ヨコハマ 5
隆宏が言った。そして、反論が返る前に続ける。
「あの時、キャップはダイヤルの説明をしていたよね。オレ、隣にいたから見ていたんだけれど、彼、真ん中に設置してあったものを、最小限に切り替えていたんだよ」
「設定を間違えただけじゃないか?」
「それはなかった。ラージとスモールの印字を確かめていたからね」
今度こそ、高志は黙りこむしかなかった。
絵里が、今度は背後を振り返る。
「マモル、どう?」
窓に寄りかかっていた彼は、呼び掛けに、初めて気がついたように顔をあげた。
「キャップを庇ったとはいえ、あんたも被害者でしょう」
彼は、無言で自分の右手に目を落としたが、そのまま体の向きを変えると、寄りかかっていた窓を開けた。
「マモル」
と、もう一度呼び掛ける彼女を制して、健が口を開く。
「マモル、君……いや、おまえはケガのことを気にしていないね?」
無口だという護に、答えを促す質問はしないほうがいい。
そう思っての問いかけに、彼は背中を向けたまま頷いた。
ずっと表情すら乏しかった彼に、これ以上の問いかけも無駄だと思ったのか、絵里はその答えだけで諦め、夕子に向き直った。
ベッドから腰を上げ、彼女の手をとる。
「買い物に行きましょう、ユウコ。お昼、作ってくれるんでしょう?」
司令室でのことは、夕子にとって未だにショックだった。
なのに、絵里は彼女にだけは何も聞かない。
それどころか、話を終わらせてしまったのだ。
腕をとられたものの、彼女は青ざめて絵里を見上げる。
「しっかりしなさい。今は気持ちを切り替えてもらいたいわ」
「……エリ……」
「行くわよ」
直前まで健たちに向けていたような厳しさはなく、女性らしい微笑みが夕子に向いている。
夕子は、これも彼女なりの思いやりなのだと感じた。
ささやかに、安心を表情に浮かべ、夕子は健たちを振り返った。
「あの、みなさんの嫌いなものを聞いておきたいんです。お料理の材料を買う参考に……」
「そうだね。……マモル、おまえは?」
窓にいた彼は、やはりただ、首を振っただけだった。
こちらを見ようともせず、バルコニーに足を踏み出して下を覗き込んでいる。
健は、彼の代わりに言った。
「嫌いなものはなさそうだね」
「オレは辛いものはちょっと苦手だから。よろしく」
すかさず声をかけたのは高志だった。
まだわだかまりはあったが、それでも、彼女に対しては別だろう。
そのまま、絵里の横をすり抜けて廊下に出る。
「それから、オレ、結構食べるよ。覚えておいて。ケン、他の部屋を見てくるよ」
一度、一通りの部屋を見回って、立ち往生していたのがここなのだ。
この部屋が女性用だったというのは、ドレッサーもそうだが、クローゼットの中の服を見たからだ。
それなら他の部屋割りも決まっているということになる。
さっさと次のドアの向こうに入っていったあとに続いたのは隆宏だ。
彼も、ドアのところで絵里とすれ違いざまに言いにくそうに呟いた。
「オレは、……どろどろとしたものはダメなんだ」
「どろどろ……ですか?」
「お粥とか、おじや、リゾットとか、……そういうもの」
「それならわかります」
「病人食を連想するものは勘弁、というところ」
彼女に拝むように手を合わせて、彼もまた、高志の入った部屋に行った。
二人の会話を聞いていた健が、ふと、首をかしげる。
「パンも……ダメなのかな?」
「パンで、何かありましたか?」
どろどろとしたパンなど、夕子の知識にはなかった。
「あ、ほら、フレンチトースト。あれは牛乳付けのパンだろう?」
「……確かに、卵と砂糖を混ぜますけれど、でも、あれは焼くんですよ? パンはしっとりとしますが、どろどろにはなりません」
「そうなのか?」
ならば、あれはなんだったのだろう……。
健は、北海道にいたときのことを夕子に話した。
レイラー・哲郎は、家事のすべてをやっていたから、当然食事も彼の手作りだった。
そうは言っても、料理の勉強などをやっていたわけではない。
どちらかといえば、男の料理そのもので、本を見て作るということもほとんどなかった。
彼の記憶の料理は同じようなもの、特に焼き物や炒め物がほとんどだったのである。
『フレンチトースト』は、今でもハッキリといえる。
とうてい食べられるものではなかった、と。
確かに焼いてあった。トーストという言葉通りではあった。
しかし、牛乳につけただけのパンを軽くトーストしただけのものでは、焼き目がつくはずもなく、形を保っていられるものでもなかった。
