集合前 3
最初に目に入ったのは、二人目のノーセレクトメンバーの写真と、いつもの訓練データで見慣れた名前だった。
黒沢実━━データでは、成績の良さが目立っていた。
頭がいいという印象で、射撃の腕こそ三番目だったがそれ以外は運動神経も反射も、大体は上位を維持していた。
ただ……精神面だけは、誰よりも弱い。
そのため健は、気の弱い、勉強家タイプの姿を想像していたのだ……が。
「これが……ミノル?」
と、思わず聞き返したのも無理はない。
写真の姿が、あまりにも想像と違っていたからだ。
軽くウエーブした黒髪は、健のものとさほど違わない色だが、その下から覗く茶色にも見える瞳はきつく、まるで写した人を憎んでいるかのようだ。
おそらく、了解したうえで撮ったものではなかったのだろう。
顔立ちは幼くも見えるが、それでも今二十歳……いや、今は七月だから、二ヶ月後までは十九歳のはずだ。
想像していた気の弱さ、とはほど遠い。
「データでは、個人の成績しかわからなかったからね」
精神面の数値というのは、感情の乱れも含まれる。
それがいつも弱いという結果は、あるいは小さなことにも心を乱すといった、喜怒哀楽の感情の波が激しいという結果にも言い換えられる。
その点で言えば、六人目のメンバーである佐竹高志、そして最後の夕子も、さほどいいほうではなかった。
しかし、実は更にひどかったのである。
物事の対処に、冷静でいられるような訓練の成果は、まったくといっていいほど、なかった。
写真だけで性格を測るのなら、短気なのかもしれない。
「ミノルくんはね……」
僅かな健の当惑を、司令は予想していたらしく、声を落として続けた。
「メンバーの中でも難しい子だと思う。……小さな頃は、明るくて素直な子供だったよ。データでも知っているだろうが、ある時期を境に、いきなり数値が変わったのだね。すべての成績が上がったと同時に、精神面だけが下がってしまった。……きっかけがあってね。そのときから一度も……笑っていない。それだけではなく、他人との付き合いを絶ってしまったのだよ」
「付き合いを……絶った?」
剣崎司令は正面の、ぬいぐるみの並んでいる棚の向こうに、思い出を見るかのように遠い目を向けて頷いた。
「彼には沢山の友人がいた。外にいることが好きな子で、訓練の途中でも、友人の誘いの方を優先するほどだったそうだ。だが、中途半端を嫌っていた。必ず、果たすべきことを仕上げる。……一度、その友人たちと話す機会があったのだが、彼は本当に人気があったようだよ。それが、急に家に閉じ込もってしまった。美鈴さんとも、一切、話をしなくなったそうだ」
「理由は?」
「……美鈴さんだ。彼女は……昨日、亡くなった」
「……え?」
ゆっくりと、司令の顔が健に向いた。
「彼女は病気だったのだよ。心臓……らしい。ミノルくんが変わったのは、彼女が発症した頃からだ。レイラーになるには健康面も考慮されていたから、彼女はそのときまでは確かに健康だった。突然の発症だったようだ。美鈴さんの話では、病院でそのことを知った日から、彼は喋らなくなったらしい」
深いため息が、部屋に響く。
司令は、間をおいて続けた。
「彼のために入院を拒んだ美鈴さんが寝込んだときには、ずっと付き添っていたようだ。どんな些細な世話も、細かく気遣っていたそうだ。だが、何も話さない。返事もしない。来客にもあわなかったと聞いている。私も、会っていないのだ。だから、ひと月ほど前にこの写真が送られてきたときには……ここまで変わってしまったのかと思ったほどだ」
「あの……美鈴さんが亡くなったことを、あなたは誰から……?」
基本的に、メンバーがレイラーと一対一の生活だったとすると、彼女の死を司令に知らせる相手はいないはずだ。
司令は、言った。
「ミノルくんからだ」
確かに、彼しかいないだろうが……。
他人を拒絶した彼が、わざわざ連絡をしてきた……ということか?
健の当惑を見透かすように、司令は続けた。
「何年かぶりで口を利いたのではないかな。……言葉はそっけないものだったよ。美鈴さんの葬式の手配を頼んだことと、明日、こちらに来るといっただけで挨拶もなく、こちらの返事もさせずに電話を切ってしまった」
話を聞きながら、健の目は写真から離れなかった。
二人きりの生活の中で、育ててくれた人が病気になる━━それ自体はありうる。健にも経験があった。
風邪といえど、レイラー・哲郎が寝込んだときなどは、家事の一切ができずに知り合いを頼るしかなかったほどだ。
そのときの不自由さは、今でも思い出せる。
しかし、それが不治の病だったとしたら、健はどうなっていただろう?
