集合前 5
「レイラー、入ります」
ドアを開けてから、夕子が言った。
デスクでコンピューターに向かっていた剣崎司令が、ディスプレー越しに顔を覗かせる。
手にトレイを持ち慣れているのか、揺らぐことなく中に入った彼女をソファに招いて席を立った。
「部屋の整理は終わったのかね?」
「はい。ただ、できればベッドを窓際に持っていきたいんです。手伝ってくれませんか?」
言いながら、トレイのグラスをテーブルに配る。
健が出ていってからそのままにしてあった空のグラスが、代わりにトレイに乗った。
クリームソーダの透き通った緑色に、小さな気泡が踊っていた。
「私が手伝うより、ここのスタッフに頼んだほうがよくはないかね?」
夕子の性格を熟知していながら、司令はさりげなく促した。
もちろん、彼女がためらうことを承知している。
「でも……」
案の定、俯いてしまう。
「おまえをそう……育ててしまった私がいけないのだが、ケンくんたちに会ってその状態では、彼らが困るよ?」
「……ケンに……会いました」
無意識にスプーンを取り上げ、アイスクリームを掬いながら言った彼女に司令は、
「挨拶くらいはできたのかね?」
そう、尋ねた。
答えは、申し訳なさそうな首の横運動だ。
「本部の人と間違えて……。名前は言ったんですが、嫌な思いをさせてしまいました」
ふう、と息をついて、剣崎司令は難しい顔をした。
「彼は、そのようなことでは嫌がらないよ。だが、挨拶だけは教えたつもりなのだが……困ったものだ」
剣崎司令は、元々が夕子のレイラーだ。
しかし、国の方針から本部を作ったとき、その責任者および総司令を兼任することになったのだ。
責任者としてメンバーの元に、そして彼らを育てたレイラーたちの元に、頻繁に足を運び続けた。
その間の夕子の訓練は、誰の監修もない、たった一人の自習だった。
彼女の成績が悪いのは、ほぼ剣崎司令の責任だ。
もし、彼が組織の司令にならなかったら、最後のノーセレクトをそれは大切に育てることもできただろう。
責めを追うのなら、夕子にではない。司令自身に対してだ。
健ならば、彼女を変えることができるのではないか。
ノーセレクトの仲間として、受け入れてくれる。
それを、密かに期待している。
三日後には、彼女は十八になる。
その日が、訓練の終了日であり、メンバー集合の日だ。
この年になってしまっては、もう、司令の力で彼女の臆病は矯正できない。
今できることは、アドバイスだけなのである。
「ともかく……」
自分のソーダには手をつけることなく、司令は夕子に言った。
「ケンくんは仕方がないが、他のメンバーにはきちんと挨拶ができるようにするのだよ?」
「はい。……あの……」
話を聞きながらも、じっとソーダの気泡を見つめながら、彼女はやがて、意を決したように司令に顔を向けた。
「ケンが、あとでお部屋に来るようにと言っていたんですけれど」
「ユウコ、来るように、ではなく来ないか、と、誘われたのではないかね? 彼はそういう命令じみたことは言わないと思うが?」
「お誘い……だったんでしょうか? きちんとお話もできなかったのに?」
彼女の場合、部屋に行く勇気がないのは剣崎司令にもわかっている。
自分からでは、絶対にそのようなことは言えないはずだ。
だからこそ、誘いの言葉を取り違えた……。
司令に許可を求めるような問いかけは、彼女がいきたいからではなく、誘いを断って健が怒るのではないかと恐れているからだ。
「そうか……」
挨拶すらできなかったのなら、まともな会話すらしていないだろう。
それでも、やはり、健は誘ってくれたか……。
ならば尚、期待できる。
「ケンくんが誘ってくれたのならば、行ってきなさい。ただ、最初に謝るのだよ。自分がどういう人間か、彼ならばわかってくれる。それに、彼は、先ほど来たばかりだ。部屋の整理もしていないはずだから手伝うのもいい。昼食のことを聞くこともできるだろう?」
「それが……お話になりますか?」
必死な表情が、質問する声に含まれていた。
夕子が、本当は他人と会話をしたいという思いをいつも持っていたことは、知っている。
彼女はただ、人の感情が怖いのだ。
他人の表情に臆病になっているだけのことなのだ。
司令は、優しく頷いた。
