集合前 4
一階でエレベーターから降りると、ホールは三階で見下ろしたときとは違う広さに見えた。
入り口はエレベーターを出た正面で、そこ全体が青みがかったガラスになっている。
外からの光は、その色を通してホールに差し込んでいた。
来客自体が少ないのは、まだ本部として機能していないためらしく、本当に誰もいない。
上から見たときはライトで死角になっていたが、何かの待ち合いのように、椅子とテーブルが片隅に二セット置いてあった。
まだ誰も使っていないのか、ビニールがかけられている。
ただ広いだけの空間には、他に観葉植物が所々にあるだけだ。
健は、誰もいない受付のカウンターを確認して、正面から外に出るつもりで歩き出した……ところで、女性が一人、出てきた。
「こんにちは」
彼の姿に驚いたようには見えなかったから、ホールに人がいることを承知で出てきたのだろう。
明るく親しみやすい挨拶をされては、健もまたカウンターの前で立ち止まるしかなかった。
「こんにちは」
彼も会釈をする。
一度ホールを見渡し、言った。
「暇そうですね」
淡いピンクのベストと、お揃いのスカートは制服のようだ。
胸にはプレートがついていた。
「お出掛けですか?」
「ちょっとだけ、外にね。正面からは裏に回れますか?」
彼女は、わざわざカウンターを回り込んできた。
「表に出て、左からなら回り込めますよ。お昼は過ぎてるから、もう誰もいないと思いますが、裏には噴水があるんです。音は出ませんけど」
「そう……ところで……駒田さん?」
健は、彼女に失礼がない程度に胸のプレートに目を落として尋ねた。
「駒田梓です」
彼女もまた、自分のプレートを健のほうに向けて名乗った。
「オレは……」
「白木さん、ですよね。受付はハウスクリーニングも兼ねていますから、スタッフ全員が知っていますよ」
「そうなの? それで、スタッフは何人くらいいるんですか?」
「十五人です。向こうが部屋になっています」
後ろを振り返る駒田に習って視線を合わせると、カウンターの背後にドアがあった。
開け放してあるそこから、女性が何人か覗いていたが、健の視線に気づくと慌てて引っ込んでしまった。
「うちの部署では、お部屋の掃除はもちろん、家具の移動もするんです。白木さんのお部屋はあれでよかったでしょうか?」
部屋と聞いて思い出したのは、別館に用意された彼の居場所だ。
「まだ……見ていないんです」
「あら、それじゃ、何か不都合があったら、遠慮なくおっしゃってくださいね」
「ありがとう。もう少ししたら、行ってみます」
そう言って一歩踏み出した彼だが、思い出したことがあったらしく、また向き直った。
「送った荷物はどうなっていますか?」
「届いているそうです。お荷物のほうには手をつけていませんから、ご心配なく」
部屋の掃除はプロの仕事として割りきってはいても、梱包されたままの私物にまで手を出すようなスタッフはいない。
それが、彼女たちの自負なのだ。
しかし、健にすれば戸惑うに充分な答えだった。
「……困ったな……」
小さな言葉を聞きとめ、彼女は訝しげに首をかしげた。
「はい?」
「あ、いえ。何でもありません。それよりも、君の仲間が待っているようですよ。邪魔をして、申し訳ありません」
おずおずとまた、覗き込んでいたスタッフたちの視線を感じた健は、自分が間の抜けた勘違いをしたことにも気づかないまま正面から外に出た。
いい天気だ。
東京はまだ梅雨の間だとテレビで言っていたはずだが、この暑さは夏に近い。
梅雨の湿った気候とは無縁だった彼にとっては、この暑さは不快だった。
が、それは慣れるまでのことだ。辛抱するしかない。
鮮やかな緑に染まった芝生は、建物と道路の間に幅広く敷き詰めてあった。
囲いのようなものがないから、見たこともない道路が丸見えだ。
健は、そちらに足を向けた。
歩道に当たる部分が二列、逆方向にベルトが並んで動いている。