健は、一口だけでやめてしまったのだという。
話を聞いていくうちに、笑いが込み上げる。
夕子も絵里も、最後には部屋に響くほどの声で笑っていた。
「なんか……やっぱり違うんだね……」
「ご、ごめんな……さい……。じゃ……お昼は……」
笑ったことに謝って、彼女は落ち着きながら続けた。
「お昼はフレンチトーストにしますね。シナモンは平気ですか?」
「シナモン? なんだかわからないけれど、大丈夫だと思うよ。オレが嫌いなのは豆腐だけだから」
これはこれで意外な言葉だった。
「あれだけはどうしてもダメなんだよ。匂いで具合が悪くなる」
「わかりました。……あとは……ミノルですが……」
嫌うのではなく、恐れているのだとわかる語尾の曖昧さだった。
「彼には嫌いなものはないよ」
これは、資料に記載がなかったための断言だ。
その点でいえば、あの資料は一応、役に立ったということになる。
実際、高志の苦手なものも、隆宏のものも記載してあった。
ただ健は、リゾットとか、おじやという料理名を知らないだけなのだ。
二人が出ていったあと、健は、相変わらず外を見ている護の傍に寄った。
「何を見ているんだ?」
護の視線が、庭に向いている。
健も覗き込むと、そこには足を投げ出して、芝生に座っている実の姿があった。
強い日差しの中で、どこを見ているでもなくぼんやりとしている。
もっとも、頭しか見えないが。
しかし、すぐにその頭が動いた。
家のほうに向いた動きと、すぐあとから絵里と夕子の姿が見えた。
「買い物に行ってくるわ」
という絵里に、顔を逸らし、手をあげた実の返事はなかった。
二人の姿が、坂の下に向かうのを見送って、健がポツリと呟いた。
「女性の観察はすごいね」
護の顔が、ほんの僅かに健に向く。
「オレには判断できなかったよ。嫌われようとしていたとはね」
司令室にいたときからメンバーと離れていて、誰も近づけようとしなかった上に、電車の中でも不機嫌だった実を見ていてさえ、健にはその理由の見当すらつかなかった。
絵里に言われて、言動の一つ一つが当てはまると実感したほどだ。
ただ、ハッキリと実が言っていたように、自分から離れるきっかけを他人に任せているだけだと思っていたのだ。
それにしても、彼女が特別鋭いわけではないだろうが、やはり自分がメンバーを把握できないことが不甲斐ない。
苦笑交じりにふと、護に視線を向けたが、意外にも彼はいつの間にか、健を見つめていたのだ。
「……どうか、した?」
護は、問いかけにゆっくり首を振ると、息をついた。
「信じたのか……」
表情にはなんの変化もなかったし、声の抑揚もなかったが、何故か健には、彼が呆れているように見えて、首をかしげた。
「違うのか? もしかして……また意味を履き違えたかな」
実に二度も指摘されたから、なるべく話はきちんと聞いていたつもりだったのだが。
護は、もう一度庭を見下ろしたが、部屋にはいると窓を閉めて、改めて健に向き直った。
「彼女の言葉は、こちらがわの見方でしかない。履き違えたというのならば、その点ではないのか? 嫌われようとしている理由をしらないのならば、安易に彼を断定していいものではない」
「確かに……そうだけれど……。それならおまえは別の意味に受け取れるか?」
「……? おまえ……?」
わからないほど小さな聞き返しがあって、健は思わず、
「あ、ごめん」
と、謝った。
どうも、護は読み取りにくい。
無表情な上に、顔色も変えないし、声にも感情が籠っていないのだ。
かといって、まったくの無口でもないようで、答えが返ってくる。
その上での、最後の呟きだ。
あるいは、馴れ馴れしい呼び掛けが気に入らなかったのだろう、と判断するしかなかったが、護は、目線を逸らすと更に言った。
「さっきも……そう呼び掛けたようだが……」
「やめたほうがいいか? ミノルに指摘されたから変えたんだけれど……」
「ミノルが?」
目を伏せて、護の口元だけが動いた。
『そうか』
と。
そして、改めて、顔をあげた。
「それならば、構わない」
「それならば? ……つまり、ミノルが言ったから構わないということ?」
そうとしか受け取れない言葉だったものの、今度の答えはなかった。
「……見方を一つに絞ってはダメだ」
しばらくして護は呟くと、もう、健の存在を忘れたかのように外に目を向けた。
実の頭が、閉めた窓越しに、辛うじて見える。
朝、司令室で会ったときから護は実を見ていなかったか?
