ミノルという記憶 8
散策するだけの、緩い歩調で、絵里たちの後ろ姿を眺めていた実のブレスレットが鳴った。
初めての作動に、最初は、場違いな音が聞こえる、と、周囲を見渡してみたが、パラパラと目につく人たちの誰一人、何の反応も示さない。
低い位置から聞こえると気づいたとき、ようやく、自分のブレスレットの音だとわかった。
スイッチを入れて、耳に当てる。
相手は、健だった。
『用事が済んだから、今から帰るよ』
実は、それをそのまま、目の前を歩いている二人に告げた。
絵里が、彼の傍に引き返す。
ブレスレットに顔を近づけた。
「ケン、頼みがあるのよ」
実の腕が、そのまま彼女の耳元に移動した。
『何? エリ』
「買い物をしてきてちょうだい」
「お、おい……」
健には何もさせないと決めた実の目の前で、堂々と言った彼女を見過ごすわけがない。
が、彼女は実に、わかっていることを目配せした。
「どうせ、あんたに言っても、品物なんてわからないでしょう? そこにタカヒロたちはいる?」
『いるよ』
「あたしがいうものをメモさせて」
『いいよ』
彼女は、ご丁寧に店の名前と、そこで何を売っているのかを次々に並べていった。
それは、すべて口にはいるものばかりだ。飲み物、食べ物、持って帰るだけでもかなりの量になりそうだ。
腕をとられたまま彼女の注文を聞いていた実が、唖然とするほどだった。
「あんたたち、ブイトールで帰るの?」
向こうでは、高志が何やら文句を言っているのが聞こえた。
『いや、のんびり帰るつもりだけれど』
「あ、そ」
軽い返事のあとで、彼女が視線を泳がせて聞き耳をたてた。
「ちょっと、タカシに伝えてくれる? あんたの分を買わなければ軽くなるわよ、って」
しばらくの沈黙のあと、彼女は満足そうに笑った。
「じゃ、お願いね」
実に代わることなく、スイッチは切られた。
「大量のオーダーだな」
彼女は、途中からこちらに戻ってきた夕子に笑いかけた。
「料理が趣味なら、いいものを食べなければ、参考にならないわよ。チバにいたときは結構買い込んでいたの。お勧めのお菓子も入っているのよ」
夕子も嬉しそうだ。
「私、あまり市販のものを買うことがなかったんです」
「それなら尚更ね。あんたへのお土産だと思えばいいわ」
お土産、と聞いて、彼女は思い出した。
困ったように二人を見上げる。
「資料室のスタッフからいただいたお土産……置きっぱなし……」
「あら、そういえばそうだったわね」
「どうせ、スタッフが引き上げるだろうさ。放っておけばいい」
実は、ブレスレットで時間を確認すると、二人に言った。
「買い物をしてからだと、戻るのは夕方だろうな。どうする?」
「そうねぇ。小休止したいわ。駅の方に行かない?」
二人はまだまだ元気だ。
本当に、保護者の気分だな……実は、首をすくめて、出口に足を向けた。
「芝さん、肉まんがくるわよ」
絵里の抜け目のないところは、どうせ別館に戻ったところで、何もすることがないと考えたことだ。
駅の方に行った、理由のひとつは、映画やドラマのディスクを買うためだった。
実は、自分の体質を充分、理解している。
店内に、いくつものディスプレーが置いてあり、別々の映画を写し出しているのがウインドウ越しに見えたとき、二人を店内に促して、暑い中、外でただ、立って待っていた。
結構な時間、待たされた挙げ句、ビニール袋の中から、何を買ったのかを見せようとした絵里は、実が、興味がないと言っただけに留まったことに、首をすくめた。
もっとも、彼が待ちくたびれて不機嫌にならなかった代わりに、
「君は、一番の浪費家のようだな」
と、呆れてはいたが。
そのあとすぐ、別館に戻ってきたのである。
最初は、彼女の部屋で観ることを提案したが、夕子が、リビングを指定したので、二人でそちらに向かった。
当然、実はいない。
興味がない、の一言を繰り返し、その代わりに今度は、護を誘ったらどうだと提案されたので、三人で、芝が来るまで、観ていたのである。
顔を覗かせた芝に、開口一番に言ったのが、挨拶ではなく、
『肉まんがくる』
という一言だった。
「はあ? 肉まんが……来るって? 何のこと?」
「ケンたちも戻るのよ。ヨコハマに行っていたから、買い物を頼んだわけ。お茶も紅茶も、中国菓子も頼んであるわ」
芝は、窓際に置いてある引き出しからエプロンを抜き出して、呆れ顔で言った。
「まさか、肉まんを夕食にしろと言うつもりかい?」
「あら、ダメかしら?」
「それだけじゃねぇ。あれはおやつだろう?」
「食べたかったのよ~。久しぶりなんだもの」
妙な甘え声に、思わず夕子が笑う。
もちろん、芝も、持ち前のおおらかさ……というより、まさに、『おばちゃん』という笑い声を響かせた。
「しょうがないねぇ。でも、夕食には勧められないよ。ご飯のあとで蒸かしてあげるよ。それでいいでしょう?」
