眠り 2
次に目を覚ましたのは、大きな叫び声を聞いたからだ。
寝ぼける暇もなかった。
「ミ、ミノル?」
腰を浮かせた健の顔を、実の大きく開いた瞳が見上げた。
「ケ……」
「大丈夫か?」
実は跳ね起きると、健の腕にすがりついた。
「マ、マモルは? 生きているか?」
「落ち着いて。生きているよ。庭に……いるんだよ。大丈夫」
「おまえは?」
これには苦笑するしかないだろう。健は、優しく実の手を外した。
「すまない。さすがに掴まれると痛いんだよ」
途端に、恐ろしいものから離れるように、実は健から離れた。
一晩中服を脱いだままだった彼の右腕の包帯に初めて気がついたらしく、自分の腕を押さえ込む。
触れたことで、彼の痛みが伝わったか?
「落ち着いてくれないか。触らなければ痛くはないから。よく、オレを見て。なんとも……ないだろう?」
ほんの僅かも、痛みを表情に表さない。
健を見上げ、実は抑えていた力を抜いた。
「……すまなかった……」
「気にするな。それよりも、おまえの方は平気か? 感情はどうなっている?」
萎むように項垂れて、実は膝をたてて、そこに顔を埋めた。
「……入り込んだものは……オレの一部になるだけなんだ。戻らないわけじゃ……ないよ。ただ……時間がかかるだけ……。自分の中で……整理がつけば、元に戻るんだ……けれど……」
「やってしまったことを、忘れることができない、というところかな? それで、後悔が残る?」
実は重々しく頷いた。
健は、一度ベッドを離れると隣から枕をひとつ取り上げて、実の背中に当てた。
「少し、確認したいことがあるんだけれど、答えてくれる?」
「……何を?」
「おまえは、仕事から離れたい?」
膝に埋めていた顔が、驚きの表情とともに健に向いた。
「外すつもりか? オレは……邪魔なのか?」
「だから、それを確認したかったんだ」
「……そ……」
「言わなくていい。わかったから。この先、おまえを外すことは絶対に、しないよ。どういう状態になろうが、タカヒロの言うとおりに動くんだ」
力なく、実はまた俯いた。
彼らと共にいたい。
だが、同じ行動をすればどうなるのか、自信がない。
二つの思いがせめぎあっている。
健は、続けた。
「彼らに、おまえのことを話すよ。けれど、それで楽をさせることはないと覚えていてくれ。おまえの変化は、オレが必ずフォローするから、感情が入り込むことを恐れなくていい。メンバーの誰一人、傷を負わせることはさせないから」
「そうやって……オレを守るというつもりか?」
弱々しく問いかける。
健が首を振った。
「それは、オレの役目じゃない。役目だと言われても、今のオレにできることじゃない。ただ、フォローするだけだよ」
漠然とだが、健には見当がついていた。
昨日、同情だと勘違いをした実が怒ったのを思い出しても、あからさまな心配はかえって彼を傷つけるだけなのだ。
実は、自分の体質で他人に迷惑をかけることを極端に恐れている。
だから、隆宏にも自分がどうなるかを言わなかったのだ。
だが、健が一人で抱え込める問題でもない。
だからこそ、守るとは言わなかった。
どうしても、メンバーの協力は必要になる。
なにより、彼を守るのは、今、庭にいる彼であってほしい。
方法を考える時間を稼いだものの、やはり彼の希望を叶えることなど、できそうにないのだ。
憎しみではなく実の思いやりで、生きる意思を持たせてやりたかった。
それにしても……一晩で多くの悩みを抱えたな……健は苦笑した。
不審げに、その笑みを見た実に、健は、
「もう少し、休んでいてもいいよ。仕事は終わったし、今日はタカシたちの帰りを待つだけだから」
と、立ち上がった……が、
「……おっ……と」
「ケン?」
やはり、目眩がする。
椅子の背もたれに手をついて頭を抑えた健は、だがすぐに治ったらしく、ばつが悪そうに手で自分を仰いだ。
「暑くなってきたね。ちょっと、下に行ってくるよ」
やはり、睡眠不足のようだ。
自覚しながら、実に心配をかけまいと、彼はそそくさとクローゼットから目についたシャツを取り出して出ていった。
ボタンを留めながら、隣の部屋をノックする。
隆宏はもう、起きているだろうか。
返事はなく、その代わりにドアが開いた。
「あ、おはよう、ケン」
こちらは寝られたのだろうかと、尋ねてみる。
隆宏はまあね、と笑った。
「君のおかげだよ。後悔なんて、していられない。何も考えないようにしたらいつの間にか、寝ていたよ。それより、ミノルはどう?」
「そのことで話があるんだ。ユウコにも夕べのことを謝らなくてはね。降りてきてくれる?」
「わかった。着替えてから行くよ」
次は、その彼女だ。
念のために彼女の部屋もノックをしたが、こちらは返事はおろか、気配もない。
「ユウコ?」
一応、声をかけたが、どうやらいないと判断して下に降りる。
キッチンから、何かを焼く音がしていた。
