本格的、始動 2
役所を調べることにしたのは、護がいることが原因だった。
昨日、目的のビル近辺を歩き回っていたと聞いて実は即断した。
やりにくいのは確かだ。
一見すると女性と間違える面差し。
それもかなりの美人と誤解される。
身長は、実と同じくらいで百七十半ばほど。
僅かな風にすらそよぐ柔らかく濃い茶色の髪とは逆に、何があっても反応がないのではと思わせる無表情では、通りすがりでさえ一発で覚えられてしまいそうだ。
その彼が、目的地付近を歩いていたなら、昨日の時点で隆宏と共に、組員に見られていないとも限らない。
その辺りが観光地だというのなら不自然ではないが、住宅地と商店街の狭間に位置していれば、一度通れば充分な場所なのである。
しかし、この役所には思わぬ盲点があった。
人口の多い地域の役所だ。
人がこんなにも集まっているとは……。
様々な手続きや申請で順番待ちをしている人が、ベンチでは収まりきれなくて、あちこちに立っている。
その視線のほとんどがこちらを向いていたのだ。
椅子に座って一心にコンピューターに向いている護の目は、伏し目がちのわりにしっかりディスプレーに集中している。
近づける雰囲気がないから、尚更、遠巻きの視線が集まっていることに気づかないのかもしれない。
控えめな服装は、流行に興味がないのを地でいくほどきっちりとボタンを留めた長袖のシャツだ。
それもまた、遠くのざわめきの原因でもある。
「……まだ……終わらないか?」
借りた建物登記の書類を写している護が、苦しそうに呟いた実に対して初めて目をあげた。
「どうした?」
見ると、僅かだが顔色が悪く思える。
両肘をテーブルについて、頭を抱えていた。
「あとどれくらいだ?」
「今までのコピーだけだ。三分ほど」
「……手間がかかるな」
その三分すら、彼には苦痛らしい。
しきりに辺りを見回し始め、こちらを向いている視線の一つ一つを睨み付けて牽制している。
「どうしたんだ?」
護も同様に顔を巡らせた。
彼のことは大体は理解しているつもりだったから、このように落ち着きのない態度が不思議だった。
「うるさいんだよ……周囲が……」
「?」
今までコンピューターに集中していた彼だが、周辺の騒音には気がついていた。
人の声は、あとから重なりあって聞こえるため、何を言っているのかはわからない。
電話の音も、コンピューターやプリンターの音も雑音になって耳にはいってくる。
館内放送までもが流れていたが、こういう場所では仕方のないことだし、慣れてくれば何のこともない音ばかりだ。
現に、護はほとんど気にならなかった。
「……もう少しだ」
もしかしたら、周囲の感情が伝わっているのかもしれない。
多少の疑問はあるが、護は気の毒だと思いながら言った。
この作業さえ終われば、次は静かな図書館だ。
我慢してもらうしかない。
少しずつ苛立ちが募ってきたらしく、実はいきなりテーブルに突っ伏した。
「……大体……おかしな人間が多すぎるんだ」
うるさいと言うわりに、耳を塞ごうとしない。
となると、やはり感情のほうらしい。
しかし……こうも簡単に伝わるのだろうか。
レイラー・美鈴千春にすら心を開かなかったため、護の想像に過ぎないが実の器用さがあれば、人を拒絶していた期間は感情を遮断する訓練をしていたと考えられる。
それもできずに人前に出てくるわけではない。
第一、昨日はここ、横浜にまで来られたのだ。
今日になってなぜ、ひどくなっているのかがわからない。
だが、こちらから下手に心配すれば、勘のいい実のことだ。
護が自分のことを知っていると、わかってしまう。
別に隠すことではないが、敢えて言うことでもない。
感情を沈め、護はディスプレーに目を向けた。
「何か、聞こえるのか?」
もうすぐ終わる。
当たり障りのない問いかけで、せめて実の注意をこちらに向けるつもりだった。
実が、絞り出すように呟く。
「みんな……おまえのことばかりだ」
「オレの? ……聞こえるのか?」
わからなくなった。
感情が伝わっていたのではなかったのか?
