集合前 1
飾り気のないライトが、一定間隔で並んでいる。
ブルーグレーのカーペットが足音を消している廊下の、ドアのひとつで立ち止まりノックをすると、
「どうぞ」
という声が上から響いた。
見上げると、何の表示もないドアの上部に小さなスピーカーがついていた。
絶え間なく聞こえている心地よいBGMは、天井のライトに挟まれるように、一定間隔でついているスピーカーから聞こえているから、声は明らかにそのドア上部から伝えたものだ。
彼は、人気のまったくない廊下を一通り見回してドアを開けた。
途端に、目の前に光が洩れた。
決して薄暗いわけではない廊下だったが、部屋の中は、正面の窓の向こうに青空がのぞいていて天井のライトの比ではなかった。
「失礼します」
軽く一礼をして一歩踏み入れると、さらに毛足の長い絨毯が足音を吸収する。
広い室内に隙間なく敷き詰められた淡い青はまるで、窓の外の空に同化しているようだ。
そのガラス窓を背にした形でデスクが置いてあり、一人の男性が立っていた。
いや、彼の入室に立ち上がったというべきだろう。
「よく来たね。そちらに座りなさい」
廊下で聞こえた声が、ドアのところに立っていた彼の左側を示した。
L字になったソファと長いガラステーブルで、簡単な応接スペースを形作っているような一角だ。
仕切りも衝立も、まして、別室という壁やドアがあるわけではない。
しかし、とってつけたような場所とはいえないほど立派なコーナーだった。
彼は言われるまま、遠慮がちに腰を下ろした。
ドアに近い、一番手前の場所だ。
男性のほうは、デスクのコンピューターでなにやら操作をしていたが、やがてその隣のマイクに話しかけると、回り込んでソファに足を向けた。
と同時に、彼のほうも改めて立ち上がる。
「はじめまして。白木健です」
微かに緊張した声だ。
というのも、彼は最初の挨拶に迷っていたからだ。
多分、どう言っても指摘されるだろうとは思っていたが、結局これしか浮かばなかった。
そして、やはり相手に苦笑されてしまったが、合わせてくれたのだろう、その場に立ち止まって、軽い会釈を返された。
「剣崎です」
今にも笑い出しそうな声にも聞こえたが、そうではなかったらしい。
男性は、デスクに近い方からソファを回り込んで、健の斜め前に腰を下ろした。
「大きくなったね。……君に会ったのは何年前だったろう?」
「七年前です」
と、即答する。
たった一度だけだった。
当時の健は、ケガのためにベッドから起きられる状態ではなかったのである。
見舞いという形がなければ、今日のこの対面は本当に初めてのものであっただろう。
彼が挨拶の一言に困惑していたのは、それも理由のひとつであった。
一度であっても会っているのだから、『初めまして』では失礼ではなかったろうか? しかし、当時の対面は予想外だったし、互いの立場を考えるのであれば、今日が最初には違いない。
実際、七年前は会話らしきものはしていない。ケガに対する二、三の言葉をかけられただけだ。
しかも、健はそのとき、相手が誰だったのかすら、知らなかった。
「とにかく座りなさい。立っていると話もできないよ」
唐突に声がかかり、健はハッとして腰を下ろした。
「まず、君には早めに来てもらったわけだが…」
「早かったのですか?」
「集合の日は、十三日だよ。聞いていないのかね?」
今日は十日だ。
健は初耳だと言って、首を振った。
彼が聞いていたのは、おとといになって突然、荷造りをするという指示だった。
その際に、今日の朝、迎えが来ることを聞いた。
そして今朝になって、一人の男性がセスナのようなもので迎えに来た。
操縦方法を習っていた上に、ライセンスも持っていたが、それがセスナではなくブイトールだったと判ったのは、垂直上昇をしてからだった。
「すみません。何も聞いていなかったので…。それで…なぜ、早めだったのでしょうか?」
突然の決定が日常だった彼にとっては、さほど驚くことではなかったようだ。
理由があるから決定している。
それに従うだけのこと。
━━これが普通だった。
「理由というより、君だけの仕事、と言えるかな。だから、君にとっては今からここが『職場』であり、私が上司になるわけだ」
「司令、でしたね。あなたが責任者だということも知らずに失礼しました」
二度も謝られて、さすがに司令はおかしいと思ったのだろう。
「楠木さんは君に何も伝えていなかったのかね?」
「何も…というと?」
「君に先行してもらった理由だよ」
「……聞いていません……」
仕事、というからには責任が生じる。なのに、何も聞いていない自分が情けなかった。
日常のことだったとはいえ、それではあまりにも無責任ではなかったろうか?
