ナンバリング・17
何日ぶりだろう。
熟睡した気がする。
夕べまで、まったく寝ていなかったわけではないが、やはり、睡眠時間というのも大事なのだと、思う。
机を挟んで、クローゼット側にあるベッドの志乃は、ゆったりとした寝息をたてている。
夕べは、自分が寝付くのが早かったからよく覚えていないが、少なくとも、志乃はずっと、暗闇のなかでベッドに腰を掛けていたように思う。
健は、その目の隅に、見慣れないものを見止めて、振り返った。
実のベッドの棚に、目覚まし時計が置いてあった。
彼には、このようなものは必要がない。
……志乃のもの、だろう。
ベッドを降りて、脱ぎ捨てていた服に手を通しながら、彼は志乃の方に足を向けた。
「シノ、起きるか?」
気持ち良さそうに寝ている彼を軽く揺すったが、まるきり反応がない。
ただ、耳元に、囁く声が、諦めを含み始めたころ、毛布の下から手が伸びて、彼の腕に触れた。
「まだ……いいだろ……」
「まあ、ね。それなら、食事ができたら起こしにくるよ」
返事はなかった。
寝起きが悪いと聞いていたから、さほど気にもせずに部屋を出ようと、鍵を開けたとき、志乃が勢いよく半身を起こした。
「どうした?」
寝ぼけ眼で、声のしたほうに顔を向ける。
不思議なものを見るような、トロンとした表情が、健の姿に納得したのか、ため息に変わった。
「そっか……あんただっけ……」
と、言いながらまた、倒れこんだ。
「……ミノルにしちゃ……優しすぎると思った。……あいつ……乱暴だ……」
どうやら、完全に目が覚めたわけではなかったようだ。
すぐに聞こえた寝息に笑うと、健は部屋を出た。
階段脇の、本来の部屋に入ったとき、護が、夕べと同じ椅子に座っていた。
実の反応は、ない。
「どう?」
昨日は、夕子も出掛けていたため、健の服は用意されていない。
彼の問いかけに、護は黙ってクローゼットを開けると、一揃えの服を出して、健に渡した。
着替える彼に背を向けて、護は声を潜めた。
「熱はまだだ。明け方になってやっと、落ち着いた」
「おまえに徹夜をさせたね。少し休んだほうがいいよ」
「一日くらい、構わない。それよりて……君の方は……?」
本当に、珍しい。
実以外に関心を持とうとしなかった護が尋ねるほど、気になっていたとは。
「大丈夫、か?」
それでも、聞きづらそうに声を潜める。
健は、彼の背中に、頷きながら言った。
「なんとかなったみたいだね。久しぶりに、ゆっくり寝たよ」
「そう……か。……ミノルが君のことを心配していた」
なるほど、それなら納得する。
ただ……。
「おまえに言ったのか?」
まさか、実が自分から告白するはずがないと思うが、尋ねた健に、彼はようやく振り返って首を振った。
「うなされて……いたんだ。うわ言で……君のことを……」
「大丈夫なのか? そんな状態で……」
「これを過ぎれば楽になる。下手に熱を下げようとするより、頭が暴走しない程度に冷やすだけで、放っておくしかない」
医師の資格をとっていないまでも、護は、ある程度の知識を持っている。
これもまた、実のために、幅広い知識を身に付けてきた結果だ。
もっとも、この程度のことすら知らないのは、健くらいだ。
レイラーの友人に、医者がいたわりに、その人からも、病気の対処法すら聞いたことがなかった。
何年かに一度、レイラー・楠木哲郎が病気にかかったときや、牧場のスタッフがケガをしたときなどに会ってはいたが、世間話はしても、一切、その方面の説明はしてくれなかったためだ。
それもまた、レイラーの教育方針だったという。
健は振り返り、そうか、と呟いた。
「そういうものなんだ……」
言いかけた言葉が、突然、髪の後ろを掴まれて途切れた。
髪をかき揚げられたまま、引き寄せられたのだ。
「な……」
護の顔が、首筋に触れるほど近づく。
彼が、こんなことをするのは初めてだった。