たどって左のほうに目を向けると、向こうから男性が一人近づいてきた。
しかし、足が動いていない。
“トウキョウにはこんなものがあるのか……”
男性が、物珍しげにベルトを見ている健を気にしながら通りすぎた。
それほど早くは動いていない。
これなら、直接歩いたほうが早いような気がする。
辺りを見回すと、他にも平気でそれに乗っている人が何人かいた。
エスカレーターをフラットにしたような印象だが、どうやらここでは当たり前の設備らしい。
道路の向こうを見ると、向かって左のほうにマンションが建っている。
本部と同じブルーグレーの壁面は、ここから見る限りまだ新しい。
司令室からは、死角になっていたらしい。
一通り見回して、彼は敷地内を出ることなく建物に沿って歩き出した。
見上げると、先程の図面では黒くなっていた部分の窓に人影が見える。
テナント、か。
建物を曲がると、正面に噴水が見えてきた。
見た目は涼しげで、仕事の合間に来るのによさそうな休憩場所だ。
……が、違和感があり、近づくほどに、先程の駒田梓の言葉とともに、確信に代わった。
確かに、水音がしないのだ。
噴水がブイトールの出入り口だという説明がなければ、彼女の言葉に首をかしげていただろう。
遠目にもかなり大きな噴水だったが、近づくと、やはり機体が入るほど大きい。
考えてみれば、それだけのものを収容するのなら、当然なのだ。
目の隅に、裏の建物がみえたが、それが向こう側に偏って建てられている理由がこの噴水らしい。
丸い形にコンクリートが縁取りしてあって、その高さは健の腰の辺りまである。 中を覗くと縁の内側が光っていて、それが噴水を形作っている。
“なるほど、立体映像、ね”
遥か下のほうに、健が乗ってきたブイトールの機体があった。
水音もないため辺りは静かで、もちろん、健の他には誰もいない。
噴水という映像だけでは暑さを緩和できないからか、それとも……
ふと、先程の駒田梓の言葉を思い出し、納得した。
やはり、昼休みは終わっているらしい。
彼は、ようやく別館のほうに歩き始めた。
本館側の中央ドアから裏の建物には、アスファルトの通路が走っていて、簡単な屋根がついている。
途中からその通路に沿って建物の中にはいると、外の暑さが嘘のように冷房が効いていた。
ホールは本館と同じ造りのようだ。
ただ、ここ自体が健たちの居住空間なので、廊下はホールの片側にしか延びていない。
その廊下の両脇に、ドアがいくつか並んでいることを確かめたものの、直接の関係はないと言われていたため、健はそのままエレベーターに乗り込んだ。
二階の天井から、ホールへブドウ状のライトが下がっているのを目の前に、降りてすぐ右に回り込む。
確か、ホールに一番近い左側のドア━━本館ビルに向いているほうが健の部屋になっているはずだ。
そこを開けようとしたとき、彼は他のドアが開く音を聞いた。
こちらは本館と違って、廊下にBGMは流れていない。
ドアのスライド音は、小さくても耳にはいる。
開いたのは、彼の部屋から二つ隣の対面だった。
“あれは……”
出てきたほうも健に気がついた。
と、同時にかなり驚いたらしく、一瞬の間に部屋に戻ってしまった。
間違いない。
ちらりとだけ見えたその姿は、持っている資料にある夕子の写真そのものだ。
そういえば、彼女のことはほとんど聞かなかった。
剣崎司令と共に、先に来ていたようだ。
それにしても、入ったきり出てこない。
一応仲間になるのだし、先に会っていても問題はないだろうとそちらに足を向けたとき、彼女がまたドアから顔だけ覗かせた。
「ユ……」
片手を挙げた途端、また、部屋の中に引っ込んでしまった。
“……なんだ?”
ともかく、彼女の部屋まで行ってみると、開きっぱなしのドアの向こう、中央辺りにあるソファのところで彼女は俯いて立っていた。
しかも、見た目でわかるほど体を震わせている。
これは……怯えているのか?
