本格的、始動 7
庭から道路に出るところだった。
「ミノル、待ってくれ」
健の声が聞こえたとき、実は足を止め、左へ行こうとしていた方向を変えた。
坂の下へ。
港に向かって歩き始める。
駆け寄ってくる健に歩みも止めず、まして待っているようなこともなかったが、彼が追い付いたときに先に口を出したのは実のほうだった。
「話を聞かなくてよかったのか? リーダー」
怒りを抑えるように、絞り出す嫌味だった。
一体、何が気に入らなかったのかを聞き出すこともできず、健は黙って彼に並ぶ。
それきり、実も口を閉ざした。
寝静まった住宅街から、すでに閉じた店のほうが多い少し大きな通りへ。
そして、まだ交通量の多い道路を抜けて、実は港の倉庫群に入っていった。
公園と隣接する辺りに、うっそうと木が繁っている。
人気はなく、港に沿った街灯だけが空しく辺りを照らしていた。
ただついてきただけの健だが、何も見えない海の音に足を止めると、その場に腰を下ろした。
すぐに連れ戻すつもりだったのだが、やはり何も聞かずに帰っても、恐らく実にも、護にもわだかまりが残るだろうと考えてのことだ。
時間をおいたほうがいい。
自然、実も座り込んだが、何を思ったか、健の足に頭を乗せて横になった。
しばらくは、二人とも口を利かなかった。波の音を聞いていただけだ。
健は、ふと、実を見下ろした。
一人で、何を考えているのだろう。
『一人でいられる強さがない』
護の言葉を思い出す。
なのに今もこうして、健の存在を忘れたかのようにただ、海を見ている。
「ミノル」
躊躇いがちに声をかけたのは、護のことを考えると、飛び出してきた理由を知りたかったからだ。
彼らのことは考えない。そう決めたはずなのに、やはりすぐにはできそうもない。
呼び掛けにすら返事はなかったが、実はようやく顔を向けて、言葉を待つように健を見上げた。
「一体、何が気に入らなかったんだ?」
「……あんなものを見せつけられて、平然とできるものか」
「あんなもの? ……彼はおまえに何もしていなかったじゃないか」
実に、だけではない。
護はあの時、隆宏の話すら、興味も示さず窓の方を見ていただけだ。
誰にも関心すら、向けていなかった。
実は、逆に健に聞いた。
「なら、おまえがあいつに何かしたのか?」
「え? ……どうしてオレが?」
「そうだろう? おまえにわからないのに、オレにわかるはずがない」
会話になっていないじゃないか。
見当はずれの言いあいをしているようで、健はおもむろにため息をついた。
「あのなぁ……オレをからかっているのか?」
「何のために?」
「……ミノル、もう一度聞くよ。おまえは、マモルの何が気に入らなかったんだ?」
「だから、おまえに……」
声が途切れ、思い出したように苦笑が浮かぶ。
「……わかるわけがないのか……」
自分だけの能力だったことを忘れていた。
彼らに会うまで実は、この能力がノーセレクト特有のものだと思い込んでいたのだ。
あの感情を感じ取れなかったとは、ある意味幸せなことなのかもしれない。
それなら、黙っていたほうが無難なのだろうが……。
しかし、あのまま放っておけば自分の身がもたない、とも思う。
実は、勢いをつけて起き上がると、健の目の前に座り直した。
「仕方がない。特別に教えてやるか……」
「そんな、恩着せがましい言い方をしなくてもいいじゃないか」
「黙って聞けよ。オレの秘密を話してやるんだから」
「秘密?」
「オレはな、自分の感情がわからないんだよ」
「……は?」
あまりにもあっさりと言うものだから、健には意味の大きさがわからなかった。
言葉の効果を確かめるように健を覗き込み、実が彼の、シャツのポケットからタバコを抜き取る。
一本を加えて火をつけると、そのまま健に渡した。
「おまえのことだから、リーダーを言い渡されたときに、キャップからオレたちのことを教えられたんじゃないか?」
「まあ……ある程度はね」
「オレのレイラーのことも?」
「……聞いた……」
手の中のライターを弄ぶように意味もなく火をつけて、実が呟く。
「……彼女が発病したとき……オレの中に、他人の感情が入り込んできた。それが、自覚した最初だ。……それまでも、意思と関係のない感情が出ていたが、それが全部、他人のものだとわかったのがその時さ。一度に……何人もの人間の……いろいろな感情が入ったときの思いなんて、おまえには理解できないだろうな。放っておいたら、オレは到底、正気ではいられなかった。……何の関係もない他人の感情に振り回されるわけにはいかないだろう。だから……一切の関係を絶っていたんだ。自分でコントロールできるように、だ。……他人の感情を受け入れるわけにはいかない……」
「受け入れる?」
護は、感受性が強いから他人の思いが『伝わる』と言っていたが……。
受け入れるとは、どういう意味だ?
