ナンバリング・18
まだ眠っている実を覗きこんで、音をさせないようにクローゼットを開けると、健は、着ていたシャツを脱いで、タートルネックのセーターに着替えた。
メンバーが一緒になってはじめての冬に、あまりにも寒さに無頓着な彼を見て、実が勝手に買い与えた服の一枚だ。
結局、一度も袖を通していなかった。そのため、首の辺りがきつく感じられたが、しばらくは仕方がない。
あとから入ってきた護は、リビングに薬箱を用意したと言った。
健がそれに頷き、クローゼットの下の引き出しから、スティックを取り出す。
それを見下ろして、やりきれない息をついた。
「できるのか? あなたに……」
志乃もまた、ノーセレクトであるというのなら、健に、相手を傷つけるという行為ができるとは思えない。
と、同時に、そうさせてしまう事態にまで追い込んだのが、まるで自分の責任であるかのように、護は心配そうに尋ねた。
健は、やはり迷っている。
そう、見える。
彼の声もまた、小さかった。
「わからない。……本気で……怒ってはいけないんだけれど……でも、やっぱり、こっちが本気で向かわなければ、彼もわかってはくれないよ、ね。……なるべく……」
できるだろうか……。
ケガだけで、自分を抑えることが……。
迷いを振りきるように、彼はドアに足を向けた。
「ミノルの傍にいてくれ」
ベッドで、相変わらずの姿で志乃が眠っている。
健と違って、寒さに弱いらしく、毛布に包まるような形だ。
自信の塊のような人懐こい笑顔に反して、時に子供のような反応をする。
気さくな性格は、敵であるにも関わらず、すぐにメンバーに打ち解けた。
先程の迷いが浮かぶ。
本当に、できるだろうか。
生半可な怒りでは、相手には自分の思いを伝えきれない。
だが、本気になれば、自己を失う。
深呼吸をして、彼は目を閉じた。
『心をフラットにしろ。その中の自分を意識するんだ。おまえは、そこにいる、と』
遥か昔に、レイラーが言った言葉を繰り返し、目を開けた。
静かにベッドにあがり、スティックのスイッチを入れる。
ナイフが、鈍い光と共に形を作ったのとは逆に、健の瞳からは、感情という光が消えた。
左手に持ち変えて、毛布の上から馬乗りになり、動けないように固定をして、呼び掛ける。
「シノ」
静かな声に、反応があった。
先程、寝ぼけながらも一度は起きたからだろう。
それに、息苦しさもあった。
ゆっくりと開いた目に、健の姿を見つけ、志乃は声をかけようと口を開いたまま、止まった。
首筋に、健の左手が動いたからだ。
今まで見たことがない、しなやかな動きと共に、首に微かな熱を感じる。
ナイフの、鈍い光が、志乃の動きを封じた。
「少しでも動けば……即座に殺す」
静かな、声。……いや、音?
言葉の意味とは逆に、殺意の欠片すらない表情が、志乃を見下ろしている。
その目は……
これは……なんだ? 自分の上に、何が乗っている?
健に似た、だが、違う?
「オレは、おまえに確認をしたはずだ。おまえの意思に、反対をした覚えもない。信頼を裏切れば、どういう目にあうのかを理解できなかったとは……言わせない」
“……おまえ……?”
今まで、ただの一度も、健は志乃に、そういう言い方をしたことがない。
それが、何を意味するかを考える間も与えず、健は、ナイフを、彼の右腕に突き刺した。
悲鳴が上がった。
それでも、健の表情は僅かも変わらない。
それだけではなかった。彼の瞳は……志乃という存在そのものを、映していないようだった。
虚ろな眼差しというわけでは、決してない。
人形……ロボット……機械、どのようなものにも例えられない、人間離れした瞳が、見下ろしている。
口許が動いた。
「オレは、怒らせるなと言ったはずだ。この腕を切り落とせば、その言葉を思い出すか? それとも、指の先から切り刻むか?」
「や……や、め……ろ」
痛みが頭に響く。だが、体が動かない。声が出ない。
いや、それ以前に、怖い。
何がどうなっているのかも理解出来ず、ただ、健の……健という形の、目の前の『モノ』の動きが怖い。
これは、誰なんだ? いや、何なのだ?
