本質の成果 2
家から歩いたから時間がかかったものの、ようやく二人は警察署についた。
健が足を向けたのは、地域課で、今回の仕事とはまったく関係のない部署だった。
黙ってあとをついていった護だが、廊下で待っていろという言葉に、やはり返事もなく足を止める。
しばらく待っていると、健は、一人の警官を伴って出てきた。
今度はついて来いという。
案内されたのは、さほど広くない部屋だった。
ただ、四角く切り取られたガラスが嵌め込まれた壁があり、そこから隣の部屋が見える。
ドラマなどでよく見る部屋だ。
一体、ここで何を見ようというのか。
ドアのところに警官が居座り、健は、護に、ガラスの向こうに注意を向けるように言っただけで、関心ももたずにガラスの脇にもたれた。
待っていると、二人の警官に付き添われて、一人の男が入ってきた。
取調室の物音は、健たちのいる部屋の、上部スピーカーから聞こえる。
「見覚えがある?」
健の問いかけに、護はようやく、ここに来た理由が理解できた。
確かに、これも問題のひとつだ。
男は、今朝、絡んできた中の一人だった。
小さく頷く。
健は、警官に言った。
「間違いはありませんね。一緒にいたというあとの二人までは確認する必要はないと思います」
「そうですか。了解しました。それで、一応調書をとりたいのですが、事情をご説明願えますか?」
護の方を見なくてもわかる。
健は、首を振った。
「つまらない騒ぎに時間を割くつもりはありません。ただ、ちょっとあの男性と話をさせていただけますか?」
被害者の関係者と、加害者を会わせてもいいのかの判断は、この警官にはつかなかったらしい。
お待ちくださいと言って、そそくさと部屋を出ていく。
「本当は、こんなことはしないんだ」
警官が、隣の部屋に入る姿を窓越しに見て、健は言った。
今度は、護のほうが壁に寄りかかる。
「騒ぎやケンカでは、双方から事情を聞いて、事件にするかどうかを確認する。目撃者からも事情を聞いていくんだよ。大抵は、ケンカ両成敗……というところかな」
「……だが……」
思わず漏れた、小さな呟きに、健は、彼とは目を合わせずに頷いた。
「そうだよ。今回は、おまえは相手から逃げただけだ。その挙げ句に、勝手にケガをした。……目撃者や彼らの調書に書いてあったよ。けれど、これを事件にするかどうかは、おまえ次第なんだ。どういう状況であろうと、おまえは被害者になるからね。だから、すべてから事情を聞く。……警察というところは、関係者すべての調書をとらなければならないし、その上で、おまえに判断を任せるんだ。告訴するかどうか……」
そういって、健はクスッと笑った。
「オレの知り合いにね、刑事がいたんだ。その人も言っていたよ。面倒だし、回りくどいし、おまけに融通がきかないところだって。……現役の刑事ですら、杓子定規な組織だと実感していたんだろうな」
それから、ようやく彼は、護に向き直った。
「彼らに関わりたくないね?」
告訴するかどうかの確認を含んでいたが、健には、答えはわかりきっていた。
返事もなく、顔を背けただけの仕草に、満足そうに頷いたものの、その上で、もう一言、加えた。
「なら、オレが彼に謝罪してくるから」
「?」
何のために? と、眉を寄せた護の表情が問いかける。
「原因は向こうにあるけれど、おまえにも責任はないとは言えないんだよ。だからさ。それに……」
と、言いかけものの、先程の警官が顔を覗かせたので、彼は、続きはあとで、と言って、隣の部屋に入っていった。
改めて見ると、その男は疲れたように項垂れていたが、健の姿に、残っていた反発心が甦ったか、上げた顔の中に、睨み付ける瞳があった。
年は、健よりひとつ下で、先程読んだ調書には、住所や氏名なども羅列してあったが、流し読みで済ませていたので覚えていない。
ただ、内容を読んでいたときに、補足していた警官の言葉は耳に入っていた。
それによると、大きな問題を起こすほどの不良ではないが、大概は、捕まった他の仲間と一緒に行動しては、どこかしらでナンパを繰り返している連中らしい。
「なんだよ……。また、同じことを繰り返せってか?」
力のない、声の抵抗に、健は小さく息をついた。
本当に、相手にするのもバカらしい男のようだ。
彼は、座っていた刑事に声をかけた。
「お帰りいただいてください」
「いいのですか? 藤下さんはケガをしていらっしゃるんでしょう?」
