあるのだ。
だが同時に、話はそれだけではすまなくなる。
そういう類いの薬だ。
苛立ちはじめた気持ちを抑えて、実は仕方なく口を開いた。
「おまえのいうとおり、医師免許を持っている。それを口外しないというのなら、薬の中身を教える。約束するか?」
「秘密、ということ?」
確認を求め、隆宏は僅かに躊躇った。
しかし、すぐに、
「判った。約束するよ」
自信のない約束だったが、そう答えた。
どのような形であれ、これは、実が話そうという気になってくれたということだ。
無駄にしたくない。
身を乗り出した隆宏とは逆に、実はソファの背にもたれかけ、抑揚のない声で言った。
「おまえに影響はないとは思うが……」
と、自分の言ったことを確認するように、また、隆宏の瞳を覗き込む。
だが、それきり口を閉ざしてしまった。
たまらなく、隆宏は言った。
「もったいぶるなあ。教えてくれよ」
「……麻薬」
「……嘘……」
思わず、右手の傷に目が移った。
実感として驚いたのは、そのあとだった。