不用意に近づかないどころか、ほとんど、誰にも触れない。
常に、一定の距離をおいているというのに。
「マモル……?」
だからこそ、健は、自分から離れようとしたのだが、護の力がそれを抑えた。
「動くな」
左の首から肩にかけて覗き込み、ようやく護は彼から離れた。
「本当に、何もなかったのか?」
真剣な囁くに、健の眉が寄った。
「何も……って……なにが?」
彼がとぼけているようには見えない。嘘をつく理由もない。
護は、目で彼を誘導すると、部屋を出て、洗面所にむかった。
何事かとついていく健が、キッチン横のドアから出るときに、夕子に挨拶をする。
鏡の前に健を立たせると、護は彼の髪を漉き上げた。
首筋に二つ、肩口にひとつ、小さなアザができていた。
「ぶつけた覚えは?」
虫に刺されたような、ハッキリとしたアザではない。かといって、このような、不自然なぶつけ方をした覚えもない。
健は、鏡を覗き込み、思わずそこを抑えた。
「……どうして……こんなものが……」
「だから、何もなかったのかと、聞いたんだ」
思い当たることはなかったが、鏡越しの護の、静かな怒りの表情を見たときに、健の顔色が変わった。
「オレが……寝ている……間に……?」
それしか考えられない。
護が踵を返した。
「聞いてくる」
「ちょ……待て! 待ってくれ」
出ようとする彼の腕を掴んで、健は慌てて、開けかけたドアを閉めた。
「その……目立つ、か? これ……」
何を言い出す。
鏡を見ればわかるではないか。
確かに、正面から見れば、髪に隠れて目立たない。しかし、まったく見えないわけではないのだ。
健は、首筋を押さえたまま、困惑気味に言った。
「黙っていてくれないか」
と。
なぜ、志乃を庇うような真似をするのだ?
不意に、護の中に、怒りが込み上げてきた。
「これも、経験だというつもりか? 君は、夕べ、休むと言ったはずだ。シノを信じたからではないのか?」
声が微かに震えている。
護は、自分もまた、心のどこかで志乃を信じてしまっていたことに腹を立てていたのだ。
いや、そうではない。
健は、言っていた。
『シノは、ミノルに本気になっていた』
と。
つまり、志乃は健だけではなく、実すら裏切った。
それが許せない。
健は、気まずげに顔を背けた。
「確かに、言った。……彼も、なにもしない……とね。だから……多分、ちがう」
自分に記憶がないことだ。夢も見ずに寝ていたのである。
だから、志乃にとって、暗闇の中の葛藤の末、ほんの僅かな行為だったのだろう。
そして、もうひとつ、志乃だけを責められない、健の理由がある。
「違うんだよ……」
そう繰り返した彼に、だが、護は諦めなかった。
「なにが、違うというんだ」
「……確かに……なにもしなかったわけじゃないんだろう。けれど……わかっていたら……きっと、やらなかったと、思う」
「ミノルの代わりに……」
「だから! そうじゃなくて……」
どう言っても、言い訳にしかならないのは確かだ。
口ごもった彼は、仕方がない、と、シャツの袖をまくって、護の前に突きだした。
「これを見てくれ」
肘の内側だ。
そこには、大きな赤いアザがあった。
「昨日の注射の跡。しばらくは消えない。……貧血の症状のひとつなんだ。だから、オレが気づかないほどのキスでも、跡がついたんだと思う。一概に、彼を責められないんだよ。知っていたら、こんなことはしなかっただろうから、黙っていて、くれないかな……」
「問題を摩り替えるな!」
珍しく、護が怒鳴った。
目を見張る健に詰め寄る彼を見たのは、初めてだ。
「君の体質など、今は関係がない! シノが、何をしたかが問題なんだ! なぜ、君もミノルも、……彼をそこまで庇うんだ? キャップのいうとおり、彼を一人にしておけば……ミノルは寝込んだりはしなかったはずだ。君にしても……」
実のことは当然だとしても、彼がこんなにも健のことで、感情を表に出すとは思わなかった。