嬉しそうに含み笑いを向けて、もうひとつ、と、彼女は言った。
「あんかけ焼きそばは夕食になるでしょう? それも頼んでおいたから、野菜だけを用意しておいてよ」
「他にはないのかい?」
「春巻きと小籠包にエビ餃子」
「そんなに買ってきて、食べきれるのかねぇ」
ともかく、今日は強制的に中華のようだ。
それなら、健たちが戻ってから、足りない食材を揃えればいい。
彼らに冷たいジュースを用意して、自分にはお茶を入れる。
「何を観ているんだい? あたしも混ぜてもらおうかね」
「大丈夫? ホラー映画よ?」
「あらま」
どうやら、始まってさほど経っていないのか、淡々とストーリーが進んでいるだけのようだ。
しばらくは、四人とも黙って観ていた。
だが、中程になると、さすがに芝が小さく悲鳴をあげながら、所々顔を逸らし始める。
夕子も同様だった。いつの間にか、絵里の腕にしがみついていたのだ。
絵里はそんな彼女に、
「そんなに怖い?」
などと、むしろ面白がっている。
護の表情は相変わらずだ。
三様の彼らに、芝は、内容を追うことを放棄したらしい。
ポツリと呟く。
「仕事柄……平気なのかねえ」
と。
健から、彼らの仕事を聞いた彼女の、無意識の言葉だったが、三人が反応し、視線が集まったことに気がついて、慌てて身を引いた。
「あっ、ごめんよ。悪いことを言ったわね」
対し、絵里は別段気を悪くしたわけではなかった。
護などは、何かが聞こえた、程度で、またテレビに目を向ける。
絵里の、含み笑いが聞こえた。
「芝さん、仕事のせいじゃないのよ。あたしは所詮、作り物だと思っているだけ」
そして、彼女は体の向きを変えて、芝の方に肘をついた。
「その言い方だと、あたしたちが何をしているのか、知っているみたいね」
芝は、すまなそうに頷いた。
「白木くんから聞いたよ。そのあとで、剣崎さんからもね」
「だとしたら、あたしはあんたのほうに驚くわ。平気なの?」
「それがねぇ、平気なんだよ」
クスクスと、絵里が笑う。
「ホラーが怖くて、現実の人殺しは平気というわけ?」
途端に、怒ったように芝がテーブルを叩いた。
「自分を卑下しないの!」
真剣な叱咤に、絵里も、そして画面に向いていた夕子も目を丸くした。
芝が、息をつく。
「……なんていうか、実感がないのよ。こうして話していると、普通の子たちじゃない。そりゃ、最初に白木くんから聞いたときは驚いたし、怖かったけどね。……でも、あの子、あたしの料理をうまそうに食べてくれたのよ。あんたたちもそう。特に、佐竹くんはよく食べてくれるじゃない」
軽く、胸をそらして、彼女は続けた。
「あたしは、ここの賄いだからね。料理を出すのが仕事。そう思えば、あんたたちも、その辺の子たちと変わらないよ」
ただ、心配がひとつあったらしく、彼女は、今度は護に聞いた。
「藤下くん、だったね? あたしの料理は口に合わなかったかい?」
僅かに、視線が動いたが、彼は何も言わず、また、映画の方に戻した。
困惑気に、答えを待っていた芝に、絵里が笑いかける。
「無駄よ、芝さん。彼に口を開かせるのは、あたしたちにも困難なのよ。放っておいていいわ。それに、ユウコの料理も残すくらいだもの。合わないわけじゃ、なさそうよ」
「おや、ユウコちゃんは料理ができるのかい?」
映画と、彼女たちの会話の両方が気になっていたからか、夕子は問いかけに、おずおずと返事をした。
「す、好きなんです……」
まだ、芝に対しては、少し人見知りが残っているらしい。
それも、当然かもしれない。
彼女は、一度しか芝とは会っていないのだ。
健と最初にあった日に、彼の昼食に付き合った。その時だけだ。
健から、そのあと、本館に行くように言われてから、十三日に、ヨコハマに行くまで、別館には足を踏み入れていなかった。
結局、リビング自体に入った回数も、都合三回目でしかないのである。
芝は、彼女の小さな答えに、満面の笑みを浮かべた。
「それなら、あたしの手伝いを頼めるね。エリちゃんは料理ができないらしいからね」
困惑ぎみに、夕子が絵里に目配せをする。
絵里も、優しく頷いた。
「大丈夫よ。これからお世話になる人じゃない。怖がらなくていいわ」
「……じゃお」
「あら、あたしが怖いって?」
「人見知りよ。慣れれば何のことはないわ。それより……」
と、絵里はドアの方に目を向けた。
護が、いつの間にかそちらを気にしていたからだ。
「帰ってきたみたいね」
「……え?」
足音も聞こえなかった廊下からのドアが開いて、両手一杯の荷物とともに、まず入ってきたのは高志だった。
目の前のテーブルに、絵里の姿を見つけ、
「エリ~ッ!」
恨みがましく怒鳴る。
それを、ケロリと受け流し、彼女は腰をあげた。
「芝さん、お願いね」
芝も、音をたてて、テーブルに置かれた荷物を覗き込むために腰を浮かせる。