今までは二人きりの生活だったため、言うことを聞いていればよかった。それがたとえ、理解できない言葉であっても、だ。
しかし、第三者が入るとなると、知らなかったではすまなくなる。
健は、また、申し訳なさそうに頭を下げた。
「そうか…聞いていないのか…。…君は、メンバーのリーダーになることを伝えていたのだよ。だから、メンバーに会う前に、少し、言っておくことがあって来てもらったのだ」
これもまた、初耳だった。
驚いて、首を振る。
「ま、待ってください。いきなり言われても…」
「だから、いきなりではないのだよ。楠木さんには言ってあったのだからね」
「…そう、ですか…」
つまりそれは、健に異を唱える権利はない、ということだ。
彼を育てていた楠木哲郎は、他のメンバーのレイラーとは大分違っていた。
国で決められたレイラー制度の最初の人物ではあったが、ずっと一緒に暮らしていたにも関わらず、健に対する接し方は親密とは言い難かった。
レイラーになる以前は教師をしていたというが、その頃から口数が少なく、どちらかというと行動の方が先だったという話を聞いたのも、本人の口からではなかった。
暴力教師だったわけではない。
口で説明するよりも率先して動くから、生徒もついてくる。
たった三年の職歴だったというが、それでも校内では有名だったらしい。
人気もあったという。
教師になったくらいだから、人嫌いでも子供嫌いでもなかったようだが、かといって自分から会話をするでもない。
人気はあったが反面、変わった教師だという噂もあったらしい。
何を考えているのか判らないが、それでも生徒に対しては態度の一つ一つが真剣であり、少ない言葉もまた重みがあった。
そのまま教師を続けていれば、もっと信頼をおかれたはずだ。
だが、実際は四年目の秋口に突然、辞めてしまった。
その代わりに、健のレイラーとして志願したのである。
国からの公募は一般的な報道はなく、全国の公務員━━それがどのような職種であれ━━関係なく呼び掛けられた。
生後半年の子供を育てること、子供が十八になるまでは国で定めた教育をすることが基本的な項目で、結婚は許可されるが、自分の子供は諦めなければならない。
人を一人育てるからには、自分の人生を半ば犠牲にしなければならないことは、その項目でも明らかだろう。
たとえ国からの補助があり、一生涯働かなくても収入があるとはいえ、自分の子供を諦めて、他人の子を育てる人材がいるわけがない。
公募を見た大半は、そう思っただろう。
しかし、事実は違っていた。
既婚者、未婚者、男女の制限がなかったせいか、様々な理由をもって応募をしてきたものがいたらしい。
その中から、楠木哲郎は選ばれたのである。
人を育てる━━国からの教育方法は決まっていたものの、育て方はレイラーの力量だ。どういう生活をしようが、データさえ取れれば問われない。
教師だった頃の性格そのままに、ほとんど口も利かないレイラーとの生活の中では健に、会話というほどの思い出がないに等しくても当然だろう。
彼が何を尋ねても明確な答えがなかったばかりか、今回のように大事なことも伝えない。
決定されたことは絶対であり、また間違っていないとなれば、健には反論が許されることはあり得なかった。
リーダーだと唐突に言われたことも、本音を言えば自信がない。
メンバーの人数は知っていても、顔すら知らない彼にとって、リーダーという立場は、レイラーの決定がなければ何があっても反対をしたいところだ。
「どうしても…オレでなければなりませんか?」
だからせめて、理由を聞きたかった。
レイラーに対しては許されなかった質問を小さく呟いた健に対し、剣崎司令は、困惑しながら頷いた。
「君にしか、できないのだよ」
多分、その理由さえ、レイラー・哲郎は知っている。
そう思うと健はもう、何も言えなかった。
言われたからには…決まっていたからには、やり遂げなければならない。もしも、納得ができないのなら、その理由は自分で探し、反論するしかないのだ。
そう育てられた。
黙ってしまった健に対して、剣崎司令は身を乗り出した。