それほどまでに注意を向ける何が、実にあるのだろう。
しかし、それを聞く雰囲気はなかった。
健は、深入りをするなという司令の言葉を思い出しながら、ため息交じりに言った。
「マモル、おまえもタカヒロたちを手伝ってきてくれないか」
部屋の片付けすらできないことを自覚している健は、護が次の部屋に入ったのを見届けて、下に降りるとキッチンに入った。
せめて飲み物くらいは用意しようと考えたのだが、どこに何があるのかがわからない。
仕方なく、勝手口を開けた。
「ミノル、コーヒーの入れ方を知っていたら教えてほしいんだけれど」
実は、返事の代わりに立ち上がると、直接キッチンに入ってきた。
「コーヒーでいいんだな?」
と、いいながら、一通り中を見回す。
健もそれにならって辺りを見渡したが、やがて、実が棚からコーヒーメーカーを取り出すのを見て彼に近づいた。
「これは、何?」
他の棚から、コーヒー豆とミルを見つけた実が、不審そうに顔をあげる。
「コーヒーをいれるんだろう?」
「……これで入れるのか?」
「コーヒーメーカーを知らないのか?」
「家で見たことはあるけれど……。使い方は知らないんだ。教えてくれる?」
実は、煩そうにメーカーの隣にミルと豆を置いた。それから、わざわざリビングに続くドアを開ける。
「向こうに行っていろ」
「いや、やり方を知りたいんだ。これくらい出来ないと……」
「教えるほどのことじゃない。おまえは何もするな。邪魔だ」
どうもいちいち引っ掛かる言い方をする。
さすがの健も、いい気持ちはしない。
「おまえ、もう少し……」
「ケン!」
乱暴な足音と共に、声が隣のリビングから聞こえた。
続けて、開いていたこちらへのドアから高志が顔を覗かせる。
「なんだ、こっちにいたの」
「終わった?」
「終わるわけがないだろう? まだ動かしてもいないよ。ねえ、ケン、あの部屋割り、絶対に変だよ」
変則的なのはわかっていたはずだ。
最初の仕事内容とともに、移動先では、普通の家が拠点として提供されることを説明されていた。
絵里たちが家の中に入る前に一通りの部屋を見回して、人数分のベッドが、四つの部屋に設置してあったが、一番広い部屋には一つだけしか置いていなかった。
そこには、ベッドと、机が一組だけだったのだ。
だから隆宏は、ここが健の部屋なのだろうと言っていた。
健は、一人というのも気が引けるということで、適当にベッドを移動しようと話し合っていたときに絵里に呼ばれて、それきりになっていたのである。
「おまえたちで適当に動かしていいといったはずだよ」
「それならまず、キャップに許可をとってよ。とにかく見てほしいんだ」
たかが部屋のことでなぜ、司令の許可が必要なのか、実と健は、自然に顔を見合わせたものの、急かす高志のあとについて二階に上がっていった。
奥の部屋のクローゼットが開け放してある。
たったひとつのベッドには隆宏が座り、護はバルコニーに出て外を見ていた。
冷房をつけたばかりなのか、まだ、中は涼しいとはいえなかった。
二人を連れてきた高志が、クローゼットを指差す。
「これ、マモルの服だよ」
覗き込むと、なるほど、長袖の衣類が何枚か、ハンガーにかけてあった。
「ケン、オレ、考えたんだけれど……」
と、隆宏があとを継ぐ。
「こうしたセッティングは本部スタッフの仕事だろう? でも、適当なことはしないはずだよね。キャップの指示としか考えられないよ。全部を見て回ったけれど、君とミノルが同室だ。タカシとオレでひとつ。……さっきも言ったとおり、リーダーである君が別格ならわかるよ。別に、反対する理由もないし、君の言うとおり、ベッドをこっちに運ぼうと思ったんだ。でも……これじゃ……」
そういいながら、彼はクローゼットを振り返った。
「マモルを別にする理由があるとしか言えないよ。キャップのセッティングだとしたら、勝手に動かしていいのかどうか。……それに……」
更に、隆宏は護を盗み見て、彼が外を見ている後ろ姿になお遠慮するように声を潜めた。
