ナンバリング・19
申し合わせたように降りてきた隆宏たちが見たのは、志乃の後ろ姿だった。
テーブルに左手をのせて伏している彼に、三人は、二日続きの早起きが珍しいと笑おうとして、夕子に止められた。
口許だけで、彼らに挨拶をして、声もなく手招きをする。
キッチンの椅子に腰を下ろした彼らの前に、コーヒーを差し出して、声を潜めた。
「彼、ケガをしています」
「どうしたわけ?」
高志もまた、一度彼を振り返って、小声で聞いた。
「私にはよくわからないの。でも、多分……ケンを怒らせたんだと思います。今、少し落ち着いて寝ているんです。さっきまで……泣いていたの」
「ケンが……怒った?」
そんなことくらいで泣くのか?
そう思ったのは当然だった。
怒ったところで迫力は到底、実に敵わない。むしろ、情けない愚痴としか聞こえない。
それほど、健と『怒り』というもののイメージがかけ離れている。
「何かの間違いじゃない?」
絵里も、クスッと笑った。
しかし、夕子は真剣な顔をしたままだ。
「でも……ケンのことを人間じゃないとか……言っていました。何もない……って」
「どういうこと?」
「わかりません。けれど、嘘ではないと思うんです。私……キャップからもそれらしい話を聞いたことがあって」
彼女は、先程思い出した、司令の言葉を彼らに伝えた。
「決して怒らせるな? って? ……それって、つまり楠木さんは、ケンのそういうところを知っているということか?」
「だと思います。タカシ。それで……お食事ができているんですけれど、ケンに声をかけるのがちょっと……怖くて……」
「なんだよ、君まで。……いいよ、じゃ、オレが呼んでくる」
親切心、というより、二人の話を聞いた上での好奇心も露に、腰を上げかけた彼を、隆宏が抑えた。
「オレが行くよ。君はダメ」
「どうしてさ」
「よく考えてごらんよ。もし、彼女たちのいうことが本当なら、好奇心むき出しの君じゃ、対処できないだろう?」
もちろん、隆宏は、彼らの話を信じていないわけではない。
しかし、やはり大袈裟な話だという気持ちがどこかにあった。そのため、自分のほうが、冷静に健に向き合える自信があったのだ。
隆宏は、つまらなそうにそっぽを向いた高志の代わりに席をたつと、健のいる部屋に向かった。
「ケン? 食事ができているんだけれど……食べる?」
軽いノックに、返事はなかった。
その代わり、ドアが細目に開いた。
「……タカヒロ……」
幾分、元気のない健が、廊下を伺うように見回す。
「みんな……起きたの?」
「だから呼びに来たんじゃない。どうするの? 食べる?」
やはり、彼女たちの、大袈裟な言い回しだったようだ。
僅かだが、緊張していた隆宏が、無意識のため息混じりに言う。
健は、部屋の中を気にしながら、口を開いた。
「先に食べていてくれないか?」
「マモルにも声をかけるけれど、ミノルを一人にしても大丈夫かな?」
「寝ているみたいだから、構わないよ」
「あ、そう。わかった」
「タ、タカヒロ……」
「なに?」
どうも、様子がおかしい。
しきりに階下と、部屋の中を気にしている。
と、思う間もなく、いきなり部屋に引きずり込まれてしまった。
「ちょ……っと。オレがここに入ったらミノルに怒られるよ」
「頼むよ……」
言いながら、健は自分の左手を差し出した。
「下にも行けなくて困っていたんだ。手を洗うこともできなくて……」
見ると、彼の左手は、こびりついた血液で黒くなっていた。
擦った跡がある。
ハッとして、思わず顔を覗きこんだ。
本当だったのか……。
「これ……」
「まさか、ミノルの薬品棚を勝手にかき回す訳にもいかないから……」
「シノを怒ったってきいたけれど?」
そう言われて健は、困惑しながら俯いた。
「彼の……ほうが怒っていなかった?」
「どうして! 逆だよ! 君、どれだけ彼を怖がらせたか、わかっていないの?」
「え?」
いつものこととはいえ、どうしてこうまで間が抜けているんだ。
怒ったのは健のほうだったはずだ。
なぜ、志乃の伺いをたてるのか、理解ができない。
隆宏は、そんな彼に苛立ちながら、
「まったく……気が知れないよ。待っていて。タオルを持ってくるから」
