眠り 8
部屋が赤く染まる。
実のレイラー・美鈴千春が好きだったという、夕焼け空が広がる時間だ。
ベッドヘッドに寄りかかり、右手の中に、自分のはめていたペンダントを乗せて、護はカーテン越しに外の景色を見ていた。
庭の芝、道路との境の生け垣、道路の向こうの街並み、そして、その背後に見えるのは、この辺りでは数多い、小公園のひとつに生えているだろうと思える木々……どこにでもある風景が、赤い。
視線が、ペンダントに落ちた。
軽くスライドさせた青い蓋の下には、はるか昔の実が、変わらず笑いかけている。
人を疑うことをまだ、知らなかった、澄んだ笑顔が、護に向き、……蓋は閉じられた。
“はじめから、間違っていたのか”
ペンダントを握りしめる。そのまま、額に持っていくと、幼い実に、呟いた。
“あなたが……オレを許すことがないように”
呼吸さえも止まったかのように、一心にペンダントに祈ると、首にかけ直した。
包帯が巻かれている右肩の痛みを、まるで感じていない仕草だった。
ベッドを降りる。
部屋を出て、一度、下に降りた。
キッチンのドアは開いていた。通りすぎる間際に中を見ると、夕子が料理を手掛けている。席について、テレビを見ているのは、隆宏だ。
そのまま通りすぎ、リビングのドアを開けた。
ソファに座っていたのは実一人だった。
何をするでもなく、瞑想をしているように目を閉じている。
絵里たちはまだ、戻っていないらしい。
「こっちに来るか?」
気配に気づいたのか、実が目を開けて、手招きをした。
護は、返事もせずに二階に引き返していった。
そのまま、廊下を見渡す。
健の気配が、奥の部屋から感じる。
躊躇いもなく、部屋に入った。
ベッドで昼寝とは、いい気なものだ。
彼は、クローゼットを開けて、中からスティックを取り出すと、健のいるベッドに静かに近づいた。
スイッチを入れると、先が二つに分かれ、その間から、光る刃が伸びる。それを逆手に構えて、振り上げた。
一瞬の躊躇いもなく、降り下ろされ、そして、タオルケットのかかった胸元直前で、止まった。
健は、まったく動かない。安らかな寝息が彼の耳に入る。
僅かに、眉を寄せた。
“気が……つかないのか?”
いくら眠っているとはいえ、熟睡でもあるまいし、護自身が気配を消しているわけでもないのに、起きる様子もない。
このまま、彼がもう少し、力を込めれば、眠ったまま死ぬことになるというのに、だ。
「殺す気がないのなら、スイッチを切ってくれないか?」
唐突に、背後から声が聞こえた。
振り向いた入り口に、実が寄りかかっていた。
「ミノル……」
見抜かれていたか。
護は、スイッチを切って、サイドテーブルに置くと、健を見下ろして息をついた。
「試す価値もない……」
「ケンを庇うつもりはないが、まだ寝ていてもらわなければならないんだ。オレがかけた暗示が、そう簡単に解けるとは思わないでもらおうか」
「……暗示?」
何のために? と問いかけていたのは瞳だけで、それもすぐ、関心をなくした光へと変わって、実から逸れた。
ベッドを回り込んで、窓へと足を向ける。
実は、入り口から動かず、カーテンを開けた護に言った。
「そこにいると、ケンの邪魔になるんだが?」
最小限の動きで、視線だけを彼に向けた、護の口許が小さく動いた。
それに気づいた実が、部屋の中に入って、クローゼットの前に移動する。
「これなら出ていけるか?」
それきり、互いに口もきかず、護は部屋を出ていった。
見送ることもなく、今度は実が、健の眠っているベッドサイドに移り、覗き込む。
“早く戻ってこい。マモルが何かをする前に……止めてやれ”
それが、おまえの本質だ。
誰にも壊せない盾をもつ、強さだ。
健が、自分自身の本当の姿に気づいたとき、実はその強さに飲み込まれる。それを知っている。
それでも……
「おまえにだけは……教えてやるよ。他人の感情で埋まっているオレでも……ひとつだけ自覚している本音があるんだ。……レイラーは最期にオレを恨んで死んだけれど、それでも、この本音だけは消せない」
返事があるはずもない。それでも、実は続けた。
「おまえたちと一緒にいたい。一人も欠けることなく生かすことができるのは、おまえだけなんだよ。……マモルを止めてくれ。あいつ……死ぬ気だ」
それだけ囁いて、彼は部屋を出た。
すぐ隣の部屋は、ドアが開いていて、護が何事もなかったかのようにベッドに上がり込み、外を見ていた。