「どうして楠木さんは君に言わなかったのだろうね? 話をしたとき、あの人は理由を聞かなかった。説明をしようとした私を止めたのだよ。あの時は反対していたようには見えなかったのだが…君に黙っていたということは、納得していなかったのか…」
「いえ、それは違います。レイラーは、納得をしたから聞かなかったんだ。あなたの決定に理由は必要がなかったんでしょう。……必要なのは、決まったことを確実にやり遂げるオレの責任だけです」
そう言いながらも、彼は諦めたようにため息をついた。
結局、レイラーには健の気持ちなどわからないのだ。
突然の出来事にも対処できるように育ててきた━━その確信があるから何も聞かないし、言わない。
それが、健のレイラーだ。
健にとって、どれほどのプレッシャーになるかなど考えたことなどないのだろう。
「オレは、当たり前の顔をして、冷静に『わかりました』と即答するように育てられてきました。本当は、そうしなければならないんですけれど…」
「いや、それは仕方がないだろう。私は、知っているものと思っていたのだから。……だが、そう言えば、楠木さんには彼なりの育て方があったのだと…言うことを忘れていたよ」
苦笑混じりにそういうと、剣崎司令は言葉を止め、すぐに心配そうに健を覗き込んだ。
「君は、彼のことを冷たい人間だと思ってはいないかね?」
僅かに眉を寄せ、健はさあ、と呟いた。
「厳しい人だとは感じていましたが、その基準自体、比較するほどの人付き合いはありませんでしたから、なんとも言えません」
「そうか。ならば、話がしやすいね」
背を伸ばし背もたれに寄りかかりざま、司令は足を組むとその片膝を両手で抱えた。
「ケン、私はね、何度も君のところに行っていたのだよ。もちろん、君には会わせてもらえなかった。……あの人は厳しい人だ。君の言う通り。……だが、恐らくそれがよかったのだろう。……これからの環境は、今までのものとはまったく違ってくる。それに対処できる強さを、あの人は教えていたのだと確信できるよ。それを忘れないでおきなさい」
「強さ…ですか?」
「そう。私には、楠木さんの話は、いつ聞いても納得できなかった。何度、彼の教育に口を出したかわからない。だが……」
優しい微笑みが、健に向いた。
「最後まで、あの人は自分の方法を変えようとはしなかった。その結果が今の君なのだとしたら、やはり、私のほうが余計な説教だったとしか、言えない」
「……はあ…」
困惑した返事に、司令がクスッと笑う。
「やっと判ったよ。あの人は、人を育てていたわけではなかったのだ、とね。彼と比べれば、他のメンバーのレイラーたちは未熟だったのだ。私も含めて、ね」
どういうことなのか、と尋ねようとした健が口を開く前に、剣崎司令は時間を確認して席を立ってしまった。
一度、デスクに戻る。
そこにあるコンピューターでまた、なにやら操作をしているときにノックが部屋に響いた。
「どうぞ」
すかさず、マイクに向かって返事をする。
ドアが開いて、入ってきたのはワゴンを押した女性だった。
夏の雰囲気に合ったライトグリーンのワンピースの裾が、歩くたびになびく。カチューシャで前髪をあげた額は広く、そして色白の顔には、聡明そうな微笑みが浮かんでいた。
「剣崎さん、お待たせしました」
女性はワゴンを、健のいるテーブルに横付けすると、その上に乗っていたグラスを二つテーブルに置いた。
「アイスコーヒーを用意しましたが、構いませんか?」
「助かりました。それを言おうと思っていたところですからね」
だから、デスクに戻ったのか。
女性はワゴンに乗っていた、もうひとつの品物を取り上げた。
「これがご注文のものです。これには白木さんのものは入っていません。よろしかったでしょうか?」
「本人には必要がないでしょう」
デスクから、元いたソファに戻りながら司令は健に言った。
「こちらは資料室の水木さんだ。これから世話になることも多い部署だから覚えていなさい」
司令に紹介された形で、健は改めて立ち上がると頭を下げた。
彼の、肩口辺りまである髪が柔らかく揺れる。
