眠り 4
すっかり冷めてしまった、朝食の残りを食べていた隆宏と夕子は、入ってきた実の姿に、手を止めた。
「どう?」
実もまた、残りを片付けるつもりか、席につく。
冷たくなったコーヒーカップを取り上げて、一口含んだ。
「部屋には立ち入り禁止だ。少なくとも、エリが帰るまではな」
「なんで、エリ?」
「ああ、彼女に起こしてもらう。あいつには必要な時間を作っておいた」
硬くなりかけたトーストを取り上げる。
すかさず、彼女が席を立った。
「あの、温め直します」
「いや、いい。それよりも、マモルはまだ、戻らないのか?」
聞くまでもないことだった。二人の、
「まだ」
というハーモニーに、さほど興味を持たず、続ける。
「断言はできないが……ノーセレクトだから、だと思う」
と。
いきなりの結論に、隆宏が首をかしげる。
「どういうこと?」
「最初に言ったが、オレたちとケンの立場は分けるべきだ。リーダーだからじゃない。ケンだから、分けなければならないんだ。あいつの強さは、オレたちとはかけ離れている。オレは、今まであいつほどの強さを誰からも感じたことがなかった。感情だけじゃない。存在自体が、強いんだ。あんな男を、初めて見た。あれは……誰にも崩せない。先天的な性格と、後天的な環境が作り出したのかもしれない。……その反面、強いからこそ、あいつの弱点になってしまったんだ」
ますますわからない。
夕子も、無意識に、浮かせていた腰を下ろした。
「あいつ個人には、弱味はないんだよ。今まで聞いた話から推理すれば、個人的な苦悩は持っていないし、この先もない」
「でも……じゃ、あんなに悩んで見えたのはなんなのさ。君の無茶な要求を必死に受け止めて落ち込んでいたのは?」
「だから、それが答えなんだ」
「答えって……」
「マモルのこと、ユウコやタカシのこと、それに無茶な要求……どこにあいつの悩みがある?」
「彼の悩みじゃないということか? あれのどこが?」
「違う。居場所を作るという、オレたちのためのものだ。この中で、誰か一人でも口にしたか? そんな言葉を」
思わず、夕子たちは顔を見合わせた。
確かに、その言葉を使ったのは彼だけだ。
居場所など、本部があることは前から知っていたし、そこにメンバーが集まることも、住む場所になることも、彼らは当然のことと受け止めていた。
つまり、あの本部が彼ら、ノーセレクトの居場所であり、まさに、言葉通りの意味でしか捉えていない。
だが、健のいう居場所の意味は、違うのだ。恐らく。
実は、パンを食べてしまうと、自ら席を立って、ウォーマーに残っていたコーヒーを注いで戻った。
「オレは、楠木さんの教育方針を詳しくは知らない。環境も聞いていない。ただ……今のあいつをみていると……」
と、二人をゆっくり見回した。
「楠木さんは、あいつを、オレたちのために教育したとしか思えないんだ」
また、夕子たちが顔を見合わせる。
この話は、おととい、健がシャワーを浴びているときに、二人に上った話題だ。
ノーセレクトのためだけの教育、と、夕子は、剣崎司令からの又聞きながら、捉えた。
実がそう感じたのなら、やはり、彼女の言ったことは間違っていなかったということになる。
実は続けた。
「一人目のノーセレクト……つまり、年長の事実は変えられない。その上、リーダーという地位を押し付けられてしまったから、あいつは悩んだんだ。後付けされた地位は、オレたちには不要だということは、今さら繰り返すまでもないだろう? だが、年長ということは、多分、物心ついたころから教え込まれていたんじゃないだろうか。あいつには、年下の、守らなければならない存在がいる。けれど、自分より上の人間はいないんだ」
「それって……あの人は人に頼ることはないと……言うことでしょうか? 私たちにすら?」