“……想像つかないな”
実のように、心を閉ざしてしまうのだろうか? そういうものなのか?
身近な人が亡くなるという経験も、健にはあった。
彼にとって特別な家の、特別な老人……青い目の、フロリダ生まれだったその人が亡くなったときは、だが不思議と悲しいとは思わなかった。
寂しさはあったが、今でも仕草の一つ一つ、細かい言葉や表情が心の中では鮮明で、亡くなったという想いは感じないのだ。
他人の死に対して、実のように心を閉ざすまでのショックが理解できない。
「……キャップ、彼は明日、ここに来ると言ったんですね?」
「確かに、そう聞いたよ」
「本当に来ますか?」
健の問いかけに、首を傾げる。
「どういうことかね?」
ようやく、健の視線が写真から司令に移った。
「ミノルの精神数値の低さは、感情の乱れの現れではないんですか?」
「そうとも言えないのではないかね? 少なくとも、彼は美鈴さんの前では静かだったそうだからね。それよりも……」
実が来るのかどうかを気にする理由を聞こうとした司令に、畳み掛けるように、健は言った。
「感情を表に出せなかった……としたら? 彼が、美鈴さんの死を、平然と受け止めたと……言えますか?」
「それは……」
呟きが、焦りに変わった。
「……君は、まさか、彼が絶望して……」
『自殺』という言葉が、司令の頭に浮かぶ。
途端に彼は立ち上がり、デスクに向かった。
しかし、電話を取り上げて手が止まる。
「もし……手遅れだったら……」
それは、健にいったわけではなかったようだ。
最悪の考えを振り払うように首を振ると、乱暴にも見える仕草で引き出しの一つを開け、ノートを取り出すとページをめくり始めた。
目的の箇所を見つけて、改めて受話器を取る。
しばらくして相手が出たらしく、小声で話を始めた。
健は、話を聞かないようにまた、写真に目を落とした。
ノーセレクトという言葉に縛られたまま育ってきたのは、きっと自分だけではない。
レイラー制度がメンバーに共通した最初の制度ならば、教育や訓練カリキュラムも同じようにされてきたはずだ。
だからこそ、データを出すことができた。
ならば七人が全員、同じ意識を植え込まれた、と考えられないだろうか。
同じノーセレクトだから……。
七人だけだから……。
そして、同じ教育をされてきたから……。
“会いたかった”
実もまた、自分と同じであってほしい。
それは、健の望みだ。
仲間として初めて会う。それを励みにしていたと、思いたい。
「……ミノルくん?」
意外な言葉に、健は顔をあげた。
本人のところにも電話をしたらしい。
「あ……いや、……何時頃に来るのかを聞き忘れたのでね」
司令の、安堵の表情と声に、健もまたひと息ついて口許を緩めた。
“オレの懸念だったな”
彼にしても、一抹の不安はあったのだ。
自覚はないが、きっと自分は、他人の死に対してさほどの興味は持たないのだろう。
しかし、恐らく実は違う。
レイラー・美鈴千春の発病が、他人を拒絶するきっかけになったとしたら、人との関係は彼にとって、大事なものなのかもしれない。
他人の情の受け止めかたが、健と実とでは違う。
“精神数値の低さは……その表れかも、ね”
不安や心配をレイラーに見せないための努力が、却って数値の低さに出たとはいえないか。
ともあれ、今のところは彼女の死を受け止められた、と言えるかもしれない。
戸惑いがちに会話らしきことをしていた司令が、静かに受話器を置くと心底安心したようにフッと息をついて、席に戻った。
「本当に……何も言ってくれなかったよ」
「返事もなかったんですか?」
「電話に出た最初の一言だけだった。『何か用なのか?』とね。いつ来るのか尋ねても、聞こえたのは呆れたため息だけだ。すぐに切られてしまったよ。とりあえず、配送スタッフに、彼を見守るように手配はしておいた」
「そうですか。ならば、ここで心配していても仕方がありません。これを覚えればいいんですね。お預かりします」
資料を封筒に戻そうと伸ばした手は、だが剣崎司令に止められた。
「ケン、その……ここで一通り目を通してもらえないかね?」
どこか言いにくそうに呟いた司令に首をかしげたものの、別に反対する理由もなく、今度は実のページを飛ばした。
次の写真は、三人目のメンバーだった。
女性だ。
加山絵里は、黒髪を長めのボブカットにして、いたずら気味にウインクをしていた。
両耳から、金の鎖が下がっている。
見た目にも聡明そうな、明るい表情だった。
写真を覗き込んで、司令が言った。
「勝ち気な子でね。ハキハキとした、張りのある声をしているよ。難点を言えば、少々男勝り、というところかな」