「伝わるというわけじゃないのか? 感受性が強いと聞いたが……? それなら、ありえないことじゃないし……」
ほとんど独り言のように呟きながら、健はそういうことが本当にあるのかを考えた。
自分には、あまり経験はない。
しかし、よく聞くのは小説やドラマや映画などで感激したり、恐怖を感じたりする感情があるということだ。
共感できるものなら、それこそ様々な方法があるだろう。
音楽を聴いて感動する人もいるだろうし、自分が体感したのは……あれは絵画だ。
自分が描いたものではないが、絵を見て、作者の、そのときの想いが見えた、とでもいえばいいのか。
そういう感覚なら、誰でも少しは持っているはずで━━
「あ、……マモル……」
忘れていた。
早く戻って彼を安心させたほうがいいのだが。
それにしても、絵画で彼を思い出すなど皮肉もいいところだ。
健は、立ち上がった。
「ミノル、マモルが心配しているんだ。すぐにおまえを連れ戻すつもりだったんだけれど、もう少し、詳しく聞きたくなった。電話を掛けてくるから待っていてくれ」
言うなり、実の手から、タバコを抜き取る。
「お、おい」
「いいか、動くなよ。勝手にどこかに行ったら、オレは、必死になっておまえを探すからな」
彼らが何もさせてくれないからこそ、この言葉は脅しにもなる。
それくらいの学習能力くらいは持ち合わせているというようにニッコリ笑うと、健は、電話を探しに倉庫群を走って出ていった。
「……うん、そういうことなら納得いくまで聞いておいでよ」
玄関で長々と健の話を聞いていた隆宏は、リビングから覗き込んでいる高志と絵里に、小さく頷いた。
「オレたちは大丈夫。せめて、エリたちにはオレの方針を話しておくから。……それもわかったから。マモルに伝えればいいんだろう?」
健からの言葉に相づちを打ちながら、少しして受話器を置いた。
「どこにいるって?」
彼らが外に出て、約三十分。心配はあったが、彼らは酒の助けもあり盛り上がっていた。
その中で護は一人、口も利かずに外ばかりを見ていた。
リビングに戻って、さっそく尋ねた高志を制して、隆宏はソファに座りながら護に手招きをする。
「ケンから伝言だよ」
それを伝えるから側にきてくれという彼に、護は、自然に決まっていた自分の席に戻った。
黙って顔を向けた彼に、隆宏は、健を思わせるような穏やかな微笑みを浮かべた。
「『おまえのいうとおりだ。ただ、ニュアンスが少し違うようだから、とことん聞いてくる。おまえへの誤解が解けるように説得するから任せてくれ』……だって」
実が出ていったきっかけは護だ。
あのときの状況は、そうとしか思えない。
どうみても理由のわからない、理不尽な言いがかりなのだが、それでも今の健の伝言なら実を説得して連れ戻せるだろう。
だから、安心していいと隆宏は言いたかったのだが、途端に顔色を変えて窓を振り返った護には、安心どころか逆に、不安の様子が伺えた。
「なんだよ、マモル。ケンを信用できないのか?」
“君たちは信じられるのか?”
