06 その男 その1
まだ5月である。
英志たちが高校に入学してから2ヶ月足らず。
日々暖かくなり、今日は雲もほとんど見えない快晴で、空を見上げるだけで気分が良くなる陽気――のはずだった。
「くそっ、こっちもダメか!」
目前の『罠』に気づいた英志は、走っていたところを慌てて立ち止まった。
凍りついた生徒たち、そしてウシの姿をした怪物。
校内は異常事態にパニック状態に陥り、避難の誘導さえ間に合わず、謎の咆哮による被害者は増える一方だった。
やむなく裏口から逃げ出した英志とあさひだったが、その行手には予想外の困難が横たわっていた。
「遠野、そこ気をつけろ。『浮かんで』るぞ」
英志はあさひの足元あたりの空間を指さした。その息はかすかに白い。
あさひは一歩足を引いて、ひざ下の空間をじっと見つめた。
そこには英志の言う通り何かが『浮かんで』いた。握りこぶし大の、透き通ってほとんど見分けられない氷山のような塊が空中に静止し、周囲の熱を奪い続けている。
それは仮面牛により生み出されたクリスタルガラス状の氷――氷らしきもの――だった。
透明で、冷気を放ち、そこには霜が降り始めている。その上、じわじわと周囲の空間を飲み込むように大きさを増していくようだった。
「どーなってんのコレ……?」あさひは広がり続ける寒さに自分の両腕をさすりながら、ため息をついた。「そこら中こんなんじゃ、通れる道ないじゃん」
ふたりは周囲をぐるりと見渡した。
年季の入ったはんこ屋や営業しているかどうかもわからない呉服問屋が立ち並ぶ閑散とした路地。普段ならまっすぐ通り抜けられるはずの道は、しかし見えない凶器のばらまかれた迷路と化していた。
宙に浮かびその場に静止したまま動かないクリスタルガラスの塊。
支えもなくてどうやって浮かんでいるのかさっぱり分からないが、とにかくその大小の塊が道路のあちこちで待ち構え、通るに通れないのだ。
壊したり動かしたりできるのであればまだしも、試しに棒で突いてみるとその棒まで凍りつき、空中で固まってしまう始末。
そんなものが道路のあちこちに不規則に散らばる状況では、いちいち目を凝らして空気の凝りや貼り付いた霜を確認しないと動くに動けない。
氷が密集しすぎて避けて通ることなどできない場所や、浮かぶ氷が大きすぎて完全に道がふさがっているような細道もあり、それを迂回しなければ歩くことさえままならない状況だ。
「これってさ」あさひが自分の手に息を吹きかけながら、「やっぱり『あれ』のせいだと思う?」
「さっきの仮面の牛か? そうだな、まあ無関係ってことはあり得ないだろ」
英志は、あちこちのクリスタルガラスから染み出してくる冷気に晒されて冷たくなった鼻をこすった。息で眼鏡のレンズが曇る。
「でもこれ、なんで落ちずに浮かんでいるんだ……?」
言いながら、目の前に浮かぶ氷の塊に息を吹きかけた。たちまち霜に覆われ、白く表面が縁取られる。こぶし大のドライアイスといったところだ。
いったいこれは何なのか。なんとなしに温度を確かめようと指を近づけてみた。
だがその直前、どこかから轟々と風が渦巻く音が聞こえた。そこに交じるぞっとするような響きも。
ふたりは顔を見合わせた。
言わずとも、その音が仮面牛の凄まじい絶叫であることはお互いわかっていた。
「駅の方?」「だと思う」
「あの牛、学校からどんどん移動してるってこと?」「だろうな」
「それであの叫び声って……どうしよ塚本、それ被害が広がるってことでしょ!?」「……そういうことになるな」
「それヤバいじゃん! どうしよ……助けに、助けに行かないと……」「待てよ、そんな余裕ないぞ? 俺たちだってここから逃げないと……」
「でもそんなこと言ったって……あのバケモノにそこら中凍りづけにされてるってことでしょ!?」「落ち着けって! わかってるよそんなの!」
「助けにいかなきゃ!」「だから落ち着けって! 助けるって、俺たちでどうにかなる話じゃないだろ?」
「でもさ……」「うん?」
「うちの母親、駅前のお店で働いてるんだよね……」「そりゃあ……」
英志は何も言えなくなった。
何とかあさひの、そして自分の不安を打ち消すような言葉を探そうとしたが、うまいセリフは思いつかなかった
あさひは頭を抱えてしゃがみこんで、深い溜息混じりに、「どうなってんのコレ? なんでこんなことになってんの? 最初はなんか記憶が変だって話だったのに……」
それを聞いて、英志は苛立ちまぎれに髪をかき混ぜた。
あさひの言うとおりだ。
あの仮面牛。
正体不明の怪獣のようなあれは、隕石の爆発とか記憶の欠落といった話からいきなり飛躍して、唐突に現れて、超常現象じみた災害をまき散らしている。存在自体が意味不明で、脈絡も何もあったものではない。
――なんでそんなものから逃げ回らなきゃならないんだ?