「本人が困っているんだ」
「そう言ったのか?」
「いや。……他の部屋に彼の私物がないとわかったときに聞いてみたんだけれどね」
どうやら、隆宏も高志も、ハッキリと尋ねたらしい。
特別な扱いをされる理由があるのか、と。
純粋な疑問だったようだが、護にとっては悪意的な意味に聞こえても仕方がなかったかもしれない。
何も言わず、しかしゆっくりと首を振ったのだという。
それきりだったが、隆宏は彼の中に、ほんの僅かな表情が見えた気がしたらしい。
つまり、剣崎司令がそういう配慮をした理由は知っているが、まさか、そこまでするとは思っていなかった、と感じたのだ。
確かに、そうなると、勝手に判断するわけにもいかない。
リーダーである健を呼んだのも、当然か。
健は、相変わらず外を見ている護と、クローゼットを交互に眺めて、やがて決心したように頷いた。
「困っているのなら、動かしてしまってもいいよ。おまえたちがここに移ってもいいし、ミノルとオレの分を動かしてもいい。どちらの部屋も狭かったからね。誰かを一人にするよりは、ここに三つを運んだほうがいいと思うよ。キャップにはオレから言っておくから」
恐らく二人とも、ほとんど喋らない護や、嫌っている実と同室にはなりたがらないだろうと予想して言った。
案の定、高志の目配せで、隆宏が軽く膝を叩いて腰をあげた。
「君たちのを運ぶよ。ミノルも、それでいい?」
先程から、興味もなく部屋を見渡していた実は、あからさまにため息をつくと背を向けた。
「決めるのはリーダーだろう? こいつがいいと言ったのなら、オレに確認を求めるな。くだらない」
と、足早に出ていってしまった。
もちろん、高志が不満をぶつけるのも当然だったろう。
「本当に……どうしてあんな言い方しかできないんだろう。我慢しろというほうが無茶だよ」
隆宏は、微妙に同意しながらも、苦笑交じりに言った。
「いい意味に取らなきゃ。とにかく、運んでしまおうよ」
三人が部屋を出ていくのを見送って、健は、この部屋の壁に掛けてある電話に手を伸ばした。
この電話も、他の部屋には置いていない。
あとは、玄関にあるだけだ。
受話器を取り上げて、しかしふと何かを思い出し元に戻すと、ベッドの足元に膝をついた。
ベッドにキャスターがついていた。
と、すると、これを運ぶのにさほどの苦労はないだろう。
ここで司令室に連絡をとるのはまずいかもしれない。
彼は、一階に降りると、玄関の電話を取り上げた。
教えられたナンバーは二つだけだ。
本部受付と、司令室直通のもので、躊躇いなく、司令室の番号を押す。
『はい、司令室』
短いコールのあとで聞こえた声に、健は、キッチンのドアが閉まっていることを目で確認して声を潜めた。
「ケンです」
『ああ、着いたようだね』
「ええ。三十分ほど前に。少し……もめていたんです」
果たして、司令はその『もめごと』を予想していただろうか。
一呼吸おいて、向こうの声が聞こえた。
『何があったのだね?』
「部屋のことと言えば、理由は理解できますか? 事後承諾ですが、マモルは、ミノルとオレと同室にしますよ」
それをどう捉えたか、答えには間があった。
『君が決めたのかな?』
「はい。マモルには納得ができなかったようです。ですから、彼の意思を優先します。もし、あなたのほうで都合が悪いというのなら、その理由を教えてください。マモルを説得しますから」
隆宏が言ったとおり、護に問題があるということは健にも想像できるのだ。
彼を一人にさせなければならないのか、させたほうがいいのかの判断はつかないものの、当人である護よりも司令だけが敏感に反応しているように思える。
だから、司令の指示を優先するのならば、あとで問題になるよりも今、理由を聞いておきたかった。
剣崎司令はしばらく黙っていたが、
『わかった。君たちの思う通りにしなさい』
と、やはり理由を口にすることはなかった。
一体、護に何があったというのか……。
初日に聞いた言葉━━深入りをするな━━それが頭から離れない。