起きていたらしい。
「ユウコ」
彼女は、フライパンをじっと見つめていた。
彼の声に、体を震わせて、両目を拭ってから振り返る。
「お……おはよう……ございます」
初対面の時のように、消え入りそうな声だ。
よく見ると、目が赤く、腫れている。
一晩中泣いていたと、容易に想像がつく表情だった。
健は、彼女を優しく抱き締めて、その耳元に囁いた。
「夕べはごめんね。君にも事情を話すから、もう、泣かないでくれ」
優しく話しかけられればそれだけ、気持ちが緩む。
彼女は、堪えきれずに声をたてて泣き出した。
健は、辛抱強く待っていた。
やがて、少しずつ落ち着くと、やっと、彼女の方から顔を上げた。
「……すみませんでした……余計なことを……言ってしまって……」
「そうだね。あの時は、だよ。今は感謝しているんだ。君が黙っていたら、タカヒロにもっと、責められていたからね」
冗談めかして言いながら、彼はそっと、夕子の頬にキスをした。
「君も怖い思いをしたんだったね。ミノルが嫌いになったかな?」
「いいえ……」
呟いた言葉が、弱々しい笑顔に変わった。
「いいえ。あの人は……。今はもう……」
一度、自分の気持ちを確かめるように、抱き締められたままの胸に自分の両手を潜り込ませて、また彼女は健を見上げた。
顔を赤らめて、恥ずかしそうに続ける。
「もしかしたら、私、おかしいのかもしれません。怖かったのは最初だけなんです。銃を構えた姿がとても……かっこよく見えたの。とても……素敵だったんです。……でも、……やっぱり……変ですね。今、考えてみても、そんなに怖いと……思わなかったの……」
「……それって……」
「はい?」
健は、目を見張ったものの、やがてクスッと笑いが漏れた。
人見知りで、誰ともまともに話ができなかった彼女なら、初恋が今になっても不自然ではないようだ。
まして、恋愛感情など、誰かに教えてもらえたとも思えない。
恋心が理解できずに、自分の感情の変化を漠然と感じているらしい。
「……いや、なんでもないよ」
彼は、優しく夕子の頭を撫でると、ふと、フライパンのほうに目を向けた。
「ねえ、これは……なに?」
夕子もそちらに向く。
途端に、軽く彼を突き飛ばした。
「大変!」
真っ黒になった目玉焼きが、黒い煙を上げはじめているところだった。
慌てながら無意識に火を止めて、フライパンをシンクに移して水を出す。
鉄が冷える音が、激しく鳴った。
臭いまで、キッチンに広がっていく。
「ごっ、ごめんなさいっ!」
と、言いながら、庭に続く勝手口を開ける。
振り返ると、健がテーブルに手をついていた。
「……どうか……しましたか?」
無意識に突き飛ばしたから、そのためによろめいたのだということに、彼女は気がつかなかった。
だが、健の方も、自分に何が起こったのか、すぐには判断ができなかったらしい。
呆然としていたが、頭を振ると、そのまま椅子に腰を掛けた。
「君は……思ったより力があるんだね」
「え? ……ごめんなさい」
「いや。驚いただけだよ」
とはいえ、頭がくらくらする。
本当に、どうしたというのか、夕べよりひどくなっている。
「暑さのせいなのかな。……目眩がするんだ」
「大丈夫ですか?」
「まあ……もう治まったから。それよりも、そっちは?」
夕子は、水を出したままのシンクが気になったものの、健を覗き込んで、それから水を止めてフライパンを洗い始めた。
「こちらは作り直しますから。……冷房を強めますね」
煙と臭いを外に逃がすために勝手口のドアを開けたが、暑いという呟きは聞こえたので、答えを待たずにドアを閉め、冷房を強めた。
「君は寒くないのか?」
健は、自分がこれほど暑さに弱いとは思っていなかった。
恐らく、今の室温は、メンバーには快適なはずだ。
もちろん、彼女は否定をしなかった。
「私は料理をしますから。……火を扱えば暑くなりますもの。皆さんが来るまでは寒くしていても平気でしょう?」
「……ありがとう」
答えたものの、部屋が冷える間もなく隆宏が入ってきてしまった。
健は、席につこうとした彼に、庭にいる護を呼ぶように頼んだ。
夕子にも、席につくように言って、護が入ってきたとき、まず彼に言った。
「約束は守るよ。ただ……やっぱり少し時間がほしい。その間は……おまえを放っておけない。……わかってほしいんだ」
護は、関心も持たずに、実を気にするように天井を見上げたあと健に視線を移した。
「彼なら、もう目を覚ましたよ。おまえを気にしていた。それで、話をしようと……」
途中で立ち上がったため、健は言葉を止めた。
「マモル?」
そのまま、廊下へ足を向ける。
二階に行くつもりかとあとを追った健に、護は玄関に降り、振り向いた。
感情を含んでいない瞳、健はそういう印象を持ったが、それは彼を見る目がまだ、充分ではなかったからだろう。
