ミノルという記憶 2
護は眠ることができただろうか……。
窓から差し込むオレンジ色の光が、日記の白いページすら赤く染める頃、健は静かにノートを閉じて、膝に乗せたまま、疲れた目を抑えた。
今になってやっと、メンバーの資料に貼られていた護の写真の意味が理解できる。
乱雑に切り捨てたような髪型、何も映していない、視線の意味が……。
『高木春代さんは、自殺したのだよ』
初日に、剣崎司令が言っていたのを思い出す。
自殺……それも、当然か。
しかし、責任をとるのが早すぎたのではないのか?
行方不明になってから二ヶ月……いや、一月ほどで死を選ぶとは、責任放棄も甚だしい。
護に、一度は実という、生きる目的を与えたのではなかったか。それをやり遂げるだけの努力をしたのなら、なぜ、希望を捨てずに待っていてやらなかった?
“……いや……無駄だったかも、しれないな”
行方不明だったにも関わらず、警察が真剣に捜索していた様子はない。
それも、彼女を精神的に追い詰めた原因の一つだったかもしれない。
例えば、護がノーセレクトの一人だと警察に打ち明けていたら、大規模な捜索をしていただろうか?
“言えるわけが、ないか”
何しろ、ノーセレクト自体、国の実験体だ。トップシークレットの部類にだったはず。
言えるわけがない。
「けれど……」
健は、一言呟くと、日記をテーブルに戻した。
判らないことがある。
切れ切れに聞いていた、護の言葉の意味が、理解できない。
彼が、幼い頃からなぜ、生気がなかったのかはわかる。それが、実という存在によって、僅かでも生きようとしていた。それも、当然の結果だったろう。
それは、紛れもなく護と、実のレイラーたちの成果なのだ。
その希望も、日記にある通り、二ヶ月という期間に壊されたとして……。
一体、なにが実に対して、償いきれない罪を犯した、というのか。
確かに、単なる行方不明ではなかった。
かといって、誘拐でもない。
二ヶ月も経って、街中で見つかったというのなら、生きることに疲れはてていたわけでもなかっただろうし、行方がわからなかった間に、何かがあったから実に……いや、他人に触れることも、触れられることもできなくなっていたのだ。
その、何か、が実に対する罪、だろう。
が、それは、日記に書かれていない。
にも関わらず、剣崎司令も、玲も知っている。
護が何かを告白したのなら、日記に記されていてもいいはずだが……。
ふと、ディスクに目を落とした。
『護』のディスク。
健は、それを取り上げてコンピューターにセットすると、クローゼットの中からヘッドホンを取り出した。
机に向かい、スイッチを入れる。
最初に聞こえたのは、誰かが動く、衣擦れの音だった。
『初めて声をかけられたのは……』
やはり、このディスクに、護の秘密があるようだ。
彼の、消え入りそうな、それでいて、なんと甘く、丸みをおびて響く、切ない声に、健は耳を澄ませ始めた。
すっかり日が暮れた頃、護は司令室からの電話で、健の部屋に足を向けた。
隆宏たちから連絡が入ったのだが、コールしても出ないのだという。
どこかに出掛けた形跡がないということで、様子を見に行ってくれと言われ、ドアをノックする。
しかし、やはり返事がない。
ないのだが、まったく気配がないという訳でもなさそうで、あるいはシャワーを浴びているのかもしれないと、護は、中で待っているつもりでドアを開けた。
「……!」
途端に、騒音という言葉さえ控えめに表現できるほどの、大音量が耳に入って、思わず彼は、両耳を塞いだ。
それでも、煩い。
二つの音楽が交じり合って、なにが何やら判らない。
「ケン!」
思わず怒鳴ったその声すら、音楽にかき消された。
健は、ソファに横になっていた。
これでは、電話の呼び出し音など、聞こえるはずがない。まして、腕で目を覆っていては、護の姿も見えるはずがなく、彼は、顔をしかめながら、部屋に入ると、開け放したクローゼットの中の、なぜか二つもあるステレオのスイッチを切った。
一瞬にして流れた静寂に、健の腕が外れた。
「マモル……? どうした?」
これほどの大音量で、眠っているとは思っていなかったが、だとしたら、健はこれを聞いていたというのか。
呆れると同時に、驚いてしまう。
「これを……聴いていたのか?」
「どう……言えばいいのかな。……夕べも言ったじゃないか。集中しているときの癖なんだよ」
護自身は、一瞬にして流れ込んだ音に、まだ軽く耳鳴りがしているというのに……。
