ミノルという記憶 11
朝の光の中、芝は人数分の魚を焼いていた。
今日もいい天気だ。
その分、暑さはますます激しくなるだろうと予想できるほど、外の青空は鮮やかだ。
テレビがついている。ここに勤め始める前の習慣通り、自分の家族を送り出したあとの時間は、特定の番組を観ていたため、それを観ながらの調理だ。
そこに。静かなスライド音がして、健が入ってきたのが目の隅に入った。
「あら、おはよう」
彼女のハキハキとした声に、健は返事もせず、席に着くなり、テーブルに突っ伏した。
「ど、どうしたんだい?」
コンロの火を止めて、芝がキッチンを回り込んできた。
途端に、
「さ、酒臭いねぇ」
と、思わず顔をしかめるほどの匂いが、彼から漂ってきたものだから、芝はてっきり、酔っぱらっているのだと思った。
しかし、健は体を起こすと、弱々しくだが、しっかり彼女を見上げて、
「すみません、コーヒーをお願いします」
と、しっかりとした口調で言った。
「酔いざましかい? それなら味噌汁でも……」
「酔っていませんよ。大丈夫。コーヒーを入れてください」
確かに、声も態度も酔っているようにはみえない。
芝は、首をすくめるとキッチンに戻った。
やがて、健が頬杖をついて、窓の外を見ている傍に、カップが置かれた。
「ありがとう」
スティックシュガーと、ポーションタイプのミルクも添えてあったため、ミルクだけを入れて、だが、それに口をつけることなく、また、窓にぼんやりと視線を戻す。
やはり、どこか酔っているのかと呆れながらキッチンに入った芝は、魚に火を加えながら、しばらくして口を開いた。
「疲れているのかい?」
返事は、肯定するようなため息のあとだった。
「そうかもしれません」
という、曖昧なものだったが。
「寝ていないとか?」
「そうですね」
否定はしないものの、やはり曖昧な答えで、会話に乗ってくるでもない。
結局、それきり、二人の間には、魚を焼く音しか漂わなかった。
家庭用のキッチンとはいえ、芝がここを気に入ったひとつは、保温用の棚があったことだろう。
七人分の料理を、一度に作れるものばかりではない。今回の魚など、少しずつしかできないものは、保温棚で、冷めないようにできる設備があるのはありがたく、彼女は、黙って次の調理にかかった。
そして、あらかた仕上がった頃、申し合わせたように隆宏たちが入ってきた。
夕子がその中に入っていたのは、彼女自身も隆宏たちに同行するからで、自分なりに準備をしていたようだ。
そのため、昨日のうちに、大分慣れたのだろう、少しはにかみながらも、芝に、
「お手伝いができなくてごめんなさい」
と、積極的に頭を下げることができた。
当然、芝が気にするわけがない。
「今からでもいいよ。配膳を手伝ってくれるね?」
夕子の返事は明るかった。
それぞれ席についていた隆宏たちだが、実の姿がないことを健に問いかける。
彼は、それには答えず、護を呼んだ。
「肩の調子はどう?」
彼の返事は、軽く右腕を上げただけだ。
にも関わらず、どういう疎通があったのか、健は優しく頷いた。
「まだ、シップは残っているよね?」
僅かな肯定の返事。
「じゃ、張り替えておくようにね。それから、食事が済んだら、部屋で待機していてくれ。本来の部屋に戻ってもいいから」
「あれ、じゃ、やっぱり部屋が違っていたんだ?」
すかさず口を出してきたのは、やはり高志だ。
昨日、自分の部屋に健たちの食事を部屋に運んだことから、彼らには声をかけなかったのだが、高志や隆宏は、護の部屋に声をかけたというのだ。
しかし、返事はなく、仕方がないので、ブレスレットで呼び掛けた。
すると、夕子の隣の部屋から出てきたので、訝しんでいたそうだ。
しかし、護が答えるわけもない。
疑問を抱えながら、ここに来たわけだ。
