ヨコハマ 12
庭を横目に、玄関の扉を開ける。
みんな、もう寝てしまったらしく、━━高志と隆宏は酔い潰れたのだが━━家のなかは物音ひとつしない。
「ミノル?」
先に入った彼の足が階段に差し掛かったところで健が声をかけたが、振り返りもしない。
「オレは眠いんだよ。おまえはどうするんだ? もし、まだ起きているのなら、マモルにでも面倒を見てもらえばいい」
もう、呼び止める暇もなかった。
二階に上がっていった彼に注意を向けることなく、護がキッチンに入っていってしまう。
本当ならば自分も眠くなっていい時間だったのだが、健は、昼間思いがけなく眠ってしまったことと、今日の出来事に目が冴えてしまっている。
仕方なく、護のあとからキッチンに入った。
彼が用意していたのは、夕子が作りおいてくれたアイスコーヒーだ。
テーブルにつこうとする健を止めて、リビングのドアに目を送る。
だから、彼は、そちらに移動した。
しばらくして、二つのコーヒーを持ってきた護は、ミルクの入った方を健の目の前において、自分は斜め横に座った。
思い返してみれば、自然に席が決まっている。
つけっぱなしで出掛けていた冷房が、部屋全体に行き渡っていて心地いい。
グラスをとることもなく背もたれに寄りかかった健は、天井のライトをぼんやり見つめたまま、黙っている。
そのためか、護もなにも言わない。
ただ、カーテンで遮断された外を見るように顔を向けているだけだ。
その状態が、かなり長く続いていた。
考えてしまうことばかりだ。
いけないと言われていたにも関わらず、頭の中に言葉が駆け回っている。
「マモル」
コーヒーの氷が完全に水になって層を作る頃にようやく、健が呼び掛けた。
返事はもちろん、ない。
「今、何時かな?」
リビングの時計は健の背後だ。
そして彼は、持っているというだけで普段ははめない腕時計を部屋に置いてきている。
護が、健の背後を見上げた。
「三時……に、なる」
「そう。……もう、部屋に戻ったら?」
「あなたは?」
「ここにいるよ。……どうも、おまえがいると、いろいろと聞いてしまいそうだ」
そして、聞いたあげくにまた考え込む。
これは、つまらない興味ではないのだ。
言い換えれば、剣崎司令が言った『深入りするな』という言葉に対するわだかまりだ。
しかし、それは結局、相手にとっては余計な詮索でしかない。
やり方次第では答えると護は言ったが、今の自分ではやはり力不足でしかない。
堂々巡りだ。
同じことを考えて、落ち込んでしまう。
「構わない」
小さな呟きに、健は、向けていた天井から目を離した。
「え?」
「コーヒーを入れ換えてくる」
彼は、二つのグラスをもってキッチンに消えた。
テーブルには、水滴が丸く残っていた。
キッチンで、手付かずで残った健のコーヒーを捨てる。
冷蔵庫から新しい氷を取り出しながら彼は、見えない二階を見上げた。
健の本質を実は感じた。それは間違いない。
だからこそ、本質を引き出す手伝いを隆宏たちにもさせようとしている。
先程、護も感じた『何か』が、その本質の一部だというのなら、確かに健は実を守っていけるだろう。
本当ならば、自分がやりたかったことだ。
守っていこう。実の、昔の笑顔を……。
そう決意していたはずなのに。
“……うんざりだ……”
やはり、自分はここにいるべきではない。
一日でも早く、レイラー・美鈴千春との約束を果たして消えるべきだ。
少なくとも……
あの、頼りない健が、本質というもので実を傷つけるのを見なくてすむように。