口には出さず、護が音もなく立ち上がる。
「ケンが言い負かされるかもしれないけれど、それなりにわかってくれるはずよ」
という絵里には、返事があった。
「そういう……問題では……ない」
初めて聞いた彼の声に、思わず目を丸くした彼女のあとを引き継ぐように、高志が言う。
「それなら、ミノルの言ったことを気にしているのか?」
また、黙り込む。
その態度が腹に据えかねた。
「じゃ、なんだよ? はっきり言えよ。気になるじゃないか」
まともに話をしようとしない。
少なくとも彼は、護とまだ会話らしきことをしていないのだ。
彼だけではない。
護は、見当をつける限りまだ、健以外と話らしきことをしていないはずだ。
実際、昨日も隆宏は言っていた。
二人で出掛けていた時間は僅か半日だったが、ただの一言も声を聞かなかった、と。
彼から聞くまでもなく、雰囲気からして無口なことはわかっていたし、そういう相手には自分のおしゃべりは却ってうるさいだろうと、これでも気を使っていたのだ。
なのに、誰にも反応を示さないのでは苛立ってきても当然だったろう。
隆宏は、興奮している高志の腕を掴むと、口許だけで、
『任せて』
と、言って、腰を上げた。
窓際に行ってしまった彼に近づいて、呼び掛ける。
「ねえ、マモル、何を心配しているの?」
窓を開け、護は仕方なく口を開いた。
「早すぎる」
やがて漏れ出たのが、その一言だった。
「早いって……何が?」
沈黙。
隆宏は、なおも食い下がった。
「何か知っているのなら、教えてくれないか? 少なくとも、ケンの代わりを任されているんだから、話を聞く権利はあると思うよ? ……正直に言うけれど……」
ほんの僅かに首を回して隆宏は絵里たちを振り返ったが、すぐに今度はほとんど内緒話をするように囁いた。
「君の態度はあまり気持ちのいいものじゃないと思うよ。……会ってすぐだから信用してくれとは言えないけれど、オレは、君にバカにされているような気がするんだ。……君が何かを知っていながら黙って、心の中で笑っているんじゃないかって」
そう、見えるのか……。
流し見るように護の視線が彼に移った。
感情を持てない、人形のようだと言われ続けてきたこの自分の態度にも、そういう人間的なものが見えるというのか。
もう、十年以上も前から、自分の心を放棄したというのに。
「言いすぎたかな? でも、君が何も言わないから、そうとられても仕方がないんだよ。せめて、一つだけ。……何が早すぎるのか、それだけでも教えてくれないか?」
穏やかに諭す隆宏の言葉も、自分たちを気にしてこちらを見ている高志たちの姿も、護の気持ちを動かすことはできなかったが、このまま黙っていたところで、更に食い下がってくることだけは理解できる。
諦めて、護は口を開いた。
「ケンは……まだ、ミノルを理解できない。あれでは……ミノルのほうが傷つく。……それだけは……許せない。オレは……」
まっすぐ、心の底まで見透かすように隆宏を見つめる。
「ミノルを知っている」
「知って……? 知り合いだったの?」
「リーダーであろうと年上であろうと問題ではない。君たちも同様だ。彼を傷つけるものを……オレは許さない。……彼がいるから、オレはここにいる。それだけのことだ。君たちがオレをどう判断しようと、関心はない。誰が、どうなろうと、どうでもいい」
護は、窓から外に出た。
「オレに関わらないでくれ」
感情の欠片すら含んでいない。それは、実とはまったく違う形の拒絶だった。
いや、実のほうが態度に表していた分、マシなほうだったろう。
隆宏たちが言われたことの意味を考える間も与えず、彼はそのまま窓を閉めた。
これもまた、態度で示した、彼の拒絶であった。
息を切らして戻った健の目の前に、何かが差し出された。
ボトルの、ヨーグルトジュースだ。
「あ、ありがと……」
と、言ってから気づく。
これを買って戻れるほど待たせていたのだ。
健たちは、基本的に携帯電話を持っていない。
隆宏たちは、あるいは普段から使っていたかもしれないが、少なくとも本部に持ち込んではいなかったようだ。
そして、本部から預かっていた一つも慌てて出てきたため持ってこなかった彼は、電話を探すのに手間取っていたのである。
今時、公衆電話などその辺りに設置してあるものでもない。
北海道にいた頃は、知り合いの人数も極端に少なかったから、電話を使うことなどほとんどなかった。
他人に連絡を入れるのが、これほど困難なことだと、初めて知った。
あちらこちらを走り回って、結局、公園近くの交番から連絡をとることができたのだ。
実の手には、もう一本、オレンジジュースがあった。
半分ほど、減っている。
「すまなかったね。待たせてしまって」
「帰ったほうが早かったんじゃないのか?」
笑っている。
あまりにも遅い戻りに、彼なりのいつもの皮肉だった。
「今さら言わないでくれよ。それにしても、どうしてヨーグルトなんか……」
「酒の飲みすぎなんだよ。胃に負担がかかる。もう、遅いが、何もないよりはマシだ。……おまえ、少しおかしいんじゃないか? あんなに不味いものを、よく平気で飲むな」