見事な黒髪はただ真っ直ぐで、脇を少し短めに、そして後ろに流そうとカットしてあるにもかかわらず、癖がまったくないため顔にかかってしまう。
うっとうしくかき揚げる仕草は、無意識のものだ。
「初めまして」
「水木、里美です」
年は、健より上だろう。笑顔の中に美人という要素はないが、大人びて落ち着いた女性だった。
お辞儀をした彼女は、そのまま司令にも一礼してワゴンに手をかけた。
「チーフから、電話の転送について言われましたが、どうなさいますか?」
「…そうですね、総括が機能するまでは野々村くんに任せたいのですが、構いませんか?」
「はい、承知しました」
もう一度、健に会釈をすると、彼女はワゴンを押して部屋を出ていった。
テーブルの上には、彼女が置いていった、大きめの封筒が乗っている。
司令はそれには手をつけず、代わりに灰皿の脇に置いてあったコントローラーを取り上げた。
細かいボタンがいくつもついていたが、迷うことなく次々とそれを押すとまず、ついていたことも忘れていた部屋のライトが消え、同時にソファとは反対側の壁にスクリーンが降りてきた。
次に、部屋いっぱいに差し込んでいた外の光が、シェードと、さらに黒いカーテンで遮られると、もう人の姿も見えないほど暗くなる。
しかしそれもつかの間で、スクリーンに建物の映像が映ると、剣崎司令は軽く、健のほうに体を向けた。
「この建物がわかるかね?」
建物は、正面からの全体像だった。
横に長いブルーグレーの壁面には、一階にドアが三つついている。
中央にひとつと、左右の端にひとつずつだ。
窓を縦に数えると、五階建てになっているようだ。
健は、僅かに首を傾げながら言った。
「多分、あなたの言い方だとここのことだと思うのですが」
「見たことはあるかね?」
「まさか、これもレイラーは知っている、と?」
「その、まさかだよ。もっとも、レイラーたちに見せていたのはイラストではあったがね。だが、説明を兼ねて、イラストは渡していたはずだ。君たちがここで何をするのか、どういうところに住むのかも、概要は説明している」
スクリーンの光を便りに、司令は映像を切り替えた。
今度は、建物内部の説明のようだ。
「君はブイトールで来たね。だとしたら、一階のホールは通っていないだろう?」
映し出されているのは、部屋を細かく分けた図面だった。
一階は、中央のホールを貫いて横に廊下が延びていた。
廊下を挟んでいくつもの部屋があるようだが、それは大体、建物を三つに区切った真ん中辺りだけ明記されていて、両端は黒く塗りつぶされていた。
健は、このホールを三階の、司令室のあるフロアのエレベーターホールで見下ろしただけだ。
広い空間で、三階天井からの、ブドウのように連なった丸いライトが下がる吹き抜けになっていた。
頷く健に納得をして、司令はコントローラーをテーブルに置くと、アイスコーヒーを取り上げた。
「建物内部については、まだ、誰も知らない。ただ、私たちが属するこの組織自体には、それほどの価値がないことは話してある。ここでは、君たちメンバーが要であり、私たちスタッフはサポートに過ぎない。それは聞いているかね?」
これは、あくまでも確認しただけだ。
今までの健の話からすると、こういうことすら、聞いていないはずだ。
そして予想通り、否定した姿を見て、司令は続けた。
「では、なぜ、君たちが要であり、私たちがサポートなのかは、わかるかな?」
「…いえ…。……あの…キャップ…でしたね? そう呼ぶように言われていたのですが…」
「そうだよ、何かね?」
「聞きたいことがあるんです。…というよりも、オレのほうに問題が…」
健は、居住まいを正すとゆっくりと言った。
「さっきも言いましたが、オレは、レイラーからは何も聞かされていません。ここで何をするのかということももちろんですが、その前に、どういう理由で、データをとるような訓練や教育をしてきたのですか? 確かに、オレにもある程度のことはわかっているつもりです。普通の人間ならば、学校で教育を受け、家で育っていくということくらいはね。けれどその中には、データを取ってまでする訓練はないのでしょう? それがノーセレクトだというのならば、その、ノーセレクトの存在する理由から説明をしてくれませんか?」
