眠り 6
どこに行くあてもない隆宏たちは、坂の上の方に歩いていた。
どうせ、すぐに帰れる訳ではないのだ。
昨日も、護を含めた三人で、横浜の街をいろいろと歩いて回った。二日続けて、コースをたどる気にもなれず、それならばと、近場の公園で時間を潰すつもりだった。
初日に、別れて歩き回ったこの街の地図は、彼らなりのものになって隆宏の頭に入っている。
朝食を食べたばかりなので、喫茶店に入る気もなく、足を踏み入れた公園内に、そういえば、小さいながらもバラ園があると、実がいっていたのを思い出した。
「花は好き?」
と、夕子に尋ねたときにはもう、彼は行き先をそこと決めていた。
彼女は、満面の笑みで、ハイ、と言った。
坂の頂上から左に折れて、見える公園に足を踏み入れると、まず、目に入ったのは、何人かの警官の姿だった。
「?」
公園内にいる人に声をかけて、何やら聞き回っている。
事件でもあったかと、彼らを避けて、バラ園のほうに向かおうとした二人だが、やはり声をかけられてしまった。
「すみませんが、目撃者を探しております。ご協力をお願いします」
「は?」
振り返った隆宏の後ろに、夕子がそそくさと隠れた。
「つい三十分ほど前に騒ぎがあったんですが、何か見かけませんでしたか?」
「……今、来たばかりですから、何も……」
それよりも、この警官を、どこかで見た、ような……
と、すれば……
「あっ」
思い出した。
彼の上げた声に、警官の顔が、期待を含んだ表情に変わった。
隆宏が、頭を下げる。
「夕べは、ごくろうさまでした」
「はあ?」
今度は、警官のほうが、間の抜けた声を上げる。
「夕べの、暴力団事務所にいらっしゃったでしょう?」
目を丸くした警官は、次には不審そうに隆宏を睨み付け、しかし、すぐに姿勢を正して、敬礼までした。
「失礼しました。確か、トウキョウの……」
それにしても、と、警官は思った。
夕べの自分の仕事といえば、集まってきた野次馬を遠ざけるために、事務所から離れて対処していた、何人もの警官の一人に過ぎなかった。
今、思い出したが、隆宏は、自分から離れたところで、野次馬たちを見ていたはずだ。
結構大人数の、制服警官の一人に過ぎない自分を覚えていたどころか、労いの言葉までかけてもらえるとは、感激する。
「あの……何かあったんですか?」
唐突に話を変えた隆宏に、警官は姿勢を正して、答えた。
「じつは、暴力未遂事件でして。……なにしろ、被害者のほうが逃げているので、加害者を捕まえても事情が把握しきれていないんです」
「未遂ならば、被害者にならないのでは?」
「逃げたときに、ケガをしたようなんです。今、病院の方も当たっているんですが、行っている形跡もないようで。それに、逃げたということは、被害者のほうにも後ろめたいところがある可能性もありますから」
思わず、隆宏は夕子を見下ろした。
彼女も、驚いて見上げている。
「どうしてケガをしていると?」
「通報者の一人の証言なんですが、あそこ……」
と、警官は、海が望める柵を指差した。
「被害者は逃げるためにそこから飛び降りたらしいんです。あそこは、下にも通路があります。ありますが、結構な高さですから、落ちたらケガをします。……下にいたという通報者は、その男性……なんですが、一度、空中で止まったように見えたというんです。というか、何かに支えられたような、と」
加害者として逮捕された三人と、目撃者の話で状況を要約すると、一人の男性が━━時間的に言っても、これは護だと、二人は思っている━━柵の手前にあるベンチに座っていたらしい。それほど朝が早かったわけではない時間に、一人でいた彼に、加害者たちは声をかけたという。
どうやら、彼らは、護を最初、女性だと思っていたらしい。大学に行こうか、サボろうかとブラブラしていたところに彼を見つけて、ナンパしようとしたらしい。
彼は、三人をみて、無視してそこから離れた。
しつこく付きまとって、初めて彼が男だとわかったが、今度は、無視されたことに腹を立てて、因縁をつけたそうだ。
ところが、彼は、あっさりすり抜けて、躊躇いもなく柵から飛び降りた。
三人が驚いて下を覗き込むと、柵のところに何か巻き付いている。その下にいた彼は、手首から時計を外して降りると、少しの間、右肩を抑えて踞っていたが、三人が見下ろしていることに気づくと、走り去ってしまったということらしい。
「その……時計は? 今、どこに?」
本当ならば、警官から民間に質問はしても、逆はない。
だが、警官にとって、今はもう、隆宏は警察署長の口利きでやってきた重要人物だという認識と、覚えてもらえていたという気安さがあり、口を軽くしていたようだ。
「いや、じつはですね。時計じゃないんですよ。バンドのようなもので、そこからテグスが伸びていたということです。漫画で見るようなアイテムですな。……署のほうで保管してあります」
「実物をご覧になりましたか?」