「彼は、優しい男だよ。おまえを理解してくれる。彼が何を言いたいのか、おまえがきちんと聞いて、意味を考えれば話はできる。彼を信じなさい」
「はい」
今度の返事には力があった。
しかし問題は、健と会話をする以前なのだ。
彼の部屋を訪れることができるかどうか。
さすがに、司令は口にしなかった。
夕子は、ソーダを半分ほど減らして、
「いってきます」
と、出ていった。
部屋のレイアウトは、どうやら皆同じらしい。
夕子の部屋と変わらない家具の配置を、健は一通り見回す。
入った右側にベッドと、対面の窓際に机。
ベッドの枕元から机の方の壁面はすべて、嵌め込みのクローゼットになっていた。
部屋の左側にはドアが二つで、ひとつはバスルームに繋がっている。
もうひとつは、簡易キッチンだ。
窓のほうも、小さな嵌め込みの棚が作りつけられていて、キッチンへのドアとの間にサイドボードが設置されていた。
キッチンで何かを作ったときに、食器がすぐに出せるようになっているようだが、覗き込んで見ると、並んでいるのはカップやグラス、それに酒の類いばかりだった。
部屋の中央に、司令室と同じ素材のソファとガラステーブルがあって、その下には大きなラグマットが敷いてあった。
部屋中に敷き詰められたカーペットに重ね合わせている。
ただ彼女のところと違うのは、ソファとベッドの間に、大きな箱が三つ並んでいたことだ。
二日前、レイラーから部屋を追い出されたあと許可がおりて中にはいると、もう、身の回りのものがその箱に詰められていた。
絵画の道具も、イーゼルさえも分解されてそのひとつに入っているはずだ。
一体、レイラーは何を考えて健を育てていたのだろう。
こうして、箱を目の前に、途方にくれている姿を想像したことがあるだろうか。
ここには、荷ほどきを手伝ってくれる人などいない。
これからは、すべて自分でやらなければならないのだ。
本当にレイラー・哲郎は、日常生活の細かいことを、まったく健にさせなかった。
その結果がこれだ。
部屋にはいって、持っていた資料を机の上においたあと、彼は、その箱を開けたまま困りきっていた。
この荷物を部屋に広げたら最後、どう片付ければいいのだろう。
ひとつ目の箱には、服がはいっている。
“このまま出してもいいのかなぁ”
今までも、クローゼットの中をみたことがなかった。
いつも、レイラーが翌日の服を出してくれていたのだ。
その日に着ていたものは、翌日にはなくなっていた。
きちんと畳まれて詰め込まれているそれらを、そのまま出したところで形を崩さずにしまうことができるかどうか。
諦めて、二つ目の箱を覗く。
こちらは、本やCDが、小型のステレオと共に納まっていた。
下のほうには、イーゼルの木の枠が並んでいる。と、共に、筆や絵の具、スケッチブックや筆記用具まで揃えてある。
これも、どこに置けばいいのか見当がつかず、ため息混じりに部屋を見回した。
窓際の棚にすべてが収まるほど、小さな荷物ではない。
となると、クローゼットのほうに入れておくか。
思いきって、扉を開けてみた。
“あ……”
ベッドに近いクローゼットの中に、ステレオがワンセットと、テレビが納まっていた。
“必要……なかったみたいだ”
少し考えればわかりそうなものだ。
広い部屋の、壁一面がクローゼットなわけがない。
テレビの上の方と、机に近い扉の中は、全部が棚になっていた。
しばらくはその棚を見回して、健はようやく一つの箱に手を伸ばした。
要するに、持ち物の種類ごとに仕分ければいいのだ。
とりあえず、本とCDを箱から出してテーブルの上に積み上げたところで、ドアの向こうに人の気配を感じた。
それは、健の部屋の前で止まったまま動かない。
テーブルに重ねた本に軽く手を添えて、彼は様子を伺った。
本部のスタッフがここに用事で来るのなら、先に内線をかけてくるはずだ。
それは、剣崎司令でも同じだろう。
第一、急な訪問ならば、いつまでもドアのところで立ち尽くしてはいない。
とすると、これは夕子の気配……か。
部屋に戻るでもなく、ここに来ようとしているとは驚きだ。
先ほどの様子からなら、怖がるのではないかと思ったが……。
いや、躊躇っているのは確かだ。
これで、ノックのひとつでもできれば立派なものだが……。
健は、荷物をそのままに机の資料に手を伸ばした。
パラパラと、夕子のページを開く。