微かに、それは自虐的な言い方だった。
今までの環境が健にはどれほど人とかけ離れたものだったのか、漠然と感じていたのだ。
生活自体は多分、普通の人とさほど変わりはなかっただろう。
彼の家は、牧場を兼ねていた。
牛と羊の牧舎が、広い牧場に離れて建っていたし、健が飼っていた馬も家の脇に小屋があった。
ただ健は、家畜の数も、牧場スタッフの人数も知らずにいた。
彼は、レイラーの管理する牧場に関わることすら、許されていなかったのである。
朝、起きたときから、レイラー・哲郎は細かい世話を健にしていた。
しかし、教育はともかく訓練になると、一切の関知はなかったといってもいい。
子供の頃は、さすがにレイラーが遊びをかねて付き合ってくれたが、年が増すにつれて口数は少なくなっていき、何かを教える前にまず、『自分で調べる』という条件がつき始めると、健は一日の大半を一人で過ごすようになっていった。
外出すら、制限されていた。
彼に許された行動範囲は、常にレイラーの目の届くところであり、知り合いと言えばレイラーの監視の代理のようなものだった。
ノーセレクトだから…それが、レイラーの口癖であり、普通の生活から隔離された理由だと知ったのは、彼の口からではなく、唯一自由に行き来することが許された家の老人からだった。
もっとも、そこもまたレイラーの知るところであり、彼の親友の家だったのだが。
レイラー・哲郎にとって、その家は特別だったようだ。
親友である男性は、とうの昔に亡くなっていたという。
その代わり、男性の妻の父親とは、その後も付き合いがあった。
健は、その老人に大層気に入られていたのである。
そして健もまた、老人を身近に感じていた。
いつしか、彼にとってもそこは特別な家になっていた。
レイラーからは教えてもらえなかった常識や人間関係を、老人は面白おかしく教えてくれたのである。
ただ、やはりそこでも、結論は一つだった。
ノーセレクトだから。
ならば、他人と付き合うことを許されないノーセレクトとは何なのだろう。
健は、それを司令に尋ねたのだ。
「一応、基本的なことは知っています。ノーセレクトと判断されたのがオレたちだけなのも、理解しています。あなたの言ったことを考えると、この組織はオレたちのためだけに作ったことになりませんか? なぜ、そこまでしなければならなかったんですか?」
なるほど、本当に最初から説明しなければならないらしい。
しかし剣崎司令は、健の言葉に考え込んでしまった。
ノーセレクトの存在理由……その、明確な答えがあるのなら、すぐにでも説明できる。
答えがないから組織を作ったとしか、今の彼には言えないのだ。
しばらくは映像に目を向けていたが、司令は迷いながら、ポツリと口を開いた。
「おそらく…」
目が泳ぐ。
言葉を探すように、声すらも迷っていた。
「一番確実な言い方をするのなら、ある意味、実験体…なのだろう。もちろん、意図的なものではない。一定期間に、偶発的に生まれた突然変異…といえば大げさかもしれないが。……とはいえ、ノーセレクトという結果も、本来はさほど重視することでもなかったのだよ。今のセレクト制度は、法律で決められているとはいえ、将来を強制するもではないからね。それは知っているだろう?」
「ええ」
これは、健が自分で調べた『知識』だ。
法律というセレクト制度とは、生後半年の乳児をコンピューターにかけて、どのような能力があるのかを数値にすることである。
将来において、必ずしも能力に合った職に就く必要はない。
ただ、コンピューターにかける。
法律としてはそれだけのことだし、まったくの強制でもない。
要するに、選挙権のようなものだ。
出生届が出た半年後に通知がいくだけのことなのだが、やはり、自分の子供の将来は親にとっても関心があるらしく、かなりの確率でコンピューターにかかる子供がいるらしい。