やりきれない思いを振り払うように首を振って、護はまた二つのアイスコーヒーを用意するとリビングに戻った。
今度は、直接健に手渡す。
「眠くないのか?」
「別に」
「そう。……オレは、いつもなら寝ている時間だよ」
渡されたコーヒーに口をつけて、それでも健は、テーブルに戻そうとはせずにグラスを護に向けた。
コーヒーが減ったガラスの部分から、相手を見つめる。
ここに来てから、護は、ことあるごとに外の景色を見ていた。
普段は、どちらかというと伏し目がちに俯いている。
それはまるで、メンバーと目を合わせることを避けているかのようだ。
いや、すべてのものから目を逸らしている、ともとれる。
ライトに淡く光る焦げ茶の髪は、少しでも彼が動けば一本一本が生きているように揺れる。
女性のようにも見える、控えめすぎる態度に似つかわしくない、無表情。
なのに声は、誰もがそばだてるのではないかというほど丸く、甘い。
歪んだグラス越しに見ても、損なわない顔立ちだ。
「おまえは……きれいだね。モデルにしたら、映えるかもしれない」
途端に、ビクッと体を震わせて、護がこちらを向いた。
驚愕といえる表情に、健が訝しげにグラスを下げる。
「? また何か変なことを言った?」
「……何の……モデル……だ?」
「気に入らなかったかな? ごめん。趣味で絵を描いているからそう言っただけなんだ。そんなに上手くはない……」
突然、護の手からグラスが滑り落ちた。
カーペットのため、グラス自体は割れなかったが、氷とコーヒーがこぼれる音が静かな部屋に響いて、思わず健が腰を浮かせた。
しかし、護の反応のほうが早かった。
飛び退るようにソファから離れ、身を低く構える。
「寄るな」
「マ……モル?」
その瞳には、はっきりとした殺意が込められていた。
静かに片膝をつき、左手が背後に回る。
完全な戦闘体勢だ。
「おまえが彼女の父親でなければ、とうの昔に殺している。おまえは……ミノルではない。……彼は……」
言ってから、目が泳いだ。
自分の言葉を考えるように眉を寄せる。
「……ミノルは……」
辺りを見回し、護は最後に健を見上げた。
動けずに、呼び掛けるような形で固まっていた健を確認できたのか、護の力が抜けた。
その場に座り込んで、頭を抱える。
「……すまなかった……」
「い、いや……」
“どうか……している”
あの場所にさえ近づかなければ二度と会うことのない影に、未だに心を支配されている。
護は、考えを振り払うように頭を振ると、ゆっくりと立ち上がった。
「片付ける。座っていてくれ」
こぼしたコーヒーのことだ。
健が腰を下ろすまで待って、彼はテーブルの下に転がったグラスを取り上げるとキッチンに入っていった。
肘掛けに頬杖をついて、健がその姿を目で追う。
反応したのは、絵のモデル、だったか。
健を誰かと混同するほどの出来事━━彼女の父親でなければ、と言ったな。
“マモルは女性と付き合っていたのか?”
ピンとこないが……。
父親でなければ躊躇いなく殺していた━━ほどの憎悪?
絵のモデル……。彼女がモデルだったのか?
それとも、画家か?
あるいは、父親が絵を描いていた?
いずれにしても、記憶障害の原因は絵画と、モデルの二つらしい。
『深入りをするな』
道理で強調するはずだ。
健の口元が、苦笑に変わる。
司令がメンバーの家をたびたび訪れていたのなら、自分のレイラーから、絵画も健の趣味のひとつだと聞いていてもおかしくはない。
あるいは、剣崎司令の本音は、健だけを護から遠ざけたかったか?
明日になったら、部屋を変えるか?