そのため、恐らくは人一倍好奇心が旺盛だと思わせる表情で、高志が、
「何で違う部屋にいたわけ?」
と、答えてくれそうな健に尋ねたのも、自然なことだった。
この会話の合間にも、テーブルの上に、料理が並べられていく。
健は、ついていた肘をはずして、言った。
「ちょっと、使える状態じゃなかったらしいよ。ヨコハマにいる間に直しておいたみたいだけれど、それをマモルに伝えていなかったらしくてね。オレも、ついさっき、キャップから聞いたところだったんだ」
「なんでまた、そんなへまをしたんだ?」
返事は、健の、肩をすくめる動作だった。
自分に聞かれてもね、と、表情も言っている。
もっとも、そんな話題は、些細な好奇心だったようだ。
テーブルの上に料理が並ぶと、高志はすでに、そちらに注意が向いた。
そこで健が、話は終わりだとばかりに席を立つ。
結局、コーヒーに口をつけることなく、
「芝さん、すまないけれど、二人分を部屋に持っていきますから」
と、言った。
が、彼女は、途端に難しい顔で、キッチンカウンターから身を乗り出した。
「ワゴンを戻していないじゃないの。どうやって持っていくつもりだい?」
「え? ……あ、忘れていた……。すぐに持ってきます」
「あたしが行ってきてもいいわよ?」
何となくわかってきた。健は、些細なところが抜けているのだ、と。
だから、絵里が快く腰を上げたのだが、健は、それを断った。
「すまないね。でも、いいんだ」
「ミノルに怒られるんじゃないか?」
と、心配そうに言った隆宏にも、
「今、それどころじゃないよ」
そう、笑いかける。
これもやはり、時おり見受けられた頑なな、それでいて柔らかい拒否に、もう、誰も何も言えなかった。
ワゴンを三階に運び、器を入れ換えて部屋に戻る。
実は、健のベッドに横になったままだ。
顔を覆うように、腕を乗せている。
「食べられる?」
と聞いた健に、そのまま首を振る。
「まだ、整理がつかない?」
「そんなに……簡単じゃ、ない……」
絞り出すような声だ。
しかも、それさえ言ってはいけなかったことのように、もう片方の手で、口許を押さえて、体を丸める。
実際、彼の心のなかは、爆発しそうなほどの護の想いが詰まっていた。
夜が明けきらないうちに日記を読み終わったものの、そのときはさほどのダメージはなかった。
ノーマルである保護者、高木浩二郎の日記だったからか。
二ヶ月もの監禁生活を、どうやって抜け出したのかは護自身が覚えていない。
ただ、その間に受けていた扱いは、体にも、心にも、消すことができない傷を彼に残した。
何事においても完璧であった、ノーセレクトで一番の彼が、他人に、指一本でも触れられたら、自分の能力も忘れはて、無様に逃げるしかなくなるほどの体験をしたのだ。
しかし、日記には詳細はなかった。
恐らく、保護者自身、書くに忍びなかったのだろう。で、なければ、自分の思いだけを文字としてぶつけることしか方法がなかったか。
だからこそ、実は、さほどの変化もなく読み終えることができた。
いずれにしても、実の様子を伺いながら待っていた健は、とりあえず胸を撫で下ろした。
彼の特異体質に対処できるとは思えなかったが、それでも、一人で読ませるよりは、誰かがついていたほうがいいと思ってのことだったが、待っている健も、相当神経を使ったのは確かだ。
だから、落ち着いた声で、
「ディスクを聞かせてくれ」
と、彼に言われたとき、このままならば大丈夫だろうと、躊躇いなくディスクをセットし、ヘッドホンを渡した。
しかし……その考えは、甘かった。
護の声がした途端、実は乱暴にヘッドホンをむしりとったのだ。
確か、健の記憶では、最初は誰かが歩くような、衣擦れの音がしばらくしていたように思う。だから、時間的に言えば、実が聞いたのは、護の、第一声ほどのタイミングではなかったか。