「君の結果が『ノーセレクト』と出たときに、国の方は迷ったそうだ。どんな子供でも、何か一つくらいはできるものがある。そこだけを伸ばせば、将来の道しるべになるはずだった。もちろん、その子の意思や、家族の考えが尊重されるわけだから、一概に結果だけが正しいわけではないがね。セレクト制度は、親子ともの将来の希望を数値化しようというのが最初の目的だったのだよ。……だが、君だけは違っていた」
健の家には、その時の結果が大切にしまわれている。
ただし、彼自身はそれを見たことはなかった。
ノーセレクト数値だけを、レイラーから聞いていたにすぎない。
「コンピューターの答えが、九十六パーセントの数値を出したとき、まず、機械の故障を考えた。そこで、別の二ヶ所で同じことをした。トウキョウとサッポロ…最初のフラノ…。君のご両親は反対をしたそうだ。当然だろう。強制ではなかったはずだからね。だが、国の方は意地があった。なんとしても答えを出さなければならなかった理由は…」
「不備を見つけるため、でしょう? 確かに、法律は強制ではなかったでしょうが、試験期間を含めて五年もかけて作った制度に、たった三年で不備があったらまずいでしょうからね」
あとを継ぐように健は言った。
真正面に司令を見据え、まるでそのときの役人の心情を暴露するように、だが淡々とした口調だった。
「キャップ、そんなことはどうでもいいんです。国の意地にも、それなりの理由があったことくらい、わかります。当然だったと思いますよ」
「君は…何とも思わないのかね? 自分のことなのだよ? 親から引き離されて、結局は戻ることもなく他人に預けられてしまったというのに…」
「無理ですよ」
健は、穏やかに笑った。
「生後半年、ではね。いくらなんでも、感情が湧くような判断力はなかったでしょう? 物心がついたときには、オレの傍にはレイラーしかいませんでした。その彼が、いや、彼だけじゃない、オレの知っているすべての人が、最後には『おまえはノーセレクトだ』という言葉で話が終わってはね。……親がいないことも、親というものの意味も、今のオレには関心はありません。知りたいのはただ一つ、ノーセレクトの存在理由、それだけです」
ことさら、最後のセリフには強さがあった。
確かに、彼のいうことは正しいのだ。
生後半年の乳児のまま、親の愛情から切り離されたことを考えろといっても仕方のないことだ。
しばらくの沈黙のあと、司令は息をついた。
「私はさっき、君たちは実験体だと言った。ノーセレクトの存在理由は……未だに模索中だ、としか言えないのだよ。君は、自分のことには興味がないようだが、国の方は逆だった。九十六パーセントのノーセレクトならば、残りの四パーセントはなんだろう? たったそれだけの数値であっても、伸ばせる才能はないか? そう考えた。だが、結果はすべてが曖昧だったのだよ。三ヶ所のコンピューターで確実だったのは、正に九十六パーセントのノーセレクト数値だけだったとしたら、本当に君には、何の能力もないのか? 逆に、育てかたによっては何でもできるのではないか……賭けのような話し合いの末に、結局、君を親から引き離してしまった。わざわざ『レイラー』という教育者を作って、育て始めた。……親元に返されることなくね。……許されることではない。それを、当然にしてしまったのだよ」
一気にそこまで話すと彼はまた、グラスを取り上げて一息ついた。
健もまた、それに合わせる。
少しの沈黙があり、それからまた剣崎司令は口を開いた。
「もし、君だけならば育て方は違っていただろう。当初は、君の発達という単純な調査しかしなかった。だが、二人目のノーセレクトが確認されたとき、もしかしたら今後も生まれてくるのではないかという話が持ち上がった。君を親から引き離しておいて、その子を放っておいてもいいのかという問題も出てきたのだよ。君は、その頃には普通の子よりも物事の吸収が早かった。つまり、能力がないのではなく、コンピューターが迷うほどの能力があった、ということだ。国は、その子すら、両親から取り上げなくてはならなくなった。君と同じ教育をするために……いや、それは違うか。……その子の数値は百パーセントだったのだ」
「新しい、そして、より完璧な実験体、かな……」
あまりにも自然に聞こえた健の一言に、剣崎司令は眉を寄せ、苦々しげに頷いた。