「オレたちだから、なんだ。年下だから、悩みを言えなくなった」
一口、コーヒーを飲み込んで、カップを両手で包むようにテーブルに置く。
「あいつの環境は特別過ぎた。友人もいない。知り合いは、楠木さんの知り合いだけ、だったな?」
隆宏が頷いた。
「それを、オレなりに考えてみた。……ケンにとって、必要なのはノーセレクトであって、ノーマルは邪魔物でしかない。……と、教えられてきたんだと思う。その上、ノーセレクトですら、あいつと、メンバーを分類して教え込まれてきたんだ。ケンが、オレたちを包み込むように、と。それが、あいつのいう居場所なんだろう。おれだけオレたちが箍を外しても、あいつの懐からでることはない。それだけの、それ以上の包容力を、徹底的に教え込まれたんじゃないかと思うんだ。だが、あいつ自身は、楠木さんの意図を理解できなかった。だから、自覚もしていない。……それで、オレたちのことを、自分の悩みとして受け取ってしまったんだ」
「あ……」
夕子が、口元を抑えて、視線を泳がせた。
その、考える仕草に、実の言葉が止まる。
隆宏は、不思議そうに彼女を覗き込んだ。
「あなたの……いうことは、こうですか? ……つまり、あの人は、私たちのことを、自分の悩みに摩り替えてしまっています。でも、それは一見すると、自然なこと、なんですよね。リーダーとして、年上としてどうすればいいのか……」
まるで、独り言のように呟く彼女に、実はそうだ、と、言った。
「でも、考えの根本が違う。……自分がどうあるべきか、ではなくて、私たちのために、どうすればいいか、の違いです」
「それって、違う?」
隆宏には、同じにしか聞こえないようだ。
夕子は、彼に対して、漠然と頷いた。
「違うと思います。普通、リーダーならば先に立って、自分のあとについてこい、ということもあると思うんです。独断も存在しませんか? 自分がしっかりしないといけない、弱味をみせてはいけない……」
「だから……」
「ええ。最初の彼がそうなんです」
彼女が、珍しく、隆宏の言葉を遮って続けた。
「でも、それ自体が違うんです。あの人の本質じゃない。それで、今度は私たちの言うことに従った……。自分が納得できなくても、私たちがいうことだから、聞いているんです。ただ、それもまだ、違うんです……。……ああ……すみません、うまく説明できないわ」
感覚として、彼女には、実の言いたいことが理解できているのだ。
ただ、それが言葉にならない。
彼女は、レイラーが剣崎司令だったこともあって、自分自身が一人でいることが多かった。寂しかったのは、本当だが、一方では、メンバーに会った司令が帰ってきたときの話を聞くことを、楽しみにもしていた。
だから、恐らくメンバーの中で、一番、彼らのことを聞いている。
レイラーたちの又聞きでしかない話ではあったが、この彼女だから、実の言いたいことがわかるのだ。
言葉で表せないのは、人見知りだったからだ。コミュニケーションとしての手段が、うまく使いこなせない。
しかし、実にとっては満足だったらしい。話を引き継いだ。
最初の日に、彼が隆宏に言ったとおり、健の本質は、実際に体感しなければ見えないものなのだ。
それも当然だった。
健自身が自覚していないのだから。
表面に拘って、リーダーとして、こうあるべきだと考えてしまっていた。だから、実は考えることをやめさせた。
自覚していない本質は、次に、ひたすらメンバーの言動を受け止めると解釈した。
「そうやって、また考えてしまっていたんだ」
そう、実の言うことを、今度は、自分の悩みとして、考えてしまったわけだ。
しかし、どうしても意識できない本質が、考えることを、拒否している。
理解できそうで、できていない。
「バランスが崩れているんだ」
自分の悩みにしてしまった『考え』と、本質の狭間で、ということだ。