『最初に声をかけられたのは……本屋に行く途中の、雑踏の中でした……』
まさか、たったそれだけの声で、苦しそうに顔を歪ませ、胸を押さえて震えるとは……。
「ミノル?」
一時停止にして呼び掛けたものの、実の返事があったのは、相当な時間のあとだった。
「き……つい、な」
「やめる?」
落ち着こうとしているのか、息を止めて、ゆっくりと首を振る。
やがて、一気に吐き出して、また、ヘッドホンを取り上げた。
「油断した。……これは、あいつの告白なんだな?」
「そう。……どうする? やめるか?」
「いや、続けてくれ」
日記を読むことができたため、軽く考えていた自分を戒めるように彼は、何度か深呼吸を繰り返し、気合いをこめて、またヘッドホンをつけた。
彼の目配せと共に、健がポーズを解除する。
しかし、どれほど覚悟をしようと、気合いを入れようと、容易に聞けるほど簡単な告白では、なかった。
実の感情が、聞き進んでいくほどに変化していく。
止める間隔が次第に短くなり、その逆に、落ち着こうと努める時間が長くなる。
護の痛みも、苦しさも、そして、ある意味別の快感も、実は、ディスクの、淡々とした護の告白と言う声だけで受け入れてしまったのだ。
健の耳にも、まだ、鮮明に残っている。
角のない、丸く甘い護の、消え入りそうなほどの小さな声の中に、溢れても尽きない、実へだけ向いている、一途すぎる想いが……。
人は、こんなにも一人の人間を想うことができるのか。
そこには、言葉にできないほどの切ない、護の気持ちが詰まっていたのである。
彼が、二人のレイラーから実という存在を教えられ、生きる気力とともに、目標まで見つけられた年数は、決して短くはなかった。
なのに、たった一人の男と、二ヶ月という時間に、すべて奪われてしまったのだ。
しかも、強引な拉致などではない。護は、その男を信じてついていってしまったのだ。
画家という男の、モデルを求められたからといって、確かに最初は簡単には信用しなかったという。
元々寡黙だった護だが、当時から、実の盾になるという思いは強く、それ故に、何事にも完璧を目指していたからこそ、あらゆる知識を必要としていた。
それが、どれほど些細で、必要のない知識だったとしてもだ。
芸術というジャンルの、何に彼が興味を示したかは語られていない。だが、紳士的に接してきた男の、護が持っていなかった知識が、彼を油断させたのは確かだ。
その上、幼い頃に、次第に人付き合いをしなくなっていった彼には、男の真意がどこにあったのか、理解できなかったといえる。
何度も通ううち、少しずつ信じていくようになった彼が、ある日突然豹変した男の本性に対処できなかったのも、人生経験の差が、大きく開いていたからなのだろう。
二ヶ月もの監禁、その間に、彼は男に犯されていた。暴力という痛みと共に植え付けられた快感に、護の精神は、壊れていったのだ。
逃げることができたのか、それとも解放されたのか、それすら、当時の護には記憶がなかった。
かろうじて、今、彼はこの別館にいる。
そこまで精神を回復させたのは、鶴野玲、彼らの主治医だったが、彼の声が録音されているディスクを、実はまだ、聞いていない。
護のディスクだけを聞いて、ベッドに倒れ込み、必死で心を整理しようとしている。
声をかけられることすら拒否をするように体を丸めている実に、すまないと思いながら健は、ワゴンの料理をテーブルに並べていたが、それがすみ、ソファに腰をかけたところで、机の上の電話が鳴った。
実に気兼ねをして、急いで受話器をとると、相手は剣崎司令だった。
『鶴野くんが来たよ』
「はい。すぐに行きます」
受話器を置くと、健は、
「ミノル、司令室に行ってくるから」
と、囁くように言って、部屋を出た。