「……その言い方だと、飲んだことはあるみたいだね」
そのときのことを思い出して、実はあからさまに嫌な顔をした。
「一度だけだ。慣れる気もしない。体質に合わないんだ」
と、言いながら、さりげなく健からボトルを取り上げると、キャップを開けて戻した。
コーヒーにミルクは入れるものの、ヨーグルトになると、それこそ健の体質に合わないのだが……言ったところで、また嫌味を言われることもわかっているから彼は仕方なく、一気に半分近く空けるとボトルを脇に置いた。
「甘いなぁ」
「これすらもか?」
「気分的にね。こういうものに苦手意識があるみたいだ」
「典型的な酒飲みのセリフだな」
体質的にアルコールを受け付けない実にしてみれば、永遠に理解できない心境だろう。
それきり、会話が切れる。
二人とも、海の方を眺めていた。
遠く、船の明かりも見えない暗い空間に、波音だけが耳に入ってくる。
港に隣接する公園沿いの遥か向こうには、ビルの明かりが昼間のように輝いていた。
背後では、遠くに車の行き交う音も聞こえるが、どちらかと言えばやはり波の音のほうが近い。
蒸し暑ささえ我慢をすれば、結構居心地がいい。
そう思いながらも、一晩中こうしているわけにもいかず、健はだいぶ経ってから本格的に実に向き直った。
「ミノル、オレなりに考えたんだけれど、おまえのなかに、他人の感情が入るといったよね」
「ああ」
「それって、別におまえだけのことじゃないよ。オレだって、相手の雰囲気とか気配を読み取ることができるんだし、訓練したじゃないか」
訓練したからこそ、夕子にしても可能なことなのだ。
中途半端に終わっているとはいえ、この先、メンバーで彼女を訓練していくことも可能だろう。
「その程度ならな」
「程度の問題か?」
くぐもった声が聞こえたかと思うと、すぐにそれは高笑いに変わった。
まるで、空に吐き出すかのように、実が健に背を向ける。
別に、おかしなことを言ったつもりはない。
笑われることではないはずだ。
しかし、それは突然止まり、実は背を向けたまま呟いた。
「ケン、おまえには何を言っても無駄だ。楠木さんが言っていたことは正しいよ。……言葉にしたところで、おまえが受け取れる意味は、所詮、おまえ自身の知識の範疇でしかない。おまえの、他愛ない枠に、オレを押し込めないでもらいたいな」
「たっ、他愛のないって……」
さすがの健も、聞き流せる言葉ではなかった。
確かに、知識がないのは認める。
だがこれでは、自分の感情そのものまで否定されているようなものではないか。
「いい加減にしてくれよ、ミノル」
それでも、腹立ちを抑えるため、声を絞った。
他人に対して怒ってはいけない━━それが、レイラー・哲郎から教え込まれた『決まり』だったからだ。
だが、それを反映するように、いや、逆ギレか、実のほうが怒鳴ったのである。
乱暴に振り返り、彼は声を荒げた。
「いい加減にしてほしいのはこっちだ! 言葉にばかり捕らわれて、少しもオレたちを見ようとしないじゃないか! おまえが見ているのは、オレたちのデータという、薄っぺらい資料でしかないんだ!」
彼は、勢いで、健の両肩を掴んだ。
「オレをよく見ろよ! 自分の感情がわからないと聞いた今、おまえの目に、オレはどう映っているんだ! 話を聞けば、オレがわかるのか? 何が変わるんだよ!」
「……ミノル……」
「オレたちがおまえに見せようとしているんだ。自分たちのありのままを、おまえの目の前に出しているんだよ。おまえは、それを見ているだけでいいんだ。オレたちが何をしようと、何を考えていても、どれだけのことを隠そうが、オレたちという現実はおまえの目の前にあるんだぞ。そこから目を逸らすな。言葉やデータに捕らわれるな。どれだけ時間がかかってもいい。おまえのペースに合わせるのはオレたちのほうだ。おまえが焦ることじゃない」
「おまえたちのほうが……?」
掴まれている実の力に、彼はそっと手を回した。
「……どうして……おまえたちが気を使うんだ? 何もわからずにいるのに……。言ってくれなければ、オレには理解できないというのに……。わかってやれる自信がないんだよ?」
「それでもいいんだ」
その短い一言に、切実な想いが含まれているように感じる。
『感じる』ことが大事なのだと自覚できないまま、彼は、実の腕を優しく外して、ゆっくりと頷いた。
「……マモルにも、同じことを言われたよ。感じること、覚えること……。リーダーという肩書きは……いらないということか」
どんなに時間がかかってもいいというのなら、ゆっくり、そして確実にメンバーを見ていこう。
自然に理解できるときが、必ずくる。
━━護の言葉を留めた今朝に、高志の心情がなんとなくわかった時のように、信じていけばいいのだ。
力が抜けた。
リーダーという立場に、一人で縛られていたようだ。
剣崎司令の期待に応えなければならないと、勝手に思い込んでいた。
実が隣に座り直したのを機に、健はその場に仰向けになった。




