眠り 5
「マモル……」
どうやら、庭から直接上がり込んだらしい。ソファに腰を掛けるところだった。
隆宏の呼び掛けにも反応せず、窓の方に目を移す。
入ってきた隆宏は、何事もなかったかのように、にっこり笑いかけた。
「お帰り。おなか、すいていないか? 食事は用意できるよ」
それにも反応がない。
あとから入った実がわざと、護の視線を遮るように立ちふさがった。
「返事くらい、しろよ。食うのか?」
突然視界に現れた顔に、目を見開いた護は、しかし、すぐに気まずそうに逸らし、無意識に左腕を右肩に上げかけて、止めた。
そのまま、右肩を素通りして、髪をかき揚げる。
ゆっくり立ち上がると、実のいる場所とは逆から、テーブルを回り込んでキッチンに入ろうとしたが、
「ちょっと、待て」
という実の呼び掛けに、背中を向けたまま、止まった。
「まだ……何か……?」
問いかけようとしたが、実が近づく気配の方を、彼は察知した。
素早く振り返るが、それよりも早く左腕を捕まれ、彼はまるで、体に電気が走ったように反応すると、乱暴に振りほどいた。
途端に、右肩を抑えて蹲る。
「やっぱり痛めていたか。見せてみろ」
どこで何をしていたかには興味はなかったが、護の後ろ姿に、実は違和感を感じたのだ。
襟元を掴まれたとき、護は痛みを忘れた。
思いきり実を突き飛ばし、部屋の隅に……まさに逃げ出したのだ。
「近寄るな!」
声が震えている。固く目を閉じ、その場に崩れた。
小刻みに震える手で、口元を抑えた。
「違う……あれは……違う」
実は意地になっていた。
突き飛ばされたことが気に入らなかったのだ。
何より、完璧であるはずの護の醜態が、不愉快だ。
反撃すらせずに、突き飛ばして逃げた、など、あっていいはずがない。
「タカヒロ!」
怒鳴ったと同時に、実は護を抑え込んだ。
慌てて、隆宏も彼の足を抑える。
油断をすれば弾かれてしまいそうなほど、その抵抗は強かった。
「離せっ! 触るな!」
「動くんじゃない、マモル。肩を診るだけだ」
「嫌だ! 離せ! はなせっ!」
小さな舌打ちとともに、実は思いきり、護の頬を叩いた。
落ち着かせるための処置だったが、それが功を奏したのか、途端に、力が抜ける。
だが、その目はどこを見るでもなく、まるで、魂が抜けてしまったかのようだった。
「落ち着け、マモル」
「……殺して、くれ……。もう……会えない。……ミノルに……会えない……」
「何を……? よく見ろ、オレならここにいるじゃないか」
「会いた……かった……。けれど……もう……」
「おまえ……オレがわからないのか?」
隆宏は、いつしか抑えていた手を離していた。そのまま、心配そうに護と、実を見回す。
護は目を閉じた。
「殺して、くれ。……彼の、ために……」
その言葉に含まれた感情なのか、実の顔が歪む。
溢れだした涙に、隆宏が目を見張った。
「ミノル、君……」
「こいつの感情だ。オレのものじゃない。ただ、……きついな。それより……」
振り返ると、夕子が不安そうにドアから覗いていた。
「二人とも、向こうに行っていろ」
「……わかった」
自分の感情ではないためか、実の、指示をする声はいつもの、しっかりとした張りがあった。
他人が同居する、その心の中に実は、護のどんな感情を見ているのだろう。
二人の姿がキッチンに消えると、実は護をその場に残し、二階に上がっていった。
ひとつの箱を持って、降りてくる。
それは、実専用の薬箱だった。
本部に集まる日が近づいた頃、それぞれのレイラーのもとに通達があり、私物は本部に置いておくものと、移動先に置くもの、それに予備、と、三つに分けてある。
薬箱は、実が念のためにと、やはり三分割して用意していたのである。
中から、錠剤を二つ、取り出した。
「マモル」
静かな呼び掛けで、ただそこに座っていただけの護が、機械的に顔をあげた。
「これを飲んでくれ」
「……」
「これで、少しは楽になる」
二粒の黄色い錠剤見下ろし、実を見上げ、そして、その手の上に、錠剤が渡された。
「楽、に……」
「それから、注射をするが、構わないな?」
肯定も否定もなかったが、その代わり、錠剤は口に入れられた。
飲み込む必要のないものを用意したため、それは、口の中ですぐに溶けるはずだ。
どうせ、彼には薬の種類など、わからないだろう。気休めの、単なる栄養剤のタブレットだ。
様子を見て、箱から今度は、注射器と液剤を出す。
「マモル、左腕を出してしっかり支えていろ。おまえには触らない。わかるな?」
言葉の意味を理解しなくてもいい。ただ、従ってくれれば……。
ゆっくりとした動作で、左の袖を捲った護は、腕を膝にのせて、伸ばした。
「……! おまえ……」
腕に見えたのは、いくつもの傷跡だった。
赤く筋が残った跡や、火傷が染み込んだ、赤黒い傷だ。
だから、だったのだ。
これを隠すために、夏にも関わらず、長袖を着ていた……。
何があった?