「会うのが楽しみだな」
言いながら、次のメンバーに移る。
「タカヒロですね」
宮本隆宏という名の下に貼ってある写真の顔は、薄く青い眼鏡をかけた笑顔をこちらに向けていた。
色がついているとはいえ、そこから見える瞳には慈愛のような優しさが伺える。
右に軽く分けられた前髪と、脇の髪を後ろに流して、ふんわりとまとまっていた。
全体的に、穏やかさをまとったような姿だ。
「この子は少し、体が弱いところがあるのだよ。資料にも一応記載してあるが、原因はわかっていない。弱いと言っても訓練に支障はなかったし、何年も前のことで、今は大丈夫だということだ。ただ、念のため用心をしておいてもらいたい。性格は穏やかな、いい子だよ」
「データでは運動能力が弱いようでしたが、そのせいですか?」
「いや、元々、攻撃性があまりないようだよ」
写真に目を落とし軽く頷くと、彼の項目を飛ばして、次のメンバーに移った。
が、五人目の名前が、なぜか違う。
本当ならば、六人目のはずのメンバー、佐竹高志、と記載されている。
僅かに首をかしげた健が、彼を飛ばそうとしたが、司令はすかさず口を挟んだ。
「タカシくんは、レイラーの考えで、一人だけ中国で育っているよ」
写真に写った彼は、まるで子供のようにブイサインをしながら胸を張っていた。
髪はほとんど赤に近く、実よりきついウエーブをしている。
大きな瞳は、やはり完全な茶色だ。
顔立ちは東洋的だが、一方では外人のようにも見えた。
「見たとおり、純粋な日本人ではない。彼はハーフだ。が、今時、彼のような子は珍しくはないし、何より君たちの間では関係のないことだろう」
「そうですね」
ノーセレクトという言葉の前では、そのような違いなどまったく問題ではない。
両親を知らない彼らには、どのような血が混じっていても意味はないのだ。
その点でいえば、健も同様なのである。
彼自身がクオーターだったと知ったのは、たかが何年か前のことだった。
レイラー・哲郎や、健を取り囲む知り合いは、恐らく本人に対してひたすら隠していたのだろう。
懇意にしていた老人……特別な思いを持って当然だったのだ。
考えてみれば、自分の孫に対して、彼は最後まで肉親の情を表すことを許されていなかったということだ。
レイラーが、彼の娘婿の親友だった偶然は、あるいは最大の皮肉だったかもしれない。
思えば、それを秘密にしなければならなかったレイラーたちにすら、同情をおぼえる。
だからこそ健は、知ってしまった事実を誰にも言っていない。
「タカシくんは、とにかくよく話をする。何度会っても話が尽きないらしく、田辺さんは毎日のことだから、うるさいくらいだと言っていたよ」
それを聞いて思わず笑いだした健につられて、司令もまた、苦笑いを浮かべた。
「落ち着きがない、というわけではないのだがね。覚悟は必要かもしれない」
「それも、覚えておきましょう」
笑いながらページをめくる。
やはり五人目のメンバーではなく、最後のメンバーである夕子の写真が貼ってあった。
夏木夕子。
俯きがちの口許は、両手を当てられていて見えない。
肩を覆うほどの長い髪の先が、緩やかなウエーブになっている。
前髪に隠れそうな瞳には、典型的な奥ゆかしさが伺えた。
見る限り、美人というより可愛い、という言葉のほうが当てはまる。
絵里は、ナチュラルメークが大人びた印象を与える美人であり、ハッキリとした目鼻立ちとともに、程よい形の唇に塗られたルージュが、女性らしい妖しさを見せていたが、夕子の場合、その化粧すらしていないようだ。
というより、童顔に近いから似合わないのかもしれない。
写真だけの夕子に微笑みかけ、健はまたページをめくっていった。
五人目のメンバーが気になる。
データでは、常にトップにいたメンバーだ。
だからこそ、一番興味を持ち、会うのを楽しみにしている。
ほとんど最後のほうに貼ってあった写真を見たとき、健は思わず、資料を顔に近づけた。
「こ……れは……」
本当に、驚いたのだ。
口元だけが、
『嘘だろう……?』
という形に動き、それがやがて、笑い声に変わった。
「まさか、女性だったとはね」
自分が、先入観を持っていたと気づいたのだ。
藤下護……名前だけを見れば、男性としか考えられないではないか。
定期的に送られ続けてきた全メンバーのデータには、今まで一度も性別が記載されていなかったせいもある。
しかし、名前だけで男だと思い込んでいた自分に呆れてしまう。
この写真は、絵里や夕子など比較にならないほど、綺麗に整った女性のものだった。
難点を言えば、髪型だろうか。
長く邪魔になった前髪と、脇や後ろの髪を、とても整えて切っているようには見えないのだ。