それが護のためであるのなら……。
キッチンで濡らしたタオルを持ってきて、護はカーペットのコーヒーをできるだけ拭き取り始めた。
声もかけずに、その光景を健が見ている。
視線を感じないのか、あえて無視をしているのか。
一通りの汚れを落としたあと、彼はタオルをテーブルに置いて、健の対面に座り直した。
すでに、表情はなくなっていた。
「マモル、朝になったら、部屋を変わろうか?」
意味を考えるかのように健を見据えて、護が声を抑える。
「それは……あなたの命令か?」
「そんな大袈裟なものじゃないよ。ただ、おまえのことを考えれば……」
「迷惑だ」
思いがけなくきっぱりと言われ、健は口をつぐんだ。
微かなため息とともに、護が背もたれに寄りかかる。
「オレのためという言葉が、どれほど迷惑なことなのか、理解していない。それが、あなたの命令だというのならば、従いもするが、そうでないのなら二度と、……誰かのためという言葉は使わないでもらいたい。その思いがあなたの中にある限り、メンバーは誰も、あなたを信じない」
「どうして……そうなるんだ……」
微動もしない、心の底まで見透かすような瞳に耐えきれず、健はライトを見上げた。
今日一日のことだ。
たったそれだけしか経っていないのに、今まで感じたことのない憤りが心の中に溜まっている。
怒ってはいけない。
年上だから不満を出してはならないと教えられていたのに、我慢しようとすればするほど胸が痛んだ。
「オレに……」
やがて、抑えきれずに言葉がこぼれた。
「機械のように……なれと、いうのか? 最後の決定を下すだけの……それが、おまえたちの望む、リーダーの形だと、いうのか?」
「……」
ライトから、徐々に目線が下に向かう。
壁から窓へ、そして護の、瞳へ。
「オレに、感情を持つなと……」
「ちがう」
「どう、違うというんだ。オレの役目は、リーダーとしての、最後の決定だといったのは……」
「リーダーの役目はそれしかない。……あなたは勘違いをしている。重要なのは、あなたの役目であって、リーダーの仕事ではない」
ここまで言ってしまっていいのだろうか。
一瞬、そういう思いが掠めた。
話をすることに長けているわけではない。
むしろ、誰とも口を利きたくはない。
それが、どうしても口調を解説調にしてしまう。
感情を込められない会話で、相手に伝わるとは思えないのだ。
しかし健は、真剣に聞き入っている。
訝しげに、詳細を求めるように座り直して、こちらを促している。
ならば、続けるしかない。
実が、健になにを求めているのかはわからなくとも、何をしようとしているかは知っているのだから。
「少なくとも、リーダーに期待することなど、ひとつもない。メンバーの個性をまとめて、何の意味がある? 彼らにも意思や感情がある。それを統一する必要はない。名前ばかりのリーダーに依存するほど、生ぬるい訓練をしてきたつもりもない。まとめようと思い悩んでいるリーダーに、誰が好き好んでついていくものか。だが……」
見据える、真っ直ぐな焦げ茶の瞳には、少なくとも真剣に諭そうという意思が見えるような気がする。
「あなた個人には責任が生じる。リーダーという肩書きを取ってしまえば、あなたもメンバーの一人でしかない。ノーセレクトの一人という位置で、あなたは安易に他人を詮索している。リーダーという、つまらない言葉でメンバーを縛り付けようとしている。……あなたの責任は、他人を知ることではない。リーダーの役目でもない。メンバーのなかで、最年長の経験を踏まえ、感じること、メンバーを覚えることが、あなたの役目だ」
「感じる……覚える……?」
「リーダーという立場は、そのあとについてくる。あなたの経験が、判断となって、リーダーの決断に繋がる」
返事をすることも忘れ、健は目を伏せた。
護の言葉を心に染み渡らせるように、ゆっくりと反芻する。
しばらくの沈黙を破ったのは、護だった。
「あなたには、誰かのためという思いは必要がない。受けとる側には迷惑なことだ」
「……なぜ……だ?」
「あなたは見方を誤っている。誰かのため、それは、差別だ。あなたが理解しなければならないのは、公平な立場を維持することではないか。あなた自身も含めて、すべてを公平にみることだ」
公平な立場━━この一言に健は反応した。
前にもどこかで聞いた。
無意識にソファに乗り上げ、足を伸ばして肘掛けに乗せて背もたれに肘を引っ掛ける。
“……どこでだ?”
そこに護がいることも忘れ、じっと一点を見据える。
同じような状況だったから、思い出したのは確かだ。
だとしたら、レイラーの言葉だったか?
いや、彼がそこまで具体的な言い方はしない。
もっと、噛み砕いて話してくれる人物……。
“キッシュが……言ったのか?”