そう問いかけかけて、彼は、息をつくことで止めると、何も言わずに、差し出された左腕を凝視した。
が、触診もせずに血管を探すのは、やはり困難なことだ。
細く、白い腕にくっきりと残る、いくつもの傷跡が痛々しい。
「仕方がない。マモル、手の甲を上に向けてくれ」
見ていられない。
さっきとはうって変わって従順に、彼は腕を返した。
手首の辺りにまた、目を凝らして、ようやく見当をつけたのか、スプレーを吹きかけて、針を当てる。
「我慢してくれ」
こちらのほうが痛いはずだ。しかし、護は、自分の手首に針が当てられてから、それが刺さり、液剤が体内に入って抜き取られるまで、結局、眉ひとつ動かさずに見つめていた。
針あとに、綿が被される。
「押さえていられるか?」
これにも、素直に従った。
しばらくの間、実は様子を見ていた。
護の方は、綿を押さえたまま、動かない。
しかし、それは長く続かなかった。
ゆっくりと、右手が離れ、徐々に体が傾く。
倒れる寸前で抱き止め、実は彼を背負った。
一度、キッチンに顔を出す。
「タカヒロ、部屋を借りるぞ」
「う、うん。……あの……」
「今は何も聞くな」
二階の、隆宏たちの部屋は、健たちの部屋のはす向かいにある。
苦労してベッドに寝かせると、実はまた、部屋を出て、先程の箱を持って戻った。
完全に意識のない護の、シャツのボタンを外していく。
首筋から胸元、腹にかけてシャツがはだけていくと、そこに見えたのは、腕についていたよりも多くの傷跡だった。
細かく調べるまでもなく、それらは刃物による傷だ。小さな火傷も、いたるところにある。
まるで、拷問にあったような……。
傷から目を逸らし、彼は胸元にあった、青いペンダントを見つけた。
服の下に、しっかりと隠されていたそれは、真面目そのものといえる護には不釣り合いに見える。
さほどの興味も持たず、シャツの右肩をめくった。
赤く腫れている。
“軽い脱臼か”
これならば、ずれた関節を戻して、シップをしておけばいい。
手早く処置をして、シップの上から、肩を固定するように包帯を巻いていく。
コルセットがあればよかったのだが、本部の医務室にでも行かない限り、すぐに手にはいるようなものでもない。
優しく服を着せて、ボタンを留める。
これで、麻酔の効果がなくなるまでは目を覚まさない。
箱の中を整えて、彼は部屋を出た。
キッチンでは、沈黙の中、二階の様子を伺うように二人して、上を見上げていた。
まるで、聞こえない音を感じ取ろうとしているような様子だ。
静かに、ドアが開く。
二人の視線は、すかさず入ってきた実に移った。
「どうだった?」
彼らが何を待っていたのかはわかっている。
だからこそ、箱をテーブルに置いて、二人の問いかけを止めるために手をかざした。
「右肩の脱臼だ。処置をしたから、それほど大事にはならないはずだ」
「そ、そうじゃなくて……」
「これ以上は聞くな」
「……無茶なことを……言ってくれるよ」
好奇心で聞いている訳ではないことくらい、実ならわかっているだろうに……。
「ユウコ、君も……」
彼女は、口元を抑えていた。ホロホロと、涙をこぼしながら。
「どうした?」
「……ごめん、なさい……。見て、いられなかったの……。あの人は……あんなにも……あなたが大切なんだと、思うと……」
どうやら、彼女にとって、あの状況の理由は必要がなかったようだ。
感動の涙、か。
彼女にとっては、自分の存在をなくしても悔いを残さないほど実を大事に思う護に、ただ、感動したらしい。
しかし、実は、それが迷惑なことだという表情で、顔を逸らした。
実際、迷惑だった。
というより、疑問だったのだ。
自分が護に会ったのは、本部が最初だ。
彼の方は、レイラー・美鈴千春とは会っていたらしいが、それだけで、あれほど会いたがれる理由にはならないだろう。
自分は彼に、何もしていないし、されてもいない。
実のために殺してくれ、と言ったが、そんなことをされる謂れはないのだ。
昨日まで、ことあるごとに護は実を見ていた。
見られていると感じて視線を向ければ、顔を逸らすところを、何度も確認している。
しかし、彼の感情は入ってこなかった。
完璧に、気持ちを遮断していたということだ。
一度だけ流れてきたものは、触れられたことへの嫌悪感と、後悔の思いだった。
それを考えると、やはり、護の過去になにかがあったとしか考えられない。
あの時は確か、レイラー・千春が亡くなったことを告げたあとだった。
彼女に関係があって、触れられることを嫌悪し、そして、反撃も防御も思い付かずに━━別に、こちらが攻撃しようとしていたわけではなかったが━━ただ、逃げることしかできなかったほど追い詰められるめにあっていた、ということか。
“少なくとも、レイラーからは何も聞いていないな……”
何しろ、護と彼女が知り合いだったことすら、知らなかったのだ。
第一、会ったこともなかった護が、なぜ、実をあれほど大事に思う?