「ユウコ?」
声をかけると大きく体を震わせたが、顔を上げようともしない。
まるで、怒られることを前提に相手の言葉を待っているような感じだ。
仕方なく、健はドアの手前で膝をついた。
目を閉じていなければ、彼が座ったことがわかるはずだ。
しばらく、沈黙が続いた。
多分視線を逸らしていたのだろう。
緊張感が、ここまで伝わってくる。
やがて、僅かだが顔が上がったとき、彼は夕子に小さく手招きをした。
何も言わず、ただ、手の動きだけで彼女を呼ぶ。
それからまた動くまでに時間がかかったが、彼女は一歩ずつ、震える足を踏み出すと、俯いたまま本当に小さく頭を下げた。
「は……はじ、め……まして……私……な、夏木、夕子と……」
「知っているよ」
ずいぶん小さな声だ。これで自己紹介のつもりだろうか。
途中で遮った健に対して、
「ご、ごめんな……さい」
と、消え入りそうに謝りながら、口元を押さえた。
視線が、怯えながら左右に動く。
それはまるで、隠れる場所を探しているようにも見え、健は膝をついたまま笑いかけた。
「出掛けるところだったの?」
「……はい……」
それきりだ。これでは会話にならない。
これがこの子の性格なのか。
本部に来て今が初対面だから、健は彼女に何もしていない。
なのにこの怯えようは、あるいは……
「ねえ、もしかしたら、オレが誰だか……わからない?」
本当は、こういう聞き方自体がおかしいのだが、見知らぬ相手だから、話のしようがないのかもしれないと思う。
彼自身は、夕子の写真を見ていたからすぐにわかったのだ。
夕子は健に、やっと区別がつくほど小さく頷いた。
その仕草にすら、震えを伴っている。
「そう。……オレは白木健。メンバーの一人だよ」
「ケ……」
名前を聞いて、ようやく彼女は心の底から安心したらしく息を吐いて、顔を上げた。
それに合わせて、彼もまた立ち上がる。
「ごめんなさい……。本部の……人だとばかり……」
やはりそうか。
だが……それにしては、ひどい怯えようだ。
「君、何かしたの?」
「いえ……その……」
また言い淀んで、彼女は一歩下がった。
「ひ、人との……その……怖くて……」
「怖い? オレが?」
そういうつもりがなかったから、意外な言葉を聞いたというふうにキョトンと首をかしげた。
しかし、夕子が言った意味は違ったらしく、迷いながら視線をさ迷わせて、囁くように言った。
「あ、あなたは……レイラーがとても……優しいひとだと……だから……そうじゃ……なくて……」
それでも、声は弱い。
語尾はあやふやだし、安心したのも一瞬だったらしく、困ったように途切れてしまった。
どうも、人と接するのが苦手なようだ。
こんな状態で、三日後に会う他のメンバーに対応できるのだろうか?
また俯いてしまった彼女を見下ろし、健は考えを巡らせて言った。
「ね、ユウコ。もしよかったら、オレの部屋に来ない? 今とは言わないけれど。……出掛けるところだと言ったね。どこに行くつもりだったの?」
極力優しく聞いたつもりだった。
健の少ない知り合いには、子供がいなかったわけではない。
老人には孫が何人かいて、同居はしていなかったが時おり会うこともあった。
孫同士、つまり健にとっていとこだったわけだが、そんな血の繋がりなど、互いに知らずに付き合ってきたのだ。
その子供たちと同じように接したつもりだったが、彼女はまた、怯えたように体を震わせた。
「……レイラーの……ところへ……。……き、聞いて、きます」
言うなり、まるで猛獣を避けるかのようにそろそろと部屋を出ると、逃げるように走り去っていった。
エレベーターのほうに曲がって消えた彼女の後ろ姿を見送って、健は改めて並んだドアを見渡した。
プレートも何もないから、あらかじめ教えられていなければ、誰の部屋かがわからない。
健の右隣は実の部屋だ。
その隣が隆宏、それから高志。
隆宏の向かいがここ、夕子の部屋で、右隣、実の前が絵里、それから健の前のドアが護……だったはず。
どの部屋からも気配は感じ取れない。
夕子は安心していたのかもしれない。
だから、健の姿に驚いたのだろう。
内気だと片付けるのは簡単だ。
しかし、それが実や、おしゃべりだという高志に通用するだろうか。