健は、諦めるしかなかった。
「本格的な行動は明日からになるかもしれません。毎日の報告は必要ですか?」
『それも、君の意思で決めなさい。実働する君たちに指図するものは誰もいないよ』
「わかりました」
あとは話すこともなかったから、彼はそのまま受話器を置いた。
実がいるキッチンに入る。
彼は、テーブルに肘をついてコーヒーメーカーを眺めていた。
「いい香りだね」
「豆から挽いたからな。当然だ」
顔を向けようともしない。
健は、
「そういうものなんだ」
と、妙に関心しながら対面に座ろうとしたが、実は彼を、手招きで呼んだ。
「何?」
「ここに座ってくれ」
指定されたのは、彼の隣だった。
素直に従った健が腰を下ろした途端、実がもたれ掛かってきた。
「な、何?」
「クッション代わりだ。動くな」
この体制だと、メーカーに背を向けることになるが、となると、見張っていなければならないものではないということか。
“暑いんだよなぁ……”
ようやく効きはじめている冷房も、こうくっつかれてはさほど感じない。
元々、健は暑さには強くないのだ。
夏の盛りでもほとんど汗をかかないので、熱が篭ってしまうのである。
が、実にとっては、そんな健の体質など知らないし、関係のないことのようだ。
━━我慢するしかない。
「そうさ。少しくらい我慢しろよ」
唐突に、心の中を言い当てられ、健は飛び上がるほど驚いた。
「ミッ、ミノル、おまえ……」
肩口から健を見上げて、実は眉を寄せた。
「やっぱり、オレだけ、か……」
「おまえだけ? 超能力でもあるのか?」
「超能力? 何のことだ?」
「何のことって……。おまえはオレの考えていたことを言い当てたんだよ? そのことを言ったんじゃないのか? おまえだけのことだと……」
「それで超能力か? バカバカしい」
鼻で笑われてしまった。
背中で、コーヒーの香りとともに、液が落ちる小さな音がしている。
それが少しずつ聞こえなくなる頃まで実は動こうとしなかったが、頃合いはわかっていたらしく、やがて体を起こすと席をたった。
カップはすでに用意してあった。
健が見ているなか、ポットのコーヒーを注ぎ分ける。
それから、冷蔵庫に入れてあったミルクと、食器棚からスティックシュガーを取り出してトレイに並べる。
すでに、キッチンのどこに何があるのかを把握しているらしく、無駄のない作業だ。
「リビングに持っていくぞ」
先に立った実に、せめてドアくらいは開けるつもりでテーブルを回り込んだ健だが、結局、器用に片手でトレイを支え、さっさとドアを開けてリビングに行ってしまった彼のあとについていく形になってしまった。
リビングのテーブルにトレイを置く。
健が座るのを確認して、カップを一つ、前に置いた。
「このままか?」
「いや……」
ピッチャーに手を伸ばしかけて、叩かれた。
「え?」
「何か入れるのかを聞いたんだ」
「……ミルク……」
どうも、迫力で負ける。
実は、ミルクを健のカップに注ぐと彼の前に回り込んで、上にのし掛かるように片膝をソファに乗せた。
背もたれに両手をついて、顔を近づける。
「あ、あの……」
キスをしかねないほどの距離に、健が顔を背けた。その耳元に、声が響く。
「目を閉じろ」
「何を……するつもりだ?」
「言うことを聞くんじゃなかったのか?」
そう言われても……。
相当の躊躇いのあと、仕方なく、健は目を閉じた。
「呼吸を楽に、少し深めに……。なにもしない。……心を静めるんだ」
「……」
かなりの間、実は何も言わなかった。
健の様子をじっと伺っていただけだ。
やがて、頃合いを見て、実がまた、囁いた。
「呼吸を鼓動に合わせて……。深く……意識を底に沈めていくんだ」
声を抑えているからだろうか。実の言葉が心地よく響く。
他には何の音も聞こえない。
漂っているのは、コーヒーの香りだけだ。
体の力も抜けていく。
しばらくして、健の首が静かに傾いていくのを確認した実は、音もなく彼から離れ、そのまま、リビングを出ていった。