そういうと、さっさと部屋を出ていってしまった。
戻ってきた彼の手には、濡らしたタオルがあった。
強引に健の腕を引いて、拭き始める。
「ゴメン……」
「いいよ、いちいち謝らなくても。……でも、聞かせてくれないか? 彼を怖がらせるほど怒っていたのか?」
改めて聞かれて、健はキョトンと、首をかしげた。
「わらかないな。あれくらいでは迫力もなかったはずだけれど」
「でも、異常だよ。ユウコまで怯えているんだよ。どうやったら彼らをそれだけ怖がらせられるんだ?」
どうやら、自覚がないらしい。ますます、表情が困惑に変わっていく。
「そう……聞かれてもなあ。……もしかしたら、ケガをさせたからかな?」
「あのね、彼がケガをしたくらいで怖がると思う? 第一、人間じゃないとか言っていたらしいんだよ。どういう意味?」
「……え……そこまで……?」
どうやら思い当たったようだ。
気まずそうに、窓のほうに顔を向けてしまった。
「そう……見えたのか……」
「なんか、その言い方だと前歴がありそうだね」
「……一度、だけ……」
「何をしたの?」
「えっと……その……」
言いあぐねているうちに、彼の左手の血液は、すっかり拭き取られてきれいになった。
改めて、隆宏が覗き込む。
「何を、したの?」
「……どう……言えばいいか……。結果的に……発狂死……させた? ……というか……」
「だっ、誰をっ?」
「一応……犯罪者……」
まるで、尋問のようだ。自供させられているような気分で、健は気まずく隆宏に向き直った。
「その……覚えていないんだ。レイラーに聞くまで、何をしたのか……記憶がなかった。未だに……」
「いっ、いいよ。もう聞きたくない」
詳細を聞くのが怖い、というのが本音だった。
剣崎司令が、レイラー・楠木哲郎から聞いた話は本当だったのだ。
そして、それを目の当たりにしたから、志乃はあれほど怯えた……。
汚れたタオルを畳みなおして、隆宏は腰を上げた。
「それにしても……そこまで君が怒るとは……」
「初めてというわけではないだろう? それに……」
「それに?」
部屋に入ったついでにカーテンを開けようとして、ベッドの足元に、大量のティッシュの残骸を見つけた隆宏は、途中で言葉を止めた健を振り返って聞き返した。
相変わらず気まずそうに髪をかき揚げた健は、それでも、自分で納得できなかったのか、首をかしげる。
「あの程度ではやっぱり迫力がなかったかなって、思っていたから……」
「ああ……それで、か」
健には、どれほど志乃を怖がらせたのか、本当に理解ができていないのだ。だから、逆に反撃されると思っていたのだろう。
……ということは……。
本当に、本気で怒ったときの健は……
想像できないながらも、隆宏は急に恐ろしくなって顔を逸らし、ティッシュを広い集めて、ゴミ箱に捨てた。
どうやら、健は、手についた血液を、ずっと懸命に拭き取っていたらしい。
あらかた拾い捨てたところで、隆宏のブレスレットが鳴った。
『ユウコ』の表示に、何事かと耳に当てる。
「どうしたの?」
『早く来てください。シノを起こしたら……暴れ始めたの。私たちを怖がっていて……。タカシとエリだけでは抑えきれないんです』
「わかった」
そこまでひどい状態なのか。
思わず、健を見下ろす。
発狂死、という言葉を思い出した。
「君はここにいてくれ。どうも、顔を見せないほうがいいみたいだ」
これは、護にも手伝ってもらわなければダメだろう。
急いで飛び出した隆宏は、強引に護を呼び出して、下に降りた。
高志たちが、志乃に突き飛ばされながらも、必死にしがみついている。
階段を降りる二人の足音に、夕子が駆け寄った。
「夢を見ていたらしくて……」
見ると、テーブルもソファも、あらぬ方向に動いている上に、倒れていた。
その状況に、なにも知らないはずの護が動いた。
しがみついて止めようとしている高志と絵里をそのままに、彼は、志乃の肩を掴むと、思いきりその頬を叩いた。
「落ち着け」
衝撃と、静かな護の声で、一瞬、志乃の動きが止まる。
目の焦点が、力なく護を捉えた。
「大丈夫だ」
誰が何を言っているのかを理解できたかどうか、志乃がその場に崩れる。