間をおかず、完了の合図が映し出されたのを確認して、護はコンピューターを切った。
「ミノル」
呼び掛けに、待っていたとばかりに顔を上げると実は、用がなくなった書類の束を取り上げて席を立った。
「マモル、先に外に出ていてくれ。おまえがいるからうるさいんだ」
頷くことで返事をして、護は外に出ていった。
持っていた書類はすぐに受付に戻し、実が頭を抑えながら周囲を見回す。
気がおかしくなりそうなほど、様々な感情が漂っていた。
うっとりとした女性のもの、まるでアイドルにでも会ったような興奮を混ぜた中年の女性、男性の中には、やはり護を女だと思い込んでいるらしく、出ていったあとをついて行きかけないほど、自分の用事を苛立たしげに待っているものもいた。
感情の種類も、程度も、それこそそこにいる人数分が流れ込んで来る。
実は、ふらつきながら、洗面所に入っていった。
鏡がいくつも並んでいるパウダールームの隅に立って、自分の姿を映し出す。
“しっかり切り替えろ。あと一人なんだ。……マモルさえ取り込めれば、……ケンの手助けも可能じゃないか。おまえが見るのは……おまえが見るのは……ノーマルじゃない。余計なものは入れるな”
それは、自分に対する暗示だった。
できないはずがない。
入ってくるものの全てを受け入れてしまっては、精神は崩壊する。
誰のために、何をどこまでしなければいけないのか、コントロールのやり直しも夕べ、公園でシミュレーションしたはずだ。
“切り替えろ……油断をするな……”
目を閉じる。
心の中に自分の感情を探りだし、確かめて実は目を開けた。
自分を信じられなければ到底できない自己暗示だったが、このときばかりはメンバーのためという、確固たる意思があったからだろう。
鏡に映った瞳には、すでに元の輝きが戻っていた。
「全員……だわ」
公園を出てから一時間あまりだ。
やたらに歩き回っただけでは九人に関係のある情報が入るはずもなく、方法をもう一度検討するために、絵里たちは目についた喫茶店に入った。
昨日からコーヒーばかりだったので、紅茶専門の喫茶店が珍しいという高志の提案だった。
成果のないことを正直にコンピューターにインプットした上で、隆宏に指示を仰ごうとしたのだが、そこにはすでに九人全員の、重要だと思われる行動予定が書き込んであったのだ。
「たった一時間ほどで? タカヒロはすごいな」
と、素直に感心する彼を目の前に、絵里は厳しい表情でため息をついた。
「あんたねぇ、あたしのやることがなくなったと判って感心しているわけ?」
「……そういえば、そうなるんだな」
「呑気なものね。……それにしても、たった一時間よ。こんなに都合よくターゲットの行動が把握できるものかしら?」
コンピューターを操作しているのは絵里だ。
彼女は、ページごとに区分けされているデータを流し見ていたが、しばらくして、今度は実たちの様子を調べ始めた。
「……こっちも順調のようね。調査のひとつはクリアしたみたい。メッセージが入っているわ。今、図書館にいるようよ」
「オレたち……どうする?」
高志は、窓の外に目を向けて呟いた。
やることがなくなったと知った途端、気が抜けてしまったらしい。
絵里がディスプレーに向かっていることすら興味を持たずに、ぼんやりと続けた。
「今日は平日……だよな」
まったく関係のない一言に、彼女の手が止まる。
「そうよ。どうかした?」
と、彼の視線をたどる。
外を行き交う人たちが暑いなか、楽しげに笑いあったり、地図や本を見ながら通りすぎていた。
「ヨコハマって、観光地なんだと……改めて思ってさ。結構、人がいるんだなぁ」
「そうね。あたしもよく、ここに来たわ」
グループデートと言えば、聞こえがよかったろう。
しかし、彼女の立場はいつも、人数あわせでしかなかった。
男友達は掃いて捨てるほどいたというのに、愛情に変わるほどの相手には誰一人ならなかった。
自分が冷めていたのも原因のひとつだろう。
しかし、所詮『友だち』で終わったのは、彼女の性格に問題があったとしか言えない。
友人をなくしたことはなかった。
相手が勝手に彼女に好意を持ち、形だけ付き合った挙げ句に、友だちという関係で終わる。
それきりということではない。
