09 鏡の国 その1
「なーんかさ」地べたから立ち上がったあさひはスカートのお尻の部分からほこりを払い、「いやな予感しかしないんだけど」
「俺もだよ」
ふたりの顔から笑みは消えている。生々しいシカの頭を頂いた奇妙な男。にも関わらず階段に立つその姿勢は、身につけているタキシードに見合う礼儀正しさを感じさせる。
何ひとつ常識に当てはまらない。コントの衣装か何かと言われたほうが信じられるだろう。
「あんたがメール送ってきたんだろ? 『鹿頭の後を追え』って」
沈黙を続ける鹿頭に、英志は緊張気味に問いかけた。
こんな獣面人身の男と会話するのは生まれて初めてだ。何を話せばいいのかわからない。
「……この公園まで連れてきたかったのか? どういうつもりで……」
鹿頭は、英志が話し終わる前に無言で後ろを振り返り、階段を登り始めた。その足取りはこれまでの人間離れした軽快なものではなく、ごく当たり前の、人間の動作だった。
英志とあさひは顔を見合わせ、渋々その後に従った。
丘の上の公園。
爆発が起こって、そこから記憶が途切れて、何もかもおかしくなって……。
一段、また一段と登るに連れ、英志は抑えきれない胸騒ぎを感じていた。
牛のバケモノ、思い出せない友、凍りついた学校と生徒たち。得体のしれない不安。口には出さないものの、あさひも同じように感じているようだった。
エナメル靴のかかとをかつんと鳴らし、鹿頭は階段を登り切った。そのまま階段の脇に避け、英志たちのために道を開けるようにして姿勢正しく立ち止まる。
心構えはゆらぎ、長距離走で渇いた口の中に不快な味が広がった。
半歩のためらいののち、隣にいるあさひのやや紅潮した頬を横目で見た英志は、意を決して残りの数段を駆け上がった。
息を呑み、目を見開き、そこにあるものを凝視した。
何もなかった。
こじんまりとしたグラウンド、それを挟んで反対側には子供用の遊具がいくつか。左手には簡素なバーベキュー用の施設とトイレ。砂埃のかかったベンチ。
それらのごく当たり前の、誰もが思い浮かべるような公園の風景のほかは、何一つ変わったところはなかった。
隕石の落ちた形跡などどこにもない。
クレーターどころか、ススひとつ見当たらない。
あの日の夜。
ふたりが確かに目撃し、爆発に巻き込まれたはずのあの日の出来事。
その記憶を本物と証明できるものは、ここには何もなかった。ただ平穏な、暖かい5月の日の差す普通の公園。
それだけだった。
山間から気持ちのいい風が吹いてきたが、ふたりの汗はとうに冷たくなっていた。
「ご覧の通り、この場で爆発は起きていません」
全く不意に、落ち着いた男の声が発せられた。英志も、あさひも、軽く体が跳ね上がるくらい驚いた。
「わたくしは『キャスト』の一員、〈代理人〉と申します」
モゴモゴと左右に噛み合わせる鹿の口から、流暢な声が聞こえた。
「キャスト? 〈代理人〉? どういう意味……いや、何を言ってんだ? というか……」
「あんた鹿なのに喋れるの!?」
「はい」慌てるふたりに対し、鹿頭の男は平然と答えた。「わたくしは〈代理人〉という役割上、会話でコミュニケーションを取れるよう調整されています」
役割? 調整? 喋っている言葉はわかるのに、何を言っているのかわからない。
英志は鹿頭の口元をじっと見て、たしかにその口から声が出ていることを確かめるのが精々だった。喋るシカ……いや鹿頭の男か。
「まずはこの公園の状況を直にご覧頂くべきであろうと思い、周りくどい方法ではありますがこちらにご足労いただきました。ご容赦を」
「ご容赦を、って……」英志はこれ以上ないというくらいの不審顔で、「あの……ええと、〈代理人〉か? あんたがメールを送ってきて、この公園まで走ってきて……つまりどういうことなんだ?」
「わたくしはあなたがたおふたりをお迎えに参りました」
「迎えに? ここから? どこに?」
「一言で申し上げると、ここはおふたりの知る現実世界ではないのです」
「現実」「世界じゃ」「な」「い?」
異口同音にそう言って、英志とあさひは目も口も開けっ放しになった。
「はい。おふたりがいつもと変わらぬと――ただし何かいつもとずれていると感じている『この青瀬市』は、現実に対する歪んだ鏡像なのです。わかりやすく申しますと……」
自らを〈代理人〉と名乗る男は、鹿の首をぐるりとめぐらし、公園全体そして周囲にひろがる市内全体を見渡した。
「ここはパラレルワールドなのです」