「ご、ごめん……。ゆ、夢を見……アレが……怖くて……」
高志と絵里が、ホッとして離れた。
それに合わせて、夕子が逆に近づく。
「い、いいですか?」
彼女は、高志たちに確認をとってから、座り込んだ志乃の頭を優しく抱えた。
「ごめんなさい。やっぱり、傍にいるべきでしたね」
「ユ……ユウコ……」
「もう、大丈夫ですよ。あの人は怒っていませんから」
「で、でも……」
「大丈夫」
子供に言い聞かせるように、志乃の髪を撫でながら繰り返す。
高志たちは、そっと、その場から離れた。
階段のところで立ち止まっていた隆宏に近づきやっと、息をなでおろす。
「疲れたぁ。……あいつの腕力、相当なものだな」
見ると、高志の服が破れていた。
「それは彼がやったの?」
どうやら、夢中で抑えようとしていたときのものらしく、隆宏が指をさしたところを、高志が渋い顔で見下ろした。
「この服、結構気に入っていたのになぁ。……着替え直さなきゃ。それにしても……あれは異常だよ」
「仕事、どうするのよ。タカヒロ。あれではケンの付き添いなんて無理じゃない?」
絵里にとっては、志乃の夢よりも、現実のほうが問題らしい。
隆宏も唸ってしまった。
「……仕方がないな。この状態じゃ、パーティーの準備なんてやっていられないし。……中止するしかないね。君とタカシで女性のほうを任せるよ。ケンにはオレが……」
二階から、足音が降りてきた。
「ケ、ケン、来るなって……」
咄嗟に止めようと、段に足をかけた隆宏を仕草で抑えて、健は志乃に向いた。
「シノ、着替えて」
その声に、夕子に抱えられていた志乃が、思いきり震え上がった。
振り返ることすらできずに、彼女にしがみつく。
「シノ」
「ケン、もう少し待って……」
「黙って、ユウコ。……シノ」
いつもと変わらない、優しい声だった。
だからこそ、彼女も口をつぐみ、しがみついている志乃に囁いた。
「シノ、行ってください」
「や、やだよ……」
「信じて。お願い。私、待っていますから。ね?」
今の志乃にとって、夕子の存在は、他のメンバーの誰よりも、拠り所になっていたようだ。子供のように怯えた目を彼女に向けたが、彼女ももう一度、彼を抱きかかえ、同じことを繰り返したことで、震えながらもゆっくりと離れると、力なく立ち上がった。
健が、階段を上がっていく。
隆宏たちの間を抜けて、ともすれば腰が砕けそうな足取りで、志乃はあとについていった。
部屋に戻ると、健が、クローゼットの扉を開けた。
「着替えて。出掛けなければならないから」
とうとう、志乃が、その場に崩れこんでしまった。
「か、勘弁……してくれよ。……うご、けない、よ……」
そう訴えることができたのは、彼にも、健が元に戻っていることを感じ取れたからだ。
しかし、体の力が抜けてしまって、動かない。その上、いつまたあの『モノ』に変わるのかと思うと、こうしてひとつの部屋にいることすら怖くて仕方がない。
健は、困り果ててしまった。
同じノーセレクトなのに、やはりノーマルとして生きてきた彼には、健たちの思いは伝わらないのだろうか……と。
何か言いかけて、口を開いた健は、それだけでまた、体を震わせた志乃を目の当たりにして、あるいは、諦めなければならないことを、覚悟するしかなかった。
静かに彼に近づく。
ドアにへばりついて、逃げ腰になっている彼の前に膝をついて、健は、哀しそうに微笑んだ。
「すまなかったね。……もう……二度と怒らないよ。約束する。だから、……せめて今日だけでも……つきあってくれないか。そうしたら、君には近づかないから。……頼むよ」
それが、考えた末の結論だった。
個人的なことよりも、仕事を優先させなければならない今、とりあえず彼の協力は必要なのだ。
しかし、その後は……。
自分のわがままで、志乃を引き留めるわけにはいかない。
やはり、自分の責任だ。
目的があって、彼を受け入れたのだが、それももう、いい。
もし、このままメンバーから離れるとしても、引き留めるつもりはなかった。
「ケン……」
いつも通りの穏やかな声……。
いや、違う。
志乃が感じたのは、その中の罪悪感だった。