『君のことを女性と思えないんだ。まるで、男同士みたいだよ。それなら、これからも付き合ってくれるだろう?』
誰もが似たように切り出していた。
そうして男の友人が増えるに従って、彼女の周辺に女性の友人が増え、結局、ついたあだ名が『恋愛製作所』だ。
彼女の近くにいれば、ほとんど必ず誰かとカップルになれるということらしい。
本人は縁遠いというのに。
“いけない”
つまらないことを思い出している場合ではない。
絵里は、手元の紅茶に手を伸ばした。
「外ばかり見ていないの。これからどうするか考えないと」
「パス。考えるのは苦手だ」
高志は明け透けに笑いながら、テーブルに肘をついた。
「オレは動くほうが好きなんだ。考えるのはタカヒロや君に任せるよ」
「……呆れた」
こうもきっぱりと言われては、彼女も怒るに怒れない。
『この子』と言いたくなるほど無邪気な言葉だ。
感情がはっきりしていて、喜怒哀楽を、素直な反応で示す。
こういうところを見ると、夕子のほうが大人っぽく見えるから不思議だ。
絵里は、子供が好きな方である。
面倒見がいいと周囲からも言われていた通り、無邪気な彼を突き放すこともできず、
「いいわ、任された」
と、持ち前の気前のよさで、コンピューターを脇に追いやった。
「……それにしても、……彼らはどこにいるのかしら。ビル近辺を歩いているあたしたちが情報を集められないのに……」
彼女もまた、外に視線を移す。
しばらくして、頬杖をつきながら、高志がまた言った。
「なあ、エリ、ひとつ気になったんだけれど」
「なあに?」
「うん、タカヒロのことさ。結局、ターゲットの行動を調べるって、大した作業ではなかったということだろう? それを見るとさ」
と、コンピューターを、頬杖をついたまま指し示した。
「なのに、どうしてオレたちに頼んだのかな? 自分で出来ることを頼んでおいて、結局オレたちは無駄足だ。あいつらしくない嫌がらせじゃないか」
それは、高志が誰よりも早く隆宏と会って話していたための印象だった。
多分、同じ電車に乗っていたと思える二人は、本部の入り口で会い、それからは色々と話をしてきた。
結果、高志に映った隆宏は、感情を柔らかく言葉に含めて話す穏やかな性格だということだ。
決して声を荒げない。むしろ、高志よりも低い声を、優しく口にする。
ボソボソとした、いじけた言い方ではない。
そして、怒ったり拗ねたりすることも、表面に出すのではなく素直に言葉として言い含めるような男のはずなのだ。
人の話を聞いたあとに、自分の考えていることを言う。
逆に言えば、隠し事をするのが下手な人間……そんな彼が、自分でできる簡単な方法を教えもしないで、高志たちに指示するだろうか。
絵里の目も、自然にディスプレーに移る。
「確かに……そう、おかしいのよね。組織事務所のことを調べるんだもの、どこかで会うと思っていた……まして、彼はこの調査の他にもう一つ引き受けているんだもの。ビル周辺の事情……」
言葉が途切れ、絵里はパッと顔を上げた。
「ケン!」
高志もまた、同じ人物を思い浮かべたようだ。
声が重なった。
そのあとで、彼は苦笑混じりに背もたれに寄りかかった。
「忘れていたよ、あいつの存在」
「あたしもよ。でも、彼が勝手にやったことなら頷けるわ」
「頷ける? どうして?」
高志の場合、単純に彼のことを思い出しただけだったから即座に尋ねた。
絵里が、脇に置いていた自分のバックを軽く叩く。
「これよ」
祖の中には、高志が借りた健のスティックが入っているのだ。
受け取って人混みの中に入ったものの、ポケットに入るほど短いものではなく、かといって持ち歩いていたら、何かの拍子でスイッチが入るかもしれないと、絵里が取り上げたのだ。
使う時と場所は、彼女が探すと言った。
「それがどうかしたか?」
彼も、何を指したかがわかったようだ。
「あたしたち、タカヒロのことはわかっても、ケンのことはあまり知らないのよ? ダメだと言われていたのに彼、こうして持ってきていたじゃない。リーダーを差し置いたことを納得していないかもしれないわ。今日の行動にしても、彼には一言も相談していない。タカヒロが決めたんだもの。反発してもおかしくないわ」
「そんなに大胆なやつかなぁ?」