その証拠に、護の言葉には、あからさまな棘が含まれていた。
「できもしない約束を口にするあなたの話など、聞きたくもない」
返事をする間も与えず、彼は出ていってしまった。
健は、電話台に手をついて、息を吐き出した。
“見抜かれて……当然か……”
信じていない相手の言葉など、最初から真に受けるわけがないのだ。
だが、自分に何ができるというのだ。
頭がくらくらする。
一瞬、足が崩れた。
膝をついて、しかし健は、重そうにまた立ち上がると、キッチンに戻った。
とりあえず、今は、残った二人に説明をしなければならない。
「ケン」
どうやら、玄関先の声が聞こえていたようで、隆宏は心配そうに立っていた。
「ごめん。おまえたちだけにも話しておくよ。座って」
彼もまた、元の席に座ると、どこから話そうかと迷いながら、天井を見上げた。
やはり、目眩がひどくなっている。ライトが、ぼんやりと揺れていた。
「……」
「ねえ、ケン、君はいったい、マモルとどういう約束をしているんだ?」
健は、目元を抑えて口を開いた。
「大事な約束、だよ。しかも、オレにできないことだ。……不可能だと、断ればよかったんだが……。彼が怒るのも当たり前だよ」
それから、彼は億劫そうに手を下ろすと、二人を交互に見て言った。
「ミノルはね、他人の感情が強いと、影響を受けてしまうんだ。それは、タカヒロが聞いていたね?」
夕子にも事情を説明するための確認だ。
隆宏が頷くのを待って、彼は続けた。
「たとえば、映画やドラマを見て、感情移入することもあるだろう? ユウコ?」
「はい。それはありました」
彼女にとってのその手の思い出は、ハウスキーパーの顔と重なっていた。
ほとんどが一人の訓練だったため、一日の訓練、教育時間いっぱいを使うことができなかった。
自分の半端さに情けなく落ち込みながら部屋に戻ると、たいていはキーパーが夕方の食事の用意をしている頃に重なる。
そのため、残った時間は二人で料理をしたり、手芸を教えてもらったり、時として一緒にテレビを見たりして過ごした。
ドラマが好きなその女性は、連続ものを好んで見ていた。
特に、好きな女優や俳優がいるわけではなかったようだが、話の流れによく笑ったり、泣いたりしていた。
それが感情移入なのだということは、彼女にもわかる。
「ミノルの場合はね……」
健は言った。
「その程度ではすまないんだ。今まで、他人の感情が入らないように訓練をしていたようだ。けれど、あまりにも強いものや唐突なものは、防ぎきれないんだね。……おかしな言い方だけれど、極端なことを言えば、他人の感情に、乗っ取られてしまうようなものなんだよ」
「それでは……夕べのことは……」
「どういう状況だったか、話してくれる?」
健自身は、実の最後の怒鳴り声しか聞こえていなかった。
だからそれ以前、護たちが何を見たのかを知らない。
夕子が、補足をするように説明をする。
それで、ようやく話しやすくなったようで、健は頷いた。
「わかるね。彼は、決して本心で君たちに銃を向けたわけじゃない。でも、こういうことが、この先ないとも言えないんだ」
「……それって、あの人を仕事から外すということですか?」
「逆だよ。……タカヒロ、夕べも言ったように、彼のフォローはオレが……オレたちの誰かがすればいいだけのことだ。難しいことじゃない。ただ、それだけのことだと思ってほしい」
もちろん、夕べも同じ話を聞いていた隆宏だ。
そして何故か、健が言うと重大なことでも簡単に頷ける。
即答だった。
「いいよ。要するに、彼を甘やかさなくてもいいということだろう?」
「そうだね」
要約された結論に、健は弱々しく微笑んだ。
「じゃ、ユウコ、食事を作ってくれる?」
「はい。コーヒーを作ってあるんです。今、出しますね」
席を立った彼女の姿を目で追う健に、どうも元気がない、と隆宏は感じた。
夕べのような勢いが伝わらないのだ。
夕子がすぐに、コーヒーを二人の前に並べてくれたが、それを手に取った健が、口に運ぶより重そうにまたテーブルに戻してしまったとき、隆宏は確信した。
「具合が悪そうだね」
「……多分、寝不足だよ。目眩がするんだ。それに……暑いし……」
「暑い? これで?」
冷房を強めていたから、隆宏には肌寒いくらいだ。
彼は、カップを置いて立ち上がった。
「ねえ、ミノルに会える?」
「え? いいよ」
「呼んでくる」
「どうして?」
「君、一度熱中症で倒れているんだよ? ミノルなら適切な処置をしてくれるよ」
言ってから、しまったと、慌てて口を閉ざした。
医師免許を持っていることは秘密だったのだ。
だが、健は訝る様子もなく、小さく手を振った。
「大袈裟だよ」
「でも……」
「冷やせば頭もすっきりするさ。シャワーでも浴びてくるから」
なにしろ、シャツしか着替えていないのだ。
結局、コーヒーに口をつけることなく、健は部屋を出ていった。