やはり、呆れるほうが大きいか。
「タカヒロから……連絡が入ったんだが……」
「おまえに?」
「司令室に」
ここで、ようやく健は起き上がって、机の上にある電話を振り向いた。
司令室からここに連絡を入れただろうことは、容易に想像がつく。
「そうか……。気がつかなかった」
改めて、自分の方から司令室に連絡を入れる。
その際、窓の外に目をやると、もう、暗闇ばかりだった。
目の前の建物は、本館だ。いくつかの窓のライトがついていたが、建物自体の外観は、闇に溶け込んでいた。
「キャップですか?」
『一体、どこに行っていたのかね? 何度も呼び掛けたのだよ?』
「部屋にはいたんですが……すみません」
『タカヒロから連絡があったよ。君と話がしたいそうだ』
「こちらから連絡します。ありがとう」
健は受話器を置くと、そのまま、ステレオの前で佇んでいた護を連れ出した。
向かったのは、三階、ラウンジのほうだった。
バー・カウンターに彼を座らせ、自分は中に回り込んで、酒の並んだ棚を振り返る。
が、グラスと酒は見つけたものの、氷がどこにあるのか判らない。一通り見渡して、冷蔵庫も探し当てたが、今度は氷を砕くピックの位置すら見つけられず、どうしようもなく、
「マモル、頼める?」
と、結局、場所を代わるしかなかった。
護の手際はよかった。見ていないようでいて、どこに何があるのかをすぐに探しだし、時間をかけずに作られた、二つの水割りをカウンターに用意して、また、スツールに戻る。
「少しは寝られた?」
無意識に、タバコをカウンターに出して尋ねた健に、答える代わりに火をつけて、渡す。
グラスを傾けながら、健の視線は、室内に移った。
そして、しばらくしてまた、尋ねる。
「お腹はすいているんじゃない?」
今度の答えは、軽く俯いただけだ。
睡眠をとらせる方を優先したため、昼食時に健は、護に声をかけなかった。
というより、自分自身が忘れていたのだ。
ディスクと日記に専念していて、あとは、大音量の音楽の中、意識を集中させていた。
だから、今になって、健のほうが空腹だったことを思い出した、というのが正しい。
返事のない護を横目に、彼はスツールを降りた。
入り口近くの壁にかかった電話を取り上げる。
「キャップ、芝さんは来てくれますか?」
短い返事があったのだろう。すぐに、健はホッと息をついた。
「お願いします。オレたちはラウンジのほうにいますから」
席に戻ると、ずっと黙っていた護が、ポツリと口を開いた。
「ケン……オレの……」
それだけで、あとが続かない。
また黙り込んでしまった彼に向こうとせずに、健は、
「昔ね……」
と、一言呟いて、護と同じように口を閉ざした。
沈黙の中、しばらくして、護が不審そうに健に顔を向ける。
まるで、それを待っていたかのように健がまた、続けた。
「一度だけ、レイラーに怒られたことがあったんだ」
「……一度、だけ?」
口許に、寂しげな微笑みを浮かべ、頷く。
「一度だけ……。彼は、その時以外に、オレに対して怒ったことがないんだ。……元々、それほど喋るほうじゃない。態度や表情で表す人だったんだ。……オレはね、それ以来……他人に対して、本気で怒りを表すことはなくなった」
「……?」
何の話をしているのか、護には理解できず、僅かに首をかしげた。
怒っていたのはレイラーの方ではなかったのだろうか。と。
それが、視界の隅に見える健が、クスッと笑う。
「……でも……今回は、怒るべきかな……。……マモル」
呼び掛けながら、健の表情が引き締まる。
ゆっくりと、護のほうに顔を振り向けた。
「資料をすべて、把握した。その上で出す結論は……オレは、おまえを許してはいけない、ということだ」
……やはり、そうか……
重々しく、護が頷く。
だが、そこには絶望した思いはなかった。
むしろ、当然と言える判断だ。
無意識に、護の口から、安堵のため息が漏れた。
……が……。
健が、尚も続ける。
「だから、おまえには生きていてもらうよ」
と。
「ケ……ン……?」
呆然と見返す護の横で、彼は酒を一気に飲み干すと、スツールを降りた。
護に背を向け、ビリヤード台に足を向ける。
まだ、誰も使っていない、鮮やかなラシャに手の平を滑らせながら、呟く。
「おまえの、身勝手な思い込みを許すわけにはいかない」
「身……勝手?」
その、囁くような護の声は、ビリヤード台を、両手で叩く健の音にかき消された。
そして、絞り出すような、彼の声も……