「いえ。ただ、写真は回ってきましたから」
念のために確認する意味で、隆宏は、自分の左腕にはめていた腕時計を外した。
その下に、隠れるようにはまっていたバンドを、警官にかざす。
警官の目が、驚きで見開かれた。
「そ、それです。……じゃ、被害者というのは……お仲間でしたか?」
「そのようですね」
と、なると、バンドを取り戻す必要がある。
あれは、本部から支給されたものだ。警官のいうとおり、漫画か何かで目にすることはあっても、市販はされていないし、実物を他に渡すわけにはいかない。
隆宏は、時計をはめなおしながら、夕子を見下ろして考えていたが、自分の腕にしがみついている彼女の手に、自分の手を重ね添えて、顔をあげた。
「被害者はうちにいます。ケガは大したことはありません。こちらから、警察署のほうに事情をお話しに伺っても、構いませんか?」
「はい。ぜひ、お願いします」
行き先変更だ。
無線で、署に連絡を入れ始めた警官に会釈して、二人は踵を返した。
掛かってきた電話に出るために部屋を出た実だが、そろそろ護が目を覚ましてもおかしくない頃だと、受話器だけを持って、とって返した。
相手は隆宏だ。
護がケガをした理由がわかったという報告に、窓を開け、バルコニーに出る。
黙って、返事すらなく聞いていたが、最後に、
『ケンに聞くこともできないし、どう対処したらいいかな?』
と、尋ねられた。
「おまえに任せる。そっちは、オレたちのことを知っているからな」
『加害者の処遇は?』
「それもおまえの判断で構わない」
『了解。まだ帰らないほうがいいんだろう?』
「悪いな」
『いいよ。じゃあね』
スイッチを切って、実はバルコニーに寄りかかった。
犯人に、反撃をせず、逃げる。……それは、懸命な判断だ。自分から騒ぎを大きくする必要はない。
だが、そのあとが悪かった。
あのテグスでケガをしたとなれば、この先使えるわけがない。脱臼しても、護が他人に触れられることを拒むのなら、今後、絶対にケガはさせられない。
治療するのに、いちいち眠らせるわけにもいかないだろう。
“オレたちも同様だな”
左手首にはめていたバンドを、実は外した。
本部に戻すべきだ。
彼は、部屋にはいると、持っていた受話器とバンドを、空いているベッドに放って、そこに腰をかけた。
下ろしている両足に腕を支えて、護を覗き込む。
動かない。音もしない。
冷房の効いた部屋の中で、彼は、大阪にいた頃を思い出していた。
いつも、一人で部屋に籠っていた。
夕方近くになると、ほとんど毎日、一人の友人が、遠慮もなく入ってくる。
自分のほうは、返事すらしなかったというのに、彼はいつも、学校であった出来事や、話したことを口にして帰っていった。
関心も持たなかった。今でも、彼の話のほとんどを覚えていない。
それでも、彼は構わなかったのだろう。
実から笑顔が消える前まで、その友人は、他の、何人もいた友人の一人でしかなかった。
実が、すべての他人を拒絶して……それでも残ったのが、彼だったのだ。
最後に会ったのはいつだったろう。
入ってきていきなり、謝っていた。理由も言わずに、
『今日で会えない』
と、言っていたような気がする。
確かに、それきりだった。
実には、彼が謝っていた理由も、翌日から、本当に来ることがなかった事実にも、興味はなかったのだ。
友人が多かったという隆宏とは正反対だ。
彼は、ノーマルに溶け込んでいたのだろうか……。
色々なことが頭に浮かぶ。
すべて、昔のことだったが、当時は何も考えずにいられた。ひたすら他人を避け、自分の中に閉じ籠り、感情の介入を遮断する方法を探し、身に付ける努力をした。
何年ものあいだ、彼は本当に、一言も声を出さなかった……。
“おまえは、いい声をしているよ”
無様な叫びすら、その声の丸さや心地よさは損なわれていなかった。
本当に、寡黙であることが惜しい声だ。
また、しばらくは、彼を見下ろす。
が、それは唐突に起こった。
前触れもなく、護が目を覚ましたのだ。
同時に飛び起きる。その動作が肩に響いたらしく、右肩を抑え、そしてやっと、隣のベッドに実がいることに気づいた。
自分のいる場所や、状況を理解したのは、もっとあとのことだった。
「オレがわかるか?」
静かで、落ち着いた表情に、護は頷きかけて、右肩に治療した形跡があるのに気づいて、青ざめたまま、ベッドから飛び降りる。
「見、た……のか……?」
それが、何を示しているのか、実は充分に理解し、頷いた。そして、いつものように見下したように、笑った。
「おまえの努力の成果か? よくもそこまで訓練したものだ」
「……?」
「専属のトレーナーでも雇っていたのか? 完璧でいるためにはそんなになるまで訓練していたというわけか。……馬鹿馬鹿しいが、そこまでしてくれたレイラーには、感謝すべきなんだろうな」
彼は、何を言っているのだ? 訓練の傷……?