初めて、彼は、とんでもないことをしたのだと、思った。
『よく見れば、わかるよ』
健にとっては、怒りは存在してはいけないものだったのだ。
怒りを他人に向けたことを、こんなにも後悔している。
人間じゃないとか、『モノ』に見えたとか、そう感じた自分のほうが、情けない。
「ごめんなさい……ケン」
見れば、わかる。
はっきりと感じる、健の気持ちを思うと、涙がまた、出てきた。すぐに拭き取ったものの、声は小さかった。
「ミノルが……付き合ってくれたから、いい気になってたんだ。男に……そんな痕、つけられるの、普通は嫌だよな」
「わかって、いないね……」
「……?」
「仕方が……ないのか、それも。とにかく、今日だけは頼むよ」
志乃が動きやすいように離れ、健は窓際に移った。なるべく、彼を見ないようにと外を向いて、音だけを聞く。
よろめくように立ち上がり、開いていたクローゼットから服を出して着替える。
その音を聞きながら、健はカーテンに手をかけた。
“最後……だな”
どうしても、考えていたことが裏目に出る。
ノーマルの環境で育ったノーセレクトには、やはり、ギャップがありすぎたのかもしれない。
一緒にいられるはずが、なかったのかも、しれない……。
「ケン」
しばらくして、音がやんだ。着替え終わったらしい。
背を向けたまま、健が頷いた。
「食事……しておいで」
「あんたは?」
「オレはいいから」
隆宏たちと、顔を合わせづらい。一緒に食事をしたら、引き留めずにいられなくなる。
怖がらせた上に、自分勝手な頼みをすれば、聞くほうには脅迫としか思えないだろう。
健という存在を我慢しても、ここにいるというのなら止めはしないが、多分、無理な相談だ。
いちど、植え付けられた恐怖は消えない。
返事もせずに、志乃は部屋を出ていった。
気配を探るように、シンと静まり帰った雰囲気の階下に、姿を表す。
夕子が立ち上がった。
「シノ」
彼は、キッチンの、いつもの席に腰を下ろすと、近づいた彼女の手をとった。
「迷惑かけたな、ごめんよ」
顔色は悪かったが、先程よりはよほど、落ち着いていた。
「大丈夫ですか?」
「うん。……メシ……出してくれる? 食べたら出掛けるから」
全員が、えっ、と目を剥いた。
当然だ。
あれだけ怖がっていた相手に、まだ付き合うというのか。
「無理するなよ。シノ、オレが彼に同行するから」
それは、先程決めたことだ。
が、彼は、隆宏に対して、無理に笑って見せた。
「いいんだ。みっともないとこ見せたけど、もう、平気だから。……怖がってたら、あんたらと付き合えないじゃないか」
「タフだなぁ」
「そうでもないよ。気を抜いたら、体が震えてくるもん」
実際、地声が大きい彼にしては、遠慮をして喋っているという雰囲気がある。
虚勢、かもしれない。
夕子が、彼を気にしながらも料理を並べた。
ケガをしたのが利き腕だったために、箸ではなく、彼にだけはフォークを渡す。
「あ、ありがと」
そのフォークを、不器用そうに使う彼に、隆宏が言った。
「痛いんだろう?」
「……うん」
「やっぱり、オレが代わるよ。パーティーの準備にエリとユウコを空けただろう? それを中止すれば……」
「やってよ」
「……え? だって……」
「初めてなんだろ? 誕生日のパーティー、やったこと、なかったんだろ? 俺……」
多分、本当は羨ましかったんだ……。志乃は、心の中で呟いた。
仲間がいて、話をする。一緒に行動して、時にケンカをし、でも、信頼しているから毎日、いられる。
志乃には無縁だった関係だ。
いつも一人だったから、誰かと話しながら食事をすることにも憧れていた。
だからこそ、圭吾と年に二回、これ以上ない、というほど騒いだ。スナイパーという特殊な仕事をしていながら、彼との付き合いは、大事なものだった。
志乃は、気分を変えるように首を振った。
「ユウコの料理、食いたいよ。あんたのケーキを楽しみにしてるんだからさ、やろうよ」
ノーマルとは、こういう付き合いかたをするのか、と、妙に納得をした隆宏が、小さく、
「わかったよ」
と、言った。
「それじゃ、昨日のキャスティングどおりにしよう。いいね、みんな」
反対があるはずが、なかった。