「ごくろうさんだったね、佐竹くん。今日の夕飯だそうだよ」
あとから入ってきた隆宏も、紙袋を手に提げていた。それは、さほどの重さはなかったようだ。
最後に入ってきた健と入れ替わりに、芝がキッチンに入っていく。
「ユウコちゃん、さっそく手伝っておくれ」
「は、はい」
と、思わず返事をしたものの、彼女は絵里の腕に手を絡ませたまま、離れようとしない。
帰ってきたばかりだが、状況を理解したのか、健が、夕子の傍らに動き、ポン、と頭を撫でる。
「大丈夫だよ。いつも通りにね」
夕子にとっては、健の存在は未だに安心感を与えるものなのだろう。
ニッコリ笑うと、元気に席を立って、キッチンに入っていく。
その間も、映画の悲鳴は、賑やかになったリビングに、空しく響いていた。
絵里は、護に、
「観る?」
と、確認したが、彼がほんの僅かの動きで首を振ったため、テレビ自体のスイッチを切ってしまった。
「何を観ていたんだ?」
高志は、結構テレビ番組が好きなようだ。ヨコハマに滞在していたとき、リビングではつけようとしていなかったが、部屋に戻ると、寝るまでの間、何気に観ていることもあったことを、隆宏は知っている。
「ホラー映画よ。観たいのなら最初から再生するけれど?」
「なんでホラー?」
彼女はチラ、と、観ていたディスクのケースに目を落とした。
「適当に色々買い込んだのよ。ただ、これはあたしの好きなもののひとつだったから」
「他は?」
重い荷物を持って帰ってきた疲れなど感じさせない彼に、絵里は、テレビの下の棚から、何枚ものディスクのケースを並べて見せた。
ホラーも、恋愛映画も、アクションものや、日本映画まである。
今まで観ていたのは二本目で、一枚目は、夕子が観たがった、昔のロマンス映画だったという。
「あ、これが観たいな」
高志が取り上げたのは、外国でも流行っていたアクションものだった。
どうせ、夕食の支度をするのにまだ、時間がかかる。
彼女は、快く、ディスクを入れ換えて、テレビをつけた。
「ケン、お疲れさま。全部片付いたんでしょう?」
高志たちに遠慮をして、小声で労う。
健は、軽く頷いて、席につこうとせずに、
「ちょっと、キャップのところに行ってくるよ」
と言った。
「あら、もう少し休めばいいじゃない。今、飲み物を用意するから」
「いや、戻ってからでいいよ。それより、ミノルはどうしている?」
彼女が、肩をすくめる。
「部屋にいるんじゃない? 彼、こういうものに興味がないのかしら? 付き合いが悪いわよ」
多分、観たくても観られないのだろう。
護がここにいることも理由のひとつだが、感情が入り込む彼の体質を考えれば、彼がいなくとも、一緒に観ることはできないはずだ。
それなら、と、
「彼の様子も見てくるから」
と、部屋を出ていった。
まず、実からだ。
部屋をノックすると、返事があった。
「ミノル?」
部屋のソファに深く座って、実は何をするでもなく時間を潰していたようだ。
「帰ってきたのか?」
「うん。今ね。何をしていた?」
「何も」
対面に、腰を下ろす。
「退屈だったろう?」
「……まあな。けれど、慣れているさ。あいつら、まだ観ているのか?」
「タカシのリクエストで、何か観始めたよ」
実は苦笑交じりに腰をあげると、夕方の日差しを閉ざすためか、スクリーンを下ろした。
この部屋は、健のところとは違うスクリーンだった。
見事に晴れ上がった、青い空と、同化するほど輝く、海原だ。
空の雲は、ところどころに小さな塊が浮いている。
「ジュースが切れているんだ。取りにもいけないしな」
ポツリと言った一言に、健が、首をかしげる。
「本部のスタッフが常時用意していると思ったけれど?」
「ああ。冷蔵庫に入っているよ。リンゴなら」
「リンゴジュース? それじゃダメなのか?」
「ダメじゃないけれど、オレが好きなのはオレンジ」
「それならスタッフに……」
と、言って、健は、ため息交じりに首を振った。
言うわけがない。
リビングで、絵里たちが居座っているから取りにはいけない。かといって、持ってきてもらえば、また、しつこくリビングに誘われることも目に見えていたから、ここで、ただ座っていたのだろう。
健は、自分のブレスレットで、護を呼び出した。
コールの音が途切れても、相手の返事はなかった。
「マモル、悪いんだけれど、ミノルの部屋にオレンジジュースを持ってきてくれないか」
返事もなく、スイッチが切れる音がして、健もスイッチを切り替える。
「いいのか? マモルに会うなと言ったのはおまえじゃないか」
「そうだよ。おまえが場所を変えればすむことじゃないか」
「?」
「ちょっと、司令室に付き合ってほしいんだ」
なんだ、という一言が、実から漏れた。
おおかた、仕事の報告に付き合えということだろう。
興味もなかったが、反対する理由もない。
健と共に、本館のほうに足を運んだ。