「ちゃんと治療をしないから痕が残るんだ。まあ、腕にまで残っていれば、見せられないのも当然か。完璧でいるための努力は隠しておきたいだろうからな」
「努力? ……訓練……?」
傷を、そのためだと勘違いしているのか、それとも……見てしまったことに対して、言い訳をしているのだろうか。
もしかして、自分は、言ってはいけないことを口走ったのかもしれない。
それを聞いて、気遣ってくれたか?
実なら、そういう心使いも持っている。
が、
「なんだよ? 違うのか?」
呆然としていたところに聞き返されて、返答できずに俯く。
どうやら、本当に、訓練による傷だと思っているらしい。
幾分か、気分が落ち着いた。
だが、そうなると別の懸念が浮かぶ。
最初に実は、自分がわかるかと、尋ねた。
そう、記憶がないのだ。リビングで、声をかけられたまでは覚えている。近寄った彼の姿が、最後の記憶だった。
「何か……したか? オレは……」
「ああ、思いきり暴れてくれたよ。タカヒロと二人がかりで押さえつけたんだぞ。たかが治療にあれほど抵抗するのなら、ケガなんかして帰るな」
実は、ベッドに投げ出してあった受話器を取り上げて、彼のほうに向けた。
「おまえのベルト、警察で保管してあるそうだ。タカヒロが持って帰ってくれる。おまえに声をかけたやつらは逮捕されたとさ。……おまえな、オレを知っていたんだろう? ライセンスを持っていることも、それを誰のために採ったかも、わかっているんだろう? オレはな、おまえたちを診るためにいる訳じゃないんだ。だがな、いくらなんでも放っておけるか。それを……勝手にケガをして触るなだと? そんなにオレが嫌なのか?」
「ちが……違う……」
「何が違うんだ。嫌われようが、オレは構わないが、それくらいはハッキリ言えよ」
「ちがう……」
誤解だ、と呟いた。
その場に立ちすくんだまま、護が俯く。
「……オレは……何か言ったのか? ……他に……」
「覚えていないのか? おまえはな、触るなと言っていたんだ。ノーセレクトの、医者の、仲間のこのオレにだ。そこまで嫌われていたとは思わなかったよ」
「だから……違う……」
「なら、どうして抵抗した? 傷を見られたくないおまえのプライドか? 確かに、立派なものだよ。おまえはいつもトップだったからな。結構な負けず嫌いだ。でもな、そんなもの、くだらないプライドだよ」
もう一度、違う、と口が動いた。
しかし、声にはならなかった。
何を言っても無駄なのだ。自分が本当のことを言えない限り、実は誤解し続ける。
かといって、今まで嘘をついたことがない自分に、適当な理由が思い浮かぶはずもない。
結局、黙ってしまう。
「オレはなぜ……ここにいるんだ?」
リビングにいたはずが、気づいたらここにいた。
記憶をなくして、暴れて、そのあとどうなった?
実は、持っていた受話器で、彼の左手首を指した。
「あまりにもうるさかったからな。麻酔で黙らせた。言っておくが、おまえの望み通り、治療の他は触っていない。……マモル、少しは自分の体を大事にしろ。おまえがオレを嫌っているとは思っていないよ。多分、おまえは医者自体が嫌なんだろう? それなら尚更だ。くだらないノーマルに絡まれた程度でケガなんか、するんじゃない。もっとうまく逃げろよ」
そういうと、話は終わりだとばかりに、もうひとつ、投げ出してあったベルトも取り上げて腰をあげた。
「おまえの食事を用意してやる。下に来い」
と、さっさと部屋を出ていってしまった。
とりあえず、これでよかったんだと思うしかない。
実は、自分の判断に疲れたように息をついた。
他人に悟られないように誤魔化すことが、これほど神経を使うとは……。
あれは、拷問のあとだ、多分。だが、それをストレートに切り出してしまえば、護は即座に死ぬことを選んでいたかもしれないのだから。
混乱した記憶の中の、誰とも判断できない相手に、殺してくれと繰り返したとすると、そういう目にあったこと自体を恥じている。それどころか、触れられることで、現実から心が離れてしまう。
それだけひどい目にあったということか。
一階に降りたとき、二階から護が出てくる音が聞こえた。
実は、キッチンに入り、今朝と同じメニューを用意し始めた。
無言で入ってきて、席につく彼の気配を背中に感じながら、コーヒーまで用意して、テーブルに並べる。
時間は、どちらかというと、昼に近くなっていた。