「あいつは、今、メンバーのことを、自分の悩みとして考え込んでいる。自分がどうにかしなければならないという、表面しか見ていない悩みだ。あいつの意識が、自分の悩みにしてしまっているんだよ。ケンにとって、答えは簡単なものだし、最初からあるのに、見つけることができない。そこが……弱点なんだ。ノーセレクトのくせに、自分を理解していない。いや……」
実は、指先でテーブルを何度か叩いた。
「ノーマルを排除した環境だったから、理解する必要がなかったと言ったほうがいいか……。タカヒロ、おまえもそうだが、オレにも悩みがなかったわけじゃない。克服するためには、自分の時間はどうしても必要だったんだ。何にも邪魔をされないところがな。だが、一人でいられる場所なんて……というか、自分にとって、邪魔が入らないところなんて、どこにもないんだ」
「そう? オレはレイラーの温室とか、自分の部屋があったけれど?」
レイラーが趣味で育てていた蘭の温室は、隆宏にとっては、精神を沈める、絶好の場所だった。つまり、精神訓練の場、ということで、適度に保たれた室温と、むせかえるほどの花の香りの中で、その日、気に止まった花の前に椅子を置き、何時間も、花の動きを見て過ごしていた。
自分の部屋は、それこそ、誰も入らない。そこで一人、ジグソーパズルを嵌め込むことも、一種の精神訓練だと考え、欠かさなかった。
実は、隆宏のやり方には反対はしなかったものの、当時を思い出させるように言った。
「例えば部屋には家具があっただろう? 温室なら、植物だ」
つい、何日か前までそこで過ごしていたのだ。隆宏は、懐かしむように頷いた。
「それは、邪魔なものなんだよ。見ないようにしていても、そこにあるという意識は残る。その上、音までは遮断できない。耳を塞いでも聞こえる。花なら香りもあっただろう。それが、雑念になるんだ。……自分だけの場所は、それこそ……」
と、彼は自分の胸を指した。
「ここだけだ」
「胸……? ……心の、中?」
「そうだ。答えは、この中に入っている。だから、寝れば解決できる程度の悩み、ではなく、眠らなければ見つけられない解決、と言ったほうが正しいんだ。オレたちの場合はな。……これは、普段の睡眠とは違う。悩みや迷いが大きければ、それを解決する場所に……オレたちは自然に行くことができるんだ。ただ、これは多分、としか言えない。けれど、ノーマルが、たった一晩で解決するどころか、最善の方法まで身に付けられるとは思えない。方法を思い付くんじゃない。身に付けられるんだ。……オレたちは……。だから、今、あいつに必要なのは眠ることだと、信じるしかなかった」
なるほど、と、隆宏は頷いた。そして、直前までの会話を反芻する。
ノーセレクトだから、と、最初に実が結論付けた理由が、やっとわかった。
しかし……。
「ねえ、弱点って、なに?」
そう、実は、健が強いからこそ、弱点になっていると言ったのだ。
夕子が、隆宏の分のコーヒーを用意するために立ち上がる。それを横目に、実は自分のカップも彼女に渡した。
「健の強さは、誰にも頼らないことだ。楠木さんは、頼れる対象を作らせなかった。たとえ、どれだけあいつに影響力がある人間がいたとしても、あいつは、頼りにすることはない。……実際、感じるんだよ。あいつには、揺らぎがまるでない。オレたちのことで悩んでいる今でさえ、だ。要するに、自分自身にすら、頼っていないんだ。その強さが仇になって、必要な場所にすら、行くことができない」
やっと、繋がった。
大きく息をついて、隆宏は頭をテーブルに載せた。
「なんか……かわいそうだなぁ。それって。……オレたちのことを考えて、でも、こっちは手を貸せないなんて、不公平だよ。それじゃ、彼は本当に孤独じゃないか」