まるで、無造作に掴んで、ハサミで切り落としたような感じだ。
それに表情に違和感がある。
ダークブラウンの瞳がカメラの方を向いているのは確かなのだが、表情に現れていなかった。
実をはじめ、メンバーの表情は様々にこちらを見ていたが、護だけはまるで……
まるで、何も見ていないような……。
たとえて言うのならば、人形を写真に撮った……かのようだ。
肌の白さも、そう見える理由のひとつかもしれない。
言葉も止まるほどの美人━━だからこそ、髪型が惜しい。
「マモルくんは……男だよ」
正直なところ見惚れていた健に、あまりにも小さな剣崎司令の声が聞こえた。
そのため彼は一度、聞き返したくらいだ。
「今……何を……?」
健のほうを、というより彼が手にしている写真から意識的に遠ざかるかのように、司令は顔をそらすと呟くように言った。
「彼、だよ。それは、三年前の写真だ。今はまだ……ましになったほうだ。一応、男には見える……」
何か、悪いことでも言ったのかと思えるほど、司令の声は弱々しかった。
「昔から……感情の起伏が少ない子だった。いや……これはまだ、控えめな表現だろう。今の彼に感情があるのかどうか、私には判断ができない」
「ちょ……っと……待ってください。どういうことですか? 感情がない?」
聞き返したものの、健は、呆然と写真を見下ろした。
その言い方が正しければ、彼の表情も当然には違いないが。
重々しく頷いた司令が、独り言のように呟く。
「君に話しておかなければならなかったのは、このことなのだよ。ミノルくんのことも問題なのだが、それ以上にマモルくんのことで、君に言い聞かせておかなければならなかった。……私は、レイラーとして、と同時にここの司令として、君に頼みたいのだ。たとえ、どういう育ちかたであろうと、ノーセレクトの仲間としてマモルくんを受け入れてあげてほしい。だが、深入りはしないでほしいのだよ」
矛盾している。
健は、食い下がるように身を乗り出した。
「そんなことができると思いますか?」
「わからない。私にも、彼の教育者にも彼を理解できないのだ」
「教育者? ……ああ、そういえば、途中からレイラーが代わっていたようですが」
記憶にあったのは、途中から同じ姓の、女性から男性に名前が代わっていたことだ。
それがいつなのかまでは思い出せないが、レイラーが代わったことだけは覚えている。
その点でいえば、隆宏のレイラーもまた代わっていたはずだ。
その頃健は、レイラーという職も楽なものではないという印象を持った。
実のレイラーが亡くなったというのも、ある意味激職だったからなのかもしれない。
司令は、視線をさまよわせながら迷っていたが、やがて窓のほうに顔を向けた。
「高木春代さんは……自殺をした」
「自殺?」
「教育者である高木浩二郎さんは、彼女のご主人だ。春代さんがマモルくんのレイラーであることを承知で、彼女の姓に変えてまでして結婚をした。それからは、二人でマモルくんを育てたのだ。……浩二郎さんには、レイラーの資格がない。だから、教育者としか言えないが、マモルくんを今日まで、本当の息子のように育ててくれた。それこそ、春代さんの忘れ形見のようにね」
「マモルはそのことをどう思っているんでしょうか?」
あるいは、それすら感情が動かずにいたか……。
顔をそらせたままゆっくりと首を振って、司令は息を漏らした。
しばらくは黙ったまま、やがて軽く口元を押さえて向き直った。
「ケン、三日後には君たちは初めて顔を合わせる。それから先は、君たちの生活になる。それが、彼に変化をもたらすかどうかすら、私には想像ができない。確実に私の口から言えるのは、彼に深入りはしないでもらいたい。何度でも繰り返すが、それだけは忘れないでほしいのだよ」
「無理なことを……言ってくれる……」
思わず洩れた愚痴に、司令はすがるように身を乗り出した。
「わかってくれないか? たった七人のノーセレクトだが、君たちは個人個人で問題を抱えているのだよ。私は、それをすべて知っている。だが、それらは私の口から言うわけにはいかないのだ。レイラーだ、責任者だと言っているが、所詮私はノーマルだ。ノーセレクトの君たちだから……同じ仲間だから、理解しあえると、私は思いたいのだ。……ケン、私はね、君ならば彼らのための、一番、幸せな将来を見つけてくれると信じているよ」
買い被らないでほしい。
そう言いかけた健の口元は、だが、大きなため息に代わって洩れた。
まるで呪文のようだ。
『ノーセレクト』の、リーダーという決定が、重く心に響く。
今さら断るつもりはないが、彼らに会う前からその重圧に潰されそうだ。