“……わからない……”
やはり、迷惑だ。
「タカヒロ」
彼女から顔を逸らしたまま、実は呼び掛けた。
「二人で出掛けてくれ。どうせ、あの二人は眠ったままだ。何もできないからな」
「君は?」
それは、実のいつもの嫌みだった。
見下すように、笑う。
「医者が患者に付き添うのは当たり前のことじゃないのか?」
健は放っておくしかない。誰かが部屋に入れば邪魔になる。
実は、二人が出掛けたあと、しばらくは椅子に座っていたが、夕子が途中でやめていた洗い物を見つけると、片付けまでしてから二階に上がっていった。
入ったのは、護がいる部屋だ。
ここ、横浜に来た日に、隆宏と今後のことを話し合った部屋……。
メンバーの手助けをするつもりはなかった。
してはいけないと言い聞かせていた。
彼らが、最初のときのまま、自分を嫌っていてくれれば、彼はメンバーから離れた位置で、自分の決意を通すことができたのだ。やりぬく覚悟を持っていられた。
レイラーが亡くならなければ、それはもっと、単純だったろう。
すんなりと手を貸すこともできた。
実際、彼女はずっと、言っていたのだ。
『メンバーのいい仲間になれるわ。みんなも、あなたを大事にしてくれる。それを楽しみにしていてね』
そして……
『本当に、いい子に育ってくれたわ。ミノル、優しい子になってくれた……』
“やめてくれ!”
心に響く声を、忘れられたらどんなにいいか。
思い出す言葉を、彼女は最期の一言で否定したではないか。
幻聴に耳を塞ぐように頭を抱えて、実は護の眠るベッドに腰をかけた。
“許されなくてもいい。……こいつらがオレをいらないというまでは……傍にいたいんだ”
優しく、手を、指を護の髪に滑らせる。
ダークブラウンに光るそれは、ほとんど抵抗のないまま、彼の指から滑り落ちた。
僅かに開いた唇も、白い肌に整って閉じられている目も、こうしてみると、女性に見間違えそうだ。
普段は、まったく表情がない。まるで、人形を見ているようだ。
人の言うことに、返事もしない。小さな首の動きだけで、近づくこともない。
訓練のデータは、常に、すべてにおいて完璧だった。
それが、あれほど怯え、逃げて、想いを吐き出した。
何があった?
問い詰めるのは簡単だ。だが、彼はあのときまで、見事に隠していた。体の傷も、だ。
聞けない。聞き出せるはずがない。
恐らく、肩の治療をしたとわかれば、何かしらの反応はあるだろう。傷跡を見なかったとはいえないのだから。こちらもごまかすことはできない。
話すだろうか? 何があったのか……。
「なあ、連絡を入れたほうがいいんじゃないか?」
窓の外を見ていた高志が、そのまま聞いた。
操縦桿を握っている絵里が、
「バカね」
と、軽い声で笑う。
今さっき、帰路についたところだ。
「なんでさ」
「空の上で何ができるのよ。あたしたち、電話すら持っていないじゃない。無線は本部にしか繋がらないわ。それに、昨日、連絡だけはしておいたわよ。それより寝ていなさい。まだ無理しちゃダメよ」
「平気だよ」
そう言ったものの、ムキになるほどの気力がない。
当然だろう。
覚えている限り、一度たりとも、高熱にうなされたことがなかったのだ。
熱にうかされて、眠った気がしない。
今朝は、幾分か楽になったから、午前中横になっていただけで、こうして戻る気になったが、熱があった間中、嫌な夢を見ていた気がする。
それがなんだったかは覚えていない。
気がついたときに、絵里が優しく声をかけてくれたことが、無性に嬉しかった。
「具合……悪かった訳じゃないのに……なんで熱を出したんだろう」
絵里は、横目で彼を見て、その頬に手を当てた。
「あたしの分までがんばったからよ」
「確かに張り切っていたけれどさ」
「そうじゃなくて。要するにプレッシャーね。あたしに負担をかけないようにしてくれたんじゃない。嬉しかったわ。あんたとペアでよかった」
「だって、それは……」
健に言われたからだ。
女性を守るように、と。それだけを言い聞かせていた。
もし、彼のアドバイスがなかったら、どうだったろう。
彼女もメンバーなのだから……訓練の結果は同じようなものだったから、と、きっと彼女のあとについていたかもしれない。
「オレの考えじゃないよ……」
どうやら、熱を出したことで、気弱になっているようだ。
彼女は、軽く頬をピタピタと叩いた。
「何を言っているの。誰の考えでも、実際に動いたのはあんたなのよ。それに感謝しているの。……さあ、本当にもう、休んでいなさい。弱った体をケンたちに見せたいの?」
「わかったよ……」
もそもそと、席のリクライニングを後ろに傾けて、彼は目を閉じた。
なにかが足りない。それは多分、彼女だけではなく、他のメンバーにも励ましてほしいのだ。
どうしてそう思うのかはわからないが、今は、彼らの声を聞きたかった。