「そうですが、こちらにもミスはありましたから。……この方たちは、彼に指一本、触れていません」
ようやく、健は、男に向いた。
「今回は、ご迷惑をおかけしました。長い間、お引き留めさせてしまったことをお詫びします」
口先だけの謝罪だと気づかなかったようだが、無罪放免ということが、男を増長させた。
乱暴に腰をあげると、刑事たちを一睨みして、健に対して、声を荒げた。
「誠意が足りねぇんじゃねえか? それが謝ってる態度かよ。こっちは捕まってから何度同じことを言わされたと思ってんだ。そっちが勝手にケガしたくせに、とんだとばっちりだよ。てめえだけじゃなく、あいつを連れてこいよ。精神的ダメージを受けたんだ。謝るだけじゃ足りねぇ……」
声が途中で宙を泳いだ。
本人が気づかないうちに、健が男をその場に押し倒したのだ。
首筋を抑え、彼は静かに言った。
「申し訳ないが、実力のない恫喝に応じるほど、オレは寛大ではありません。おとなしく聞き流していられるうちに、引き上げてください」
「な……離せよ! これは傷害だぞ! 俺がおまえらを訴えるぞ!」
「誠意がないとおっしゃいますが、あなたを五体満足でお返しすることが誠意だと思ってください。直接ではないにしろ、身内にケガを負わせたあなたを、許すだけでもオレにとっては最大の譲歩なんですよ。もう一度、お願いします。ご友人と共に、なにも言わずにお帰りください。脅しにかけては……」
スッと、健の表情が変わった。
まるで、視線だけで相手を殺すほどの、凍った瞳が、男を見据える。
「オレのほうがプロだということだ」
声も静かであったが、有無を言わせない迫力は隠せなかった。
自覚のない怒りが、彼のなかにあったのだ。
ゆっくりと手を離し、立ち上がった途端に、怯えを隠そうともせずに後ずさる男を目で追う。
「訴えるというのならば、好きにすればいい。……あなたの後ろ楯程度では、勝ち目がないことを、身をもって知るだけのことだ」
一瞬、怯んだものの、男はすぐに勢いを取り戻した。
警官と、健の両方を睨み回す。
「絶対に許さねえぞ! 訴えてやるからな!」
健の右手が、後ろに回った。
同時に、警官に向き直ると、ポケットからスティックを抜き、スイッチを入れる。
短刀の形に光るそれを、振り向き様に振り降ろした。
今まで、男が座っていた椅子の、背もたれになっているビニール綿はおろか、スチールのパイプ部分まで、一筋の切れ目ができたかと思うと、綿の部分から煙が上がった。
ナイフは、更に、男の首もとに向けられた。
それを、警官が言葉だけで止める。
「し、白木さん……署内での暴力は……」
「最後のアドバイスです。告訴をするのなら、ここで無駄な時間を割く必要はありません。すぐに帰って、準備をすべきでしょう。オレがあなたのその口を切り裂く前に、お引き取りください」
静かすぎる……。
声も、表情も、雰囲気すら、静寂に包まれたような彼に、短い悲鳴が上がり、男は必死になって逃げていった。
それを目で追うこともなく、気配が消えるまで立ち尽くしていた健は、ようやくスティックのスイッチを落とすと、深く息を吐いて、右腕を押さえながら上体を屈めた。
「白木さん? どうしました?」
「ちょっと……ケガをしていたのを忘れていて……。気が抜けたら、……痛みが……」
夕べ、医者からは、安静にしていろと言われていたのだ。
見ると、半袖の下から覗いている包帯に、じわじわと赤い染みが広がりつつある。
その時、開いていたドアから、護が入ってきた。
「ケン」
健は、うって変わって、情けない微笑みを彼に向けた。
「ごめん、マモル。心配しなくてもいいよ。でも……これじゃ、ミノルに怒られそうだ」
「医務室にご案内します」
「……ありがとうございます」
すぐに、痛みは我慢できるほどになったが、それでも、鼓動に合わせて、ズキズキとする。
警官に案内された医務室で、せめて包帯だけでも取り替えてもらうことにした。
腕のケガは、レーザーによるものだったため、火傷を伴ったものだ。医務室のドクターは、その傷口に目を見張ったが、すぐに、適切な処置をしてくれた。
その間、健は、傍にいた警官を見上げて、申し訳なさそうに言った。
「椅子を壊してしまって、すみませんでした。……あれもまた、傷害にあたるんでしょうね?」
警官は、彼の言葉を待っていたかのようにニヤ、と笑った。