目を通してみると、彼女は今まで、ホームヘルパーと二人で暮らしていたに等しいようだ。
とはいえ、そのヘルパーは近所の女性で、家のことを世話しているだけだったらしい。
訓練は、司令の━━彼女にとってレイラーの課題を、一人で行っていた。
ただし、何においても最後までできたものはない。
人付き合いもなく、どこかへ出掛けるにもひとりということは皆無だった。
レイラーやヘルパーが同行している。
友人らしきひとは……ない。ほんの少しの知り合いはいるようだが、彼女のではなくレイラーやヘルパーの知り合いばかりだ。
性格が、極端な引っ込み思案だというのも頷ける。
あれは、人見知りという生易しいものではない。
普通なら、理由もなくあそこまで怖がられては怒りたくもなる。
実際、健も、いい印象を持たなかったのだ。
しかし、ひとつだけ引っ掛かることがあった。
“気になる言い方をしていたよな”
外の気配は動かない。これは、相当迷っているようだ。
待っていても時間ばかりが過ぎていくだけだ。
彼は、資料を机に戻すと、テーブルに載っていたコントローラーでドアを開けた。
「きゃ……」
中の様子を伺おうともしなかったのか。
いきなり開いたドアの正面、部屋の真ん中辺りに立っていた健を見て、夕子は驚き様に後ずさりをした。
健が、苦笑まじりに腰に手を当てる。
「それはないんじゃないか? 君がずっとそこに立っていたから気を利かせたつもりなんだけれど?」
柔らかく微笑みかけて、健は体をよけるようにテーブルから一歩離れた。
「荷物が広がっているから見映えが悪いけれど、どうぞ」
と、右手を差し出す。
部屋の中をちらりと見て、それから彼女は恐る恐る健を見上げた。
「あ、あの……その前に……ごめんなさい」
唐突に頭を下げられて、健は、何のことかわからずに首をかしげた。
「どうか、した?」
どうも、彼女と話をするには、健が屈まなければならないようだ。
元々、二人の身長差が十七、八センチあるから、彼女が俯いたままだと話しづらい。
同じ目線に下がってくれた彼に、夕子は表情からすまなそうに言葉を探して、やはり消え入りそうな声で言った。
「うま……上手くご、挨拶が……できなくて……レイラーに……謝るように言われて……ごめんなさい」
「そう。そんなこと、いいのに」
と、返したものの、やはり気になる言い方をしてくれる。
健は、また黙ってしまった彼女に、僅かな苛立ちを感じて言った。
「どうする? 入る? 座るところはないけれどね」
夕子の位置からなら、部屋の中は見渡せる。
俯いていた彼女が少しだけ顔を上げたとき、座るべきソファの回りにまでCDが積んであるのが見えた。
「あ、あの……それも……」
「それ?」
「片付けを……手伝うように……」
「……やっぱり、そういうことか」
「?」
間違いない。
どことなく似たような育ち方をしているように感じたが、やはり、違いは明らかだ。
放任主義の両極端なやり方をしてきたレイラーたちをとやかくいうつもりはないが、こればかりは司令のやり方のほうが間違っていると思われても仕方がない。
彼女の気持ちはわかるが、このままでは今後、彼女のためにはならない。
健が、司令と同じように彼女と接してはいけないのだ。
そうでなければ、誰一人、仲間として認めてはくれないだろう。
今まで、あまり怒ったことはなかったのだが……。
言葉を探しながら、健は自分なりに威圧的に彼女を見返した。
「手伝ってくれるのはありがたいんだけれど、君の気持ちでないのなら、邪魔だよ」
「あ、あの……」
僅かに刺々しくなった声に気づいたらしい。夕子は驚いて、顔を伏せた。
「さっきの話だけれどね、君のレイラーに言われたからオレが優しいと思っているわけ? ここに来たのも、彼に言われたからみたいじゃないか。ならば、君自身はどうなんだ? レイラーに言われたから謝って、彼に言われたから手伝ってくれるということか? その中に、君の意思はあるの? 言っておくけれどね、オレはキャップから同情されるようなことはしていない。形ばかりでここに来られても迷惑なんだ。君もノーセレクトならば、オレの言ったことをよく考えるんだね。悪いが、ここを閉めるよ」
返事も待たずに、健はドアを閉めてしまった。
ため息と共に、ベッドの片隅に座り込む。