痛みと、わけのわからない恐怖感に、追い討ちをかけるように、声という『音』が響いた。
「オレは、おまえを信じた。だが、それを簡単に裏切るおまえには用はない。今、ここで破壊する」
まるで容赦のない力でナイフが引き抜かれた途端、志乃はまた、悲鳴を上げた。
同時に、毛布が赤く染まっていく。
それを感じる間もなく、苦痛に歪んだ志乃の目に映ったのは、逆に何も映していない健の、瞳の高さに上げられたナイフが振り下ろされるところだった。
「やめてくれぇっ!」
動けず、覚悟がないまま、反射的に固く目を閉じた彼が、腕の痛みに、まだ生きていると実感し、恐る恐る目を開けたのは、少し経ってからだった。
血液が滲み出ているのが、自分でわかる。
そして、目の前の健は……。
首筋でナイフを止めて、微動もしていなかった。
それは、さながら、ロボットのエネルギーが切れたような感じだ。
横から入り込む外の光が、ナイフの鈍い光に同化していた。
「な……何で……だよ……」
声が出たのは、さらに後だ。
ようやく、なぜ、自分がこんな目にあっているのかを問いかける。
健の右手が静かに上がり、セーターの襟を下げた。
そこに見えたのは、くっきりと浮かんだ、赤いアザだ。
「あ……」
「許すのは、一度限りだ。二度目はない。オレを見くびるな」
言うと同時に、ベッドから降りると、ケガをしている志乃の右腕を、毛布ごと引っ張りあげて、ベッドから引きずりだした。
そのまま、部屋の外まで引きずっていく。
「ユウコ!」
志乃をそこに残したまま、健は中に入るとドアを閉めた。
腕を抑え、蹲っている志乃の元に、すぐに夕子が駆け上がってきた。
「きゃっ……」
小さな悲鳴をあげながらも、しゃがみこんで、志乃に手を貸す。
「すぐに手当てをします。歩けますか?」
「ユ……」
「しっかり抑えていてください」
その代わり、彼女が志乃の体を支えて、なんとか立たせる。
半ば呆然としている彼を、階下まで連れていくのに骨がおれたものの、体格差がありすぎる彼女でもできたのは、やはり、思いがけない状況でも、すぐに冷静になれた、ノーセレクトの力というべきか。
護のアドバイスで薬を用意して、待機していた。
何が起こるのか、なぜ、用意をさせたまま彼が姿を見せないのか、夕子はなにも聞いていない。
が、今の志乃の様子で、漠然と、事態を把握した。
志乃が、健を怒らせたのだ。
ソファとテーブルの間に彼を座らせ、毛布ごと抑えているその腕を優しく外し、急いでスエットの袖を、肩口から切り落とした。
「少し我慢をしてくださいね」
手際のいい仕草が、彼女の声に重なる。
優しい声だった。
志乃は、腕と、彼女にゆっくり視線を移し、我慢ができなかったのだろう。
思わず抱きついて、震え始めた。
「……怖かった……よ」
涙が溢れる。
泣き叫ぶでもない。もし、ここで声をあげたら、また『アレ』が来るのではないかと思ってしまう。
「シノ……お願いします。手当てをさせて」
「だ、だって……」
「お願い。すぐに済みますから」
無理に引き離すことはしなかったものの、青ざめて震えている彼を支えながら、夕子は手当てを始めた。
刺された傷にしては、思ったより浅い。
もっとも、その周囲は、多少肌が焼けていたから、それがある程度、血止めの役割を果たしていたといってもいい。
『くれぐれも、ケンを怒らせないでほしい。本気で怒れば、周囲がただではすまない……そう、念を押されたよ』
夕子が、剣崎司令からそういう話を聞かされたのは、メンバーに会う、かなり前のことだった。
あの時は急に司令━━当時はまだ、レイラーだったが━━が、北海道に行ってしまったのだ。
予定がなかったことで、二日ほど、向こうに滞在して、戻ってきたときに聞かされた話だった。
一体、何があったのか、当時は彼女のほうが怖くて、詳しい話は聞けなかった。
それまで、メンバーのところに訪問しては、彼らの近況を、土産話として聞くのが楽しみだった彼女だから、健のことで、そのような言葉が出てくるとは思わなかったのだ。
実際、彼らと生活するようになってから一年半。一度も、そういう場面を見たことがない。
忘れてしまうほど、健は穏やかに、彼らを包み込んでいた。
それが……。
メンバーよりも体格のいい、明るく立派な志乃が、これだけ怯えるほどだったのか?
包帯を巻き終えて、彼女は最後に、注射を施した。
ケガをした場合、そこから雑菌が入るのを防ぐためだと、メンバー全員が、実からレクチャーされていたからだ。
夕子の、優しい手当てが志乃に伝わったのか、器具を薬箱にしまう頃には、少しだけ落ち着いていた。
「このまま動かないでくださいね。着替えを持ってきます」
「ユウコ……」
席を立とうとした彼女を左手で抑え、志乃はその肩を抱き込むと、胸に顔を埋めた。
「ケン……怒ってた……。でも……アレは……ケンじゃない、よ……」
「シノ?」
「アレ……人間じゃない……生き物じゃない……」
「ケンが、ですか?」
「あんたらは……わからないのか? アレには……なにもなかったんだ」
そう、志乃が怯えているのは、殺されるかもしれないという恐怖などではなかった。
ハッキリと聞こえた、『破壊』という言葉にすら、感情が籠っていなかった。
あれは、声じゃない。音だ。機械にも似た、いや、機械自体、人間らしく見えるほど、かけ離れた『モノ』だ。
次元が違いすぎる。この世のものとは到底思えない『モノ』が、『破壊』という音を発した。
アレと、今まで一緒にいたのだ。
恐怖がよみがえる。
なにも映さない瞳が、志乃を見下ろした……頭から離れない。
ノーセレクトのリーダーは、人間じゃ、ないんだ……。
そう思った途端、彼は夕子から離れ、テーブルに伏してしまった。
すかさず、夕子が席を立つ。
志乃の部屋にはまだ、健がいるため、服を取りに行くわけにもいかず、バスルームの方から、洗ったばかりのスエットを取ってきた。
小さく声をかけて、彼の体を起こすと、着ていたものを脱がして、新しいものと取り替えた。
なすがままになっている彼に、次は、ミルクを温めて渡す。
このまま落ち着けばいいが……。
志乃が、健の中に何を見たのかは想像がつかない。だが、あの怯えは尋常ではなかった。
このまま傍にいたほうがいいのか、迷ったあげく、彼女は席を離れた。