「まだまだ、灸をすえるには足りなかったかもしれませんよ。時間がたてば、忘れ果てて同じことを繰り返すような連中です。最近の若い者は、大事だと思わないんですよ。彼らのすることは、単なる遊びなんです。立場上、私らでは、あそこまでできません。むしろ、溜飲が下がったと言わせてください」
地域課、という職場柄、そういう細かいいさかいが多いということを思わせる言葉だった。
いちいち事件として処理していられないものの一つなのだ。
ただ、今回は、被害者が、署長が依頼した組織のひとりであり、昼間、隆宏から、健に顔を出させるから、それまで留置しておいてくれと頼まれていただけなのだ。
なかったことにするというのは、大歓迎だったろう。
治療を済ませた健は、ドクターと、警官に、丁寧に頭を下げた。
「本当に、ご迷惑をおかけしました」
被害者と加害者、そして、被害者を守るリーダー。
同じような年頃でありながら、まるで態度が違う。
警官は、自分より遥かに年下の健に、やはり丁寧な挨拶を返した。
「ご足労願いまして、ありがとうございます」
警察署をあとに、帰路についた二人に会話はなかった。
というより、互いに、言いたいことを我慢しているような感じだ。
大通りの並木道は、そろそろ人の往来が少なくなり始めている。
そうは言っても、観光客が少なくなったというだけで、若者が、夜の街を遊び歩き始める時間なのか、ビジネスマンのネクタイ姿と、カップルやグループが目につく。
こういう場合、どちらかと言えば、裏通りから帰ったほうがいいのではないかと、ようやく気づいた健は、足を止めた。
「マモル」
同じように止まった彼に、思ったことを提案する。
彼もまた、思うところがあったのだろう。黙って、方向を変えた。
ただ、その行き先は、裏通りではなく、海沿いに長く舗装された、遊歩道だった。
そこは、どちらかというとカップルが多く、楽しげに、ゆったりと行き交っている二人組の合間を歩いているような感があった。
ただ、それも、公園に抜けるまでの間だったようだ。
広い公園内では、昼間のような喧騒もない。
船のライトも遠く、他の光のない海を左手に、公園を抜けるのだと思った健は、護が唐突に、ひとつのベンチに向かうあとを、慌てて追った。
自分が座るのではなく、護は健を座らせると、静かに頭を下げた。
「軽率な行動だったと反省している。迷惑をかけて、すまなかった」
まさか、護が謝るとは思わなかった。
健は、目を丸くしたものの、首を振ると、彼を見上げた。
「懸命な行動だったと思っているよ。本気で相手にするようなことじゃなかったんだからね。むしろ、オレのほうが謝らなければね」
すまないと、逆に頭を下げられて、護は眉を寄せた。
「なぜ、あなたが?」
両膝に肘を乗せて、健は、目の前に広がる、暗闇の向こうの、僅かな船の明かりを見つめた。
「元はといえば、安易に約束をしてしまったから……というのが理由かな。おまえに、オレを信じさせることなんて、無理な要求だったんだ。おまえが怒るのは当然だったし、外に出なければ、騒動もなかったんだからね。それに、あのベルトを、真っ先にオレがテストすべきだったと反省しているよ。あれは、回収して本部に戻す。今さらだけれど、それで許してくれないか?」
じっと、健を見下ろし、護は、言われた言葉を判断しているのか、動かなかったが、健がやがて、その視線に気がついて見上げたとき、ようやく口を開いた。
「オレには……やはりあなたがわからない」
「え?」
驚きながらも、すぐに苦笑する。
「そうかな? ミノルには単純だと言われたけれど」
まるで、ガラス玉のように、無表情のわりには、対象の心の中まで見透かすような護の瞳に、見られている健のほうがたまらず、顔を伏せた。
「……座ったら?」
情けなく話題を変えた彼の隣に、素直に腰を下ろす。
とは言ったものの、健は、なぜ、のんびりとこんなところにいるのか判らなかった。
問題のひとつは解決した。
実から、事件の詳細は聞いていたものの、まさか加害者が未だに勾留されていたことまでは知らなかったため、結果的に、すべて解決したといってもいい。
だから、次にするべきは、高志から、大阪でのことを報告してもらって、隆宏と相談しながら、夕べの初仕事を本部に連絡することなのだ。
こんなところで休んでいる暇はないはずなのだが……。
そういえば、不思議と暑さを感じない。
実に、単純だと言われたとおり、慣れてしまったのだろうか。
健は、隣の護を盗み見た。
長袖の、紺のシャツを、首元までしっかりボタンで留め着ている彼は、暑くないのか?