乱暴なのはわかっている。今までずっと甘やかされて、いきなり突き放されたのだ。
しかも、身近なレイラーではなく、今はまだ他人の健からだ。
これで、司令のところに逃げ込んでも、恐らく彼は夕子を優しく包み込むだろう。
だが、それでは健はともかく、実たちにとって邪魔になるのはたやすく想像できる。
資料には、記載があった。
『中途半端な訓練は、夕子を一人にさせた私に責任がある』
と。
だが、突き放されても、健はあれほどの人見知りにはならなかった。
他人との接触を極力禁止されていながら、彼は人が好きだ。
手をかけて育てられていても、実はレイラーを拒絶し、だが訓練を完璧に終わらせた。
この一文からも、司令が夕子に甘かったのだと、なぜ気がつかなかったのだろう。
付き添う人間がいなかったから、訓練ができなかった━━それ自体が甘えなのだ。
気配を伺うように、彼はドアを振り返った。
どうやら、夕子はその場から動かずにいるようだ。
“泣いているかもしれないな”
健自身は、こうして人を突き放したことはない。
可哀想だと思う反面、ノーセレクトだからわかる言い方をしたつもりだ。
ドアの向こうを気にしながらも、健はベッドから離れると最後の箱を開けた。
細かいものが入っていたが、きちんと梱包されていて、用心しながら床の上に広げると、特に一番大事にしていたものを見つけて、両手で取りだし包みを開けた。
真っ白い目覚まし時計と、同じ色の腕時計だ。
目覚ましの方は止まっていたから、腕時計で時間を確認して針を回すと、ネジを巻きはじめた
『いまどき、こんなネジなんてないだろう? 一日一回巻かないと止まっちまうからな』
これをプレゼントしてくれた老人は、そういって笑った。
遥か昔、彼が若い頃に友人にもらったプレゼントだったそうだ。
二つの時計をベッド脇のサイドテーブルに置くと、目覚ましのほうが秒針を部屋に響かせはじめた。
ノート型のコンピューターも同じ箱に入っていたから、床から拾い上げると机のほうに置いた。
今までいた部屋より広く、考えてみれば、自分が本当に使うものさえ外に出しておけば、あとはクローゼットに突っ込んでいても見栄えは悪くはないはずだ。
となれば、自分にも片付けくらいはできる。
開けたままのクローゼットと箱、それに部屋をもう一度見渡して、彼は窓際の壁に引っ掛けてあったコントローラーで冷房を強くした。
正直な話、今まで一度としてやったことがない片付けができるはずもないのだ。
整理し、整頓をするという基本的なことすら知らない。
だから、箱からうまく出していたつもりの服はハンガーに掛けられることなく床に積み上げられ、本は手に取った順に棚に並べられたものの、ジャンルやサイズはバラバラだ。
お世辞にも、きれいに並んでいるとはいえない。
他には、コンピューター用のチップやカード、コードといった、細々したものは無造作に机の脇に追いやられ、箱を一つ潰すごとにかえって見栄えが悪くなっていく。
最後に、絵画の道具を窓際の棚に置こうとしたところで、健はふと、忘れていた気配を感じた。
廊下に動きがあったのだ。
と、同時に、ノックが聞こえた。
しまおうと抱えたイーゼルの木枠をその場に置いて、彼は気持ちを引き締めてドアを開けた。
「あ……の……」
ずっとそこにいたらしいが、泣くまでには至らなかったか。
相変わらず俯いていたが、彼女はそれでも、勇気をもって顔を上げた。
「わ、私の……気持ちでお手伝い……させてください。お昼も……まだだと聞いていました。私の……私のほうが……喉が渇いていて……だから……付き合ってください。一人では……怖いんです」
なるほど、言葉を考えていたのか。
これだけ緊張していれば、喉が渇いて当然だ。
声は小さく語尾もはっきりとはしないが、それでも、突き放しただけの成果はあったらしい。
健の表情が柔らかくなった。
「君は、お昼をすませた?」
「はい……」
「ここで?」
「はい。……上で……」
「一人で?」
「レイラーと……」
「そう。ならば、連れていってもらおうかな。案内してくれる?」
彼女にとっての緊張が一気に緩んだのか、途端に体を震わせた。
自然に涙が出てくる。
泣き出してしまったその肩を優しく支えて、健は彼女の耳元に囁いた。
「オレの方から頼むよ。付き合ってくれるね?」