「そう育てたのはレイラーだよ。だが、ケンはそんなことは……思っていないんじゃないか?」
「どうしてさ。……あ、サンキュー……」
顔をあげた途端に目の前にカップが置かれ、隆宏は夕子に笑いかけた。
「どういう性格形成をされたとはいえ、現実、ノーセレクトはオレたちだけだ。むしろ、雑多なノーマルのことよりも、オレたちだけのことを守るように育てられたことに感謝すべきなのかもしれないぞ」
わかる気がする。
夕べ、健は、隆宏に言った。
ノーマルのことなど、所詮は他人事だ。彼が信じるのは、ノーセレクトの、メンバーだけだ、と。
考えるのではなく、信じる。それが、夕べ垣間見た、健の強さだと、隆宏は確信した。
「ケンがいるから、オレたちは何でもできる……」
そう思わせる、本質を持っている。
それきり、会話が途絶えた。
夕子が、立ったついでとばかりに、テーブルの上を片付け始める。
それを目で追う隆宏とは逆に、実は、キッチンの勝手口から入る光に目を向けていた。
テーブルの下で軽く足を組み、背もたれに左手を引っ掻けながら、右手にカップを持ったまま、憂いを含んだようにぼんやりと見つめる先に、彼は何を思っているのだろう。
夕子は、チラチラと、彼の様子を伺いながら動いていたが、それが、自然に止まった。
僅かに、髪の間から、ピアスの赤黒い光が覗いている。
本当に、最初に怖いと思っていた気持ちが、跡形もなくなっている。
人をバカにしたように、鼻先で笑っていた表情も、思い返せば似合っているのだ。こうして黙って座っている仕草と同じように、似合っている。
笑ったところも、機嫌が悪そうに、冷たく見下す瞳も、誰よりも魅力的だ。
「……ユウコ?」
止まったままの彼女の視線が、実に向いている、と気づいたとき、隆宏は訝しげに声をかけた。
が、すぐに動き始めた彼女を見て、意外そうに笑いが込み上げた。
「……嘘みたいだ」
それが聞こえたらしい。実の視線だけが動いた。
「何がだ?」
「えっ? いや……言ったら怒るから、秘密」
「……そうか」
確かに、彼女が惹かれるのもわかる。
自分がそうなのだから。
隆宏は、心の中で、彼女に同意した。
実の優しさが、見に染みる。初めて会ってから、まだ一週間も経っていないのに、彼はすべてを見抜いて、まとめてしまった。ある意味、夕べのチームワークは、実の功績かもしれない。
彼に対する嫌悪感を、今はもう、誰も持っていない。しかも、それを彼は、意識せずに、努力すらしないまま、やり遂げてしまった。
さらに言うのなら、隆宏の感じる思いは尊敬でしかないが、夕子は、恋心に変えてしまったということだ。
彼は、残ったコーヒーに口をつけたが、どうやら我慢ができなくなったらしい。
唐突に、笑いだした。
「? なんだよ?」
単純な思い出し笑いでないことは、実にも伝わったようだ。
さっきから、感情の一部が自分に向いていると感じたからで、彼は不機嫌に問いかける。
そして、隆宏は、その一言がまた、おかしかったらしい。
カップを置いて、実に背を向けて笑っている。
「おい……」
夕子までが、呆気にとられて振り返った。
隆宏の手が、背後の実を抑えるかのように上がる。
さんざんに笑い、眼鏡を外しながら涙を拭いた彼は、最後に、
「ご、ごめん」
と、言った。
落ち着くように一度、息を吐いて、咳払いついでに向き直る。
「本当にごめん」
「言いたいことがあるのなら、言ってくれ。気味が悪いじゃないか」
「でも、君は嫌いだろう? 言われるの……」
つまり、嫌がることを考えていたわけだ。
途端に興味をなくし、実は席を立った。
「どこに行くの? やっぱり怒った?」
「いや。庭にいる」
玄関ではなく、勝手口に足を向けた彼だが、僅かな物音がリビングから聞こえ、足を止めた。
隆宏も気がついたようだ。
立ち上がって、そちらへのドアを開けた。