若い頃は刑事だったという、酒飲み相手の、じつの祖父……。
金髪で青い瞳の、アメリカ人にも似たおおらかな、イギリス人。
“そうか……同じ立場とか言っていたな”
健が本格的に酒の相手をするようになると、キッシュの家族は邪魔をしようとはしなかった。
常に二人で、話すことといえば老人の昔話ばかりだった。
自分の部下の話、そしてメインは部下ともども、かけがえのない友人たちの話だ。
たしか、その友人の一人とキッシュが同じような立場にいたという話だったはず。
『そいつは、俺が同情するほど情けない奴だったよ。……でもな、それは見かけだけさ。下の奴等にすれば、遠慮なくストレスを発散できる相手が必要だったんだ。俺も、奴も、全体を公平に見る立場にいた。自分を抑えても、彼らという存在をすべて、把握するしかない。その上で包み込んでいたんだ。……哲郎君が、おまえさんに教えているのは、そういうことさ。あいつはな、友人仲間の中で、リーダーでもあったが、それ以前に、一番年上だった。おまえさんと同じだよ。いずれはノーセレクトの年長者になる。その責任だけは、最期まで付きまとうぞ』
リーダーも、刑事であった彼の、部下を持つ責任という立場も、いくらでも替えはきくものだとキッシュは言っていた。
それこそ判断力が秀でていれば、なにも年上でなければならないわけではない。
しかし、年長ということだけは代えられない。
たとえ一年しか違わなくても年が上だというのなら、その事実だけは自覚しろ……そうも言っていた。
実際、キッシュの部下の一人は、彼とはひとつしか年が違わなかったらしい。
子供の一年は大きな差がある。
だが、一人前の大人にはそんな違いは意味がないと反論した健に、彼は意味ありげに笑っていた。
『そりゃ、一概には断言できねえわな。だが、おまえさん、自分のこととして考えてみろ。たかが一日だろうと、年下の奴に自分を任せて、情けなくないか? それはな、甘えという逃避なんだよ。あいつは、決して逃げなかった。自分を抑えて……いや、そうじゃないな。年下の仲間を公平に見て、包み込んで、それでもまだ、包容力には限界がなかったのさ。リーダーっていう立場の前では、それほど大した奴じゃなかったかもしれない。だが、年長者の責任は、あいつにとって、一番大事であり、全うできるほど立派だったよ』
キッシュがなぜ、そういう話をしたのか……それは、まさに健がノーセレクトの年長者になることを知っていたからだ。
彼は、常にその友人たちの話を引き合いに、健に責任というものを教えてくれていた。
“たとえ一日でも……か……”
健と実の間には、二つの年の差がある。
同じ訓練、教育……統率力はどうだろう? 仮に、ここにいる護がリーダーだったら?
健は横目で護を盗み見た。
判断力にかけては問題はない。
しかし、キッシュが言っていたストレスをぶつけ得る相手になるか?
実の場合は?
仕事の割り振りをしてくれた隆宏はどうか?
リーダーの役割と、年上の役目は別だ。……確かに。
しかし、やはり引っ掛かるのは、考えることを許さないという彼らの態度だ。
実も護も、レイラーや、キッシュまでも同じことを言っていた。
つまり、それが世間では当たり前のことといえないか?
ならば、素直に従うべきだ。
それはわかる。
理解できないのは、自分にそれが可能かどうかだ。
レイラーの元ではできなかったことが、仲間に会ったからといって急にできるとも思えない。
完全に、腕枕で考え込んでしまった健を見て、護は静かに席をたった。
少しだけ明るくなり始めた窓の外を振り返り、そちらに近づくとカーテン越しに窓を開けて外に出た。
メンバーの立場から彼らの『こと』を考えるのと、自分を基準にしてメンバーを考える『こと』では意味が違う。
この違いを理解すれば、彼の悩みはずっと少なくなるだろう。
今、邪魔をするわけにはいかない。
護は、庭から二階を見上げた。
建物の左端に見える窓の中に……。
“ミノル……”