「情けない面しか見ていないけれど、心の中で何を考えているか……。わからないわ」
「あ、それ。タカヒロから伝言があったんだ。いつ話そうかと思っていたんだけれど、ケンのこと、聞いてくれ」
夕べは酔いつぶれてしまって話すどころではなかったし、今日は今日で、すぐに動いてしまったため、覚えていたもののタイミングが取れなかった。
今ならちょうどいい。
彼は、隆宏との会話を忠実に伝えた。
おしゃべりな彼にとって人との会話は現実的で、その中には自分の考えは含めないから、絵里には聞きやすかったようだ。
時おり、何度も頷いていたが、最後まで一切口を挟まなかった。
「……そう。彼のいうことはわかったわ。あたしはミノルの考えに反対はないから、それはそれでいいわよ」
「それで、さっきの話になるんだけれど、どうしてもオレにはケンが反発心を持っているとは思えないんだ」
「確かにそうね。でも、それはあくまでもあたしたちの見方でしょう? こっちの態度を、ケンがどう思っているかのほうが肝心じゃない?」
「それを言われるとね。……夕べだって、タカヒロにも投げやりな決定しかしなかったくらいだし。……でもなあ……」
言葉がそれきり途切れたのは、彼女の意見も正しいと思う反面、やはりどうしても健に、反発心などという精神的な面を見いだせないからだ。
もし健にそういう思いがあったのなら、ナイフを高志に渡したとき、別な言い方をしていたのではないだろうか。
例えば、
『リーダーが決めたことだから』
でもいい。
その一言で、誰も反対できないことくらいは理解しているだろう。
なのに、実際は、
『怒られるのなら、オレのほうだ』
と、隆宏の機嫌を伺うように言っていたではないか。
「タカシ、この調査をケンがやったということには異論はないんでしょう?」
唐突に尋ねられて、彼は身を乗り出した。
「まあね。タカヒロらしくないとしたら、あいつしか考えられないもんな」
「なら、あれは彼の本質からのメッセージともとれるかも」
「なにが?」
「ケンは、白紙の状態でいることが望ましいんでしょう? 彼、次の指示すらしていないの。つまり、なにも言わないこと自体がメッセージと思ったほうがいいのよ」
「はあ?」
彼女も高志の方に身を乗り出して、にっこり笑った。
「わからない? 彼が本当に頼りなくて、情けなくて、人に媚を売るような男なら、なにか言ってきているわよ。謝罪の言葉と、次の指示ができるかどうか、聞いているはずでしょう?」
思わず、高志が笑う。
口癖のように、昨日は何度、同じ言葉を聞いたか思い出したのだ。
人の顔色を伺うほどのことはなかったが、何かというと、
『ごめん』
が、最初に出てきていた。
そのあとで、言い訳じみたことを言っていたのだ。
確かにそれを考えると、なにも言ってこないこと自体、絵里たちなら残りの調査を頼めると信じたメッセージともとれなくはない。
両手で、髪を漉きあげながら、高志は言った。
「それにしても、昨日と今日とではずいぶんな変わりようだな。夕べ、なにかあったのかな? マモルとさ」
彼女は軽く首をすくめて、コンピューターのスイッチを切った。
「さあ。マモルがなにか言うとも思えないけれど? あのだんまり、相当なものね」
「オレ、司令室で『ありがとう』の一言しか聞いていないよ」
「あら、あたしはそれすら聞いていないわよ。口をきけないのかと思いたくなる無口だわ」
「でも、仕方がないよ。オレはおしゃべりだけれど、話が苦手だという人の気持ちがわからない訳じゃないから。ただ、当たっているかははっきり言えないけれど、あいつ、昔なにかあったかもしれない」
「どうしてそう思うの?」
高志がそこで口をつぐんだ。
それをごまかすように、飲み残してあった、冷めた紅茶に口をつける。
それから気まずそうに言った。
「似ている人を知っているんだ。人生に絶望して、他人に対する反応をなくした人をね」
「……そう……」
「まあ、そんな話はいいや。行こうよ、エリ、もう一つの調査、そっちならオレもできるからさ。今度はあいつらに負けないように頑張ればいいんだ」
気を変えるように元気に腰を上げた高志は、コンピューターとバッグを取り上げた絵里を従えて店を出た。