健は、迷い続けて、やがて頭を抱えて息をつきながら、洗面台に寄りかかった。
玲の言葉どおりに、健と実が一対だというのなら、実と護もまた、ワンセットと考えなければ、どこかでバランスが崩れる。
健と護、という組み合わせには問題はないのだ。
実が絡むから、秘密を持つことが不可能になる。
これ以上、隠しだてはできそうもない。
深く息をついて、ようやく健が口を開いた。
「庇っているわけじゃ、ないんだ。……オレもミノルも……待っているんだよ。……おまえたちは、辛抱強くオレを待っていてくれたよね。ノーセレクトの仲間として、オレが気づくのを待っていてくれた」
それが、どういう意味なのか、護が気づかないはずがない。
だから、敢えてそう言った。
驚いて、声も出ない護に、彼は、俯きながら続ける。
「これ以上、シノを一人にはしたくない。仲間にすることは今さら不可能だとしても、一年の間、オレたちを彼の心に残してあげたいんだ。ミノルのやり方、オレのやり方……違いはあっても、彼を受け入れる思いは、同じなんだよ」
「……ノー……セレクト……」
愕然とした呟きに、健がまた、頷く。首筋に手を当てて、護の背後に見えるドアに目を向けた。
「最初は漠然とした感覚だったんだ。バンドを組んでいた時にね。ミノルが彼に疑問をもったのは、同行してすぐだったよ。それで……調べてみた」
実なら、志乃をセレクトコンピューターセンターに連れていくことくらい、簡単だったようだ。
「……では……シノも、知っている……わけ、か」
「いや。知らないよ。教えるつもりも、ないんだ」
「なぜ? ……それでは、待つ意味があるのか? 君がノーセレクトであることを自覚していたから、オレたちは待つことができたんだ。メンバーの想いが君に届くことを知っていたから、待っていられた。自覚もない彼に届くとは思えない」
「どう……だろうね」
独り言のように呟いて、彼は視線を護に戻した。
「自覚なんて、どうでもいいんだ。彼もまた、ノーセレクトであったことが、大事なんだから」
なにか言いかけて、今度は護が顔を逸らす。
健にとって大事なことは、ノーセレクトという存在自体なのは、ずっと変わらない事実だ。自覚していようがいまいが、ノーセレクトであれば、無条件で受け入れ、包み込む。
それを護も理解しているからこそ……。
辛そうに、また、健に向いた。
「だから……なのか? やはり、オレたちを守るために……あなたは……」
クスッと笑って、違うよ、と言った。
「急な交代だったからね。ある程度はオレも、覚悟は必要かなって思ったのは本当。ミノルがどこまで彼にオレたちのことを教えていたのかも聞く余裕がなかっただろう? ただ、少しはわかってくれたみたいだったよ。寝る前は、ずいぶん葛藤していたから。……でも、やっぱり、オレは余計なことを言ったのかもしれない」
「余計なこと?」
そう考えると、これもまた、判断ミス、なのだろう。
それを護に言っても仕方がない。
ため息をついて、考えた健は、
「……やっぱり、一度はハッキリ怒らなければだめかなぁ」
言葉の責任、行動の責任、そういうものがいつも、健のなかにあるため、今まで、メンバーに対して、本気で怒ったことはない。
もちろん、腹がたつことがなかったわけではない。怒鳴ったこともあった。
しかし、過去に一度、犯した過ちがあった彼は、それ以来、怒りの感情は極力抑えてきた。
今回にしても、自分のほうにも非があると思っている限り、本気で怒ることはできない。
しかし……
健は、ぼんやりと護の足元を見ていたが、ゆるゆると顔を上げた。
「……仕方がない。どこまでできるか判らないが、オレなりに言い聞かせなければね。……マモル、すまないけれど、薬箱を用意しておいてくれないか」
つまり、それだけの状況になる、ということか。
健は、洗面台から離れると、護の横を抜けてドアを開けた。