全身に傷跡があると、実は言っていた。それを隠すために我慢しているのだろうが……。
遠慮がちの視線に気がついたのか、護は、先程渡されたタバコを取り出すと、火をつけて、健に渡した。
「あ……ありがとう」
仕草のひとつひとつがしなやかで、それでいて嫌味のないさり気なさを含んでいる。
それを証明するかのような、柔らかい髪が、海風に揺れて、細かく踊っていた。
健の髪質も柔らかい。ただ、彼の場合、まったく癖がないし、多少は重みがあるため、護ほど風に影響するわけではなかった。
確かに、一見すると女性に見える。
加害者が、間違えて声をかけたのも当然と言えた。
実際、健も、資料の写真で間違えたのだ。
ただし、彼の場合、付け加えて、人形のような無機質な印象も持ったが。
その口元が動いたとき、健は、我に返ったように慌てて顔を背けた。
「あなたの言うことが正しいのは理解しているんだ」
「……?」
「自分が楽になりたいだけだ」
ポソリと呟いて、彼は顔を覆った。
そうすることで、漏れてしまいそうな感情を抑えるかのように。
「……元々、存在してはいけないと思っていた。少なくとも、オレは……生まれた瞬間から、殺人者だったから……」
「生まれた? 時から?」
「オレがノーセレクトだったから、親は自殺した」
健のタバコから、灰が落ちた。
驚いて、取り落としそうになるそれを、脇に設置してあった灰皿に投げ入れる。
なぜ、両親のことを知っているんだ?
レイラーが教えたとしたら、迂闊だったとしか言えないし、第一、契約を破ったことになる。
健たちにとって、親元から離されたときから、情というものを切り捨てて育てられたはずだ。
帰れない親のことを知ったところで、どうにもならないとは思わなかったのか。
ノーセレクトである自分を嫌悪している理由が……それか。
なんと声をかけていいのかわからない。
しかし、護は言葉など、欲しくはなかったのだろう。
独り言のような小さな呟きが続いた。
「いつも、考えていた。オレという存在がなくなればいい。それを……そんな思いを、いつしか忘れていた。……ミノルがいるのなら……いつか、彼に会えるなら、オレは、彼のものだ。そう思うまでに、なっていたんだ」
小さな吐息……。
「……矛盾している。今さら、会っていいはずがなかったというのに。……彼のためなどと、虫のいいことを口実にしていた。自分が……オレが彼に会いたかっただけだ。それだけで……美鈴さんとの約束を果たして、死ぬだけのこと……それが……未練がましくここにいる。彼の傍にいたいと思っている。思いながら、自分がどうすれば、楽になれるのか……考えて……」
覆った手で、髪をかき揚げ、護は背もたれに寄りかかった。
「ミノルの手で、オレを消してほしい……」
「……マモル……」
「彼に、憎悪を持たせることで、生きる目的を与える……。愚かな……浅知恵だ。あなたの言うとおり、ミノルのためではない。オレが、もう……楽になりたいだけだ。……役に立たない存在など、早く処分してしまえばいい」
それは、夕食前に健が言った一言への皮肉だったのか。
そう聞き取ってしまった健が、頭を抱える。
「言いすぎたんだな……。オレが」
「ちがう。あなたは正しいと言ったはずだ。役に立たないことは、オレ自身が充分、理解していた。ミノルに対して、罪を犯した時点で、終わらなければならなかった存在なんだ」
妙に力強く聞こえたように感じたのは、どうやら健の勘違いではなかったようだ。
護は、どこか振り切れたように腰を上げると、真正面から健を見下ろした。
「あなたに、オレの処分を任せる。先程の提案を受け入れよう。ただし、オレからも条件をつけさせてもらう。オレの罪を、ミノルが許すことがないようにしてもらいたい」
「……決心……したんだ……」
予想を裏切った結果だった。
力なく落胆する気持ちを、健は隠すことができなかった。
頑なに死を望む彼に、もう、健ができることは何もない。
護は言った。
「彼にも、あなたにも知ってもらう」
「……それで……終わらせる……のか」
護は、ゆっくり振り返ると、半身だけを海の方に向けた。
「……以前、オレは人を見誤った。他人を信じたことが原因だ。ならば、もう誰一人、信じない。けれど、これから先、あなたの存在が、その決心を鈍らせるのは確実だ。だから、オレがまた、同じ過ちを繰り返す前に、ミノルの手で、オレを処分してもらう。それを命令することができるのは、あなたしかいない」
「……できると思うのか? そんな命令を出せると、本気で思っているのか?」
「わからない。だが、オレの過去を知った時点で、あなたがオレに生きることを強要するのなら、もう、なにも言わない。オレのことをどう判断し、どのような処置をしても、黙って従おう。ミノルが信じたあなただから、オレの命を、あなたの裁量に任せる」
揺るぎなく、心の中を見透かすようにまた、視線を戻した護に、健の手が、無意識に伸びた。
が、触れる前に、ピタリと止まる。
また、頭の中がぼんやりとしてきた。まるで、薄い膜を張られたような感じだ。
健は、手を下ろすと、億劫そうに腰を上げた。
「帰ろうか……」