実はあえて声をかけずにドアを閉めると、階下に降りた。
キッチンはおとなしく、何の音も聞こえない。
覗き込むと、テーブルの上は食器が並べられていて、彼女は一人座って本を読んでいる。
その表情は、思わず彼が声をかけるほど、幸せそうだ。
「どうして一人でいるんだ?」
隆宏が手伝っていたはずだ。
彼女は、本から目を離して、恥ずかしげに笑った。
「お買い物を頼んでしまいました。デザートを作ろうと思って」
「それは?」
彼女の手にあった本が、実に向けられる。
「お酒用のおつまみの本です。デザートはレイラー……じゃなくて、キャップによく作っていたんですけれど、あの人はお酒を飲まなかったので、少しずつ覚えていこうと思って、ここに来た日に買っていたんです」
「趣味が料理か。エリとは逆だな」
言いながら実がキッチンに入ってきたため、彼女は本を閉じて、膝にのせた。
隣に腰を下ろした実が、それを抜き取って、パラパラとページをめくる。
酒の肴、というわりに、中身は普通のおかずだ。
写真と、作り方の説明が並んでいる。
「こんなものが参考になるのか? 君ならば、見なくても作れそうなものばかりじゃないか」
「そうなんですけれど、私、創作料理というものをしたことがないんです。お料理ひとつでも、味付けを変えると、それはそれで違ったものになるんですよね。……こういうものを見るのも好きなんです」
中身を読むわけではなく、流すようにページをめくる手が、止まった。
カナッペの作り方が書いてある。
写真には、何種類かのカナッペと、ワインのボトルが、ほんのりとろうそくの火とともに写っていた。
『お祝いよ』
テーブルに載った、カナッペとシャンパン、スモークサーモンは、材料をすべて買ってきて、飾り付けただけのものでしかなかったが、それでもレイラー・美鈴千春はそのとき、人生で一番、嬉しそうに笑っていなかったか。
訓練過程は、十八歳の誕生日にすべてが終わるようにプログラムされていた。
彼女が病気で寝込んでいようが、実は、一日のプログラムを、真っ正直に仕上げてきた。
レイラーにとって、自分の発病と共に、実が一切口をきかなくなったことが辛かっただろう。
だが、その日ばかりは見ないふりをして、はしゃいでいた。
毎年のバースデーではなく、その日は、本当にいろいろな意味で、特別だったに違いない。
シャンパンの栓を抜いて、おめでとう、と彼に勧めた。
その一杯でひっくり返ってしまった実には、あのとき、テーブルに並んでいたカナッペを食べた記憶がない。
手をつけないまま終わってしまった料理だった。
「作りましょうか?」
隣で、ページに目を向けていた夕子が、おずおずと聞いた。
「え?」
「それ……材料がありませんから、今日は無理ですけれど……」
実は、いきなり本を閉じて、夕子に突き返した。
「別に、食いたいわけじゃない」
つい、いつもの勢いで声を尖らせた実だが、驚きと不安を含めてこちらを見る彼女に気づいて、立ち上がった。
「一々怯えるな、ユウコ。別に、責めたわけでも怒っているわけでもないんだ」
「……はい……」
呆然と返事をしたものの、言葉の刺々しさに、泣くまでに至らなかったのは、ショックよりも恋心が勝っていたからか。
それとも、実のほうが、初対面のときの、拒絶という壁を作らなかったからか。
だが、いずれであろうと、夕子の今の、彼に対する感情は、時間が経つごとに強くなっている。
内気で、人に会うことを怖がっていた分、一人を意識すると、こうも極端になるものだろうか。
うっとうしい。
「ユウコ」
実は、彼女に背を向けて、呟くように呼び掛けた。
「はい」
「オレに何かしようとは思うな。君の好意はありがたいが、それは他の奴に向けた方がいい。オレにとっては、誰の親切も苦痛なんだ。頼みたいことがあるときは、オレの方から声をかける。だから、何もするな。わかったな?」
僅かに振り向いて、確認を求める彼の目に、最初にきょとんとして、それから何か納得したらしく、嬉しそうに微笑んだかと思うと、今までにないほど明るく、
「はい、ミノル」
という彼女の声が聞こえた。
「……」
どうも、言った実と、聞いた夕子の間に、微妙な食い違いがあるような表情だ。
根本的なところで勘違いをしていないか?
彼女には、どういう言い方をしても無駄だ。
そう、感じた。
ため息混じりに、彼は勝手口に足を向けた。
「外にいるから、冷たい飲み物を持ってきてくれ」