本当にわけがわからなくなってきた。なんとか冷静に考えを巡らせようとしたが、頭の中を整理するのも追いつかなかった。
牛のバケモノ、頭部のあるべき場所に人面を象った石膏の仮面がすげかわった異形の怪物、咆哮を浴びたものを凍りつかせる超常現象……普段なら耳を貸すのも馬鹿らしい話だ。
「ねー、塚本」あさひが急に顔を上げていった。「これってさ、実は全部つながってるんじゃないかな」
「つながってる?」
「だから……あたしたちの記憶が飛んでるとか、そういうのと」
「仮面牛とが?」
あさひはうなずき、スカートのホコリを払いながら立ち上がった。
セルフレームの眼鏡の奥に見える目はいつになく厳しい。自分の母親が危険かもしれないと知れば、無理もないことだ。
「なんかこう……うまく説明できないけど、全部裏でつながってて、そういうものにあたしたちふたりが巻き込まれてる的な」
その言葉に、英志は口元に手を当ててうーんとうなった。脈絡がないのは確かだがそれは視点の問題で、実は何らかの理由があって、記憶がなくなっているのを含め、何か裏に隠された真相があって、それが全てつながっている……。
――ありえない。
英志はすぐに脳内で否定した。
何らかの理由? 隠された真相? そんな曖昧な言葉で関連性を謳うなら、この世の全ては闇の権力者によって動かされているなどと吹聴してまわるのとたいして変わらない。
「もー、じゃあどうすればいいっつーの?」あさひが腹立たしげに地団駄を踏んだ。「このままここにいたって、なんにもならないってば!」
もっともな話だ。学校を脱出してからまだそれほど離れてもいないし、ここが安全だとは言えない。あさひが自分の家族を心配するのも当然だ。それをいうなら英志の家族だって同じことだ。凍りついた学校、その生徒たちも。
英志は一度深呼吸をして、「……話を最初に戻そう」
まずは自分たちの安全の確保、それから警察でもどこでもいいから事情を話し、家族と連絡をとって、避難する――常識的に考えればこんなところだろう。
逆に言えばそのくらいしかできない。あの仮面牛と直に接触するなどもってのほかだ。
「結局、この浮いてるヤツをよけて進むしかないってか……」あさひは体の力を抜いて、肩を落とした。「ああ~、なんかこう、ぱっと見分ける方法とかないの? ちょー面倒くさいんですけど」
「んなこと言われても……いや、あるといえばあるか」
「どんなんじゃい」
「じゃいってなんだよ……アレだよ、霜が降りてりゃ少なくとも場所はわかるだろ? だから湿気があれば……」
「あれば、っていちいち息吹きかけていくんかい?」
それは面倒だ。英志は腕組みしてうーんと唸った。上着を破り捨てたせいで、周囲から発せられる冷気は少しこたえる。
「じゃああれだ、お湯を用意してその辺りにまけば……」
と、言いかけたところで突然異変が起こった。
ヴルルルルル!
ポケットの中の携