「……情けないよ……本当に……」
ゆるゆると、振り返る。
台に体を預けるように寄りかかると、健は頭を抱えた。
「おまえに申し訳ない……。……ごめん……」
その時、廊下からの気配に気づいた護が、咄嗟にドアに目を向けた。
気配はそのまま通りすぎ、リビングのドアが開く音に、ようやく健も、気がついた。
そのあとで、リビングとラウンジを隔てたドアが開く。
芝敏子だ。
「ごめんね。待たせたかい?」
彼女は、健の姿には、人懐こい笑顔を向けたが、スツールにいた護に目がいくと、そこでピッタリと動きが止まった。
健が、声をかける。
「芝さん、彼は藤下護。メンバーの一人です」
「……。……な、」
その紹介を、理解するのに少しばかり時間がかかり、彼女は眉を寄せた。
「ごめん、白木くん、もう一度。なんだって?」
「藤下護」
「……男の子?」
呆然とした呟きに、護が背を向けたことで、芝はようやく、我に返った。
「あ……いや、悪いことを言ったね。あまりにも綺麗だから、見惚れちゃったよ」
年甲斐もなくすまないね、苦笑いを含めながら、健に尋ねる。
「なにが食べたい?」
と、同時に、護にも伺いをたてるが、彼の方は背を向けたまま、返事すらない。
健が言った。
「すみませんが、オレは豆腐が食べられないんです。それ以外なら、何でも構いません」
「おや、そうかい。う~ん……」
献立でも考えているのか、天井を見上げてから、頷いた。
「じゃ、任せてくれるね? 有り合わせになるけど、もう少し待ってちょうだい」
静かなスライド音で、ドアが閉まる。
健は、勢いが削がれたようにフッと息をついて、スツールに戻った。
気を取り直して、また、護に向き直る。
「取り乱して、悪かったね」
「……いや」
「マモル、ひとつ言わせてほしい。おまえの過去のこと……」
小さな反応とともに、護の視線が逸れる。
「あのことは、おまえに僅かの罪がないことだと、思ってくれないか。むしろ……」
健は、寂しく微笑んだ。
「よく、今日までミノルを忘れずにいてくれたと、感謝しているんだ」
それは、果てしなく深く、優しい言葉だった。
それだけに、護の気持ちが乱れる。
遥か昔に、心の底に閉じ込めた思いが、湧きあがってくる。
護は、思いきり顔を覆った。
「あなたは……! 残酷だ……。こんな体で……まだ、生きろと言うのか?」
「ごめん。わかって、いるんだ。おまえを追い詰めて、苦しめるだけだということは、充分にわかっているんだよ。……でもね……」
カウンターに両腕を乗せて、健は静かに目を閉じた。
「おまえは、償わなくてはいけないんだ。……もちろん、それは、あの出来事のことじゃない。それ以前から、おまえはミノルを含めた、オレたちすべてに罪を犯しているんだから」
「……なんの……ことだ?」
「それだけは、許すことができない。……どれほど苦しむとわかっても、おまえには生きて、償ってもらう。……マモル、オレを、徹底的に憎んでも構わない。そうすることで、おまえに生きる糧を与えられるのならね」
「……」
「愛しているよ、マモル。おまえも、ミノルたちも。いつか、おまえが犯した、オレたちに対する罪が消えたとき、もう一度言うから。……それまで忘れないでほしい。オレたちは、おまえが生きて、ミノルに会ったことを感謝しているんだ、とね」
先の見えない大きな心……。
護は、何も言えずに深く息をついた。
最初は、小さな変化だったはずだ。微かに、彼のイメージが変わったと感じただけだった。
柔らかな日差しにそよぐ、春風のような穏やかなイメージだった。
なのに、今はまるで違う。
忘れようとして、そして、完全に心の奥底に押し込めていた思いが、急速に浮上するのを感じる。
“待っていたんだ”
と。
憎め、と言いながら、それすらも許してはもらえないほどの、彼の思いの大きさに、気づかされた。
“……敵わない”
なえ、健は急に変わったのだ?
これが、実が言う、健の、真の本質なのか?
このままでは、言ってはいけないことが溢れてしまう。
護はたまらず、スツールから飛び降りた。
健に背を向け、口を塞ぐ。
“堪らない……!”
信じてはいけない。
同じ目にあうわけには、いかない。
健が、あの男と違うという保証はないだろう。
紳士面をしたあの男と。
二つの思いが、手の隙間から叫びになって漏れたとき、護の体が突然、崩れた。
健の耳に、意識が途切れる寸前の、護の呟きが入った。
「オレを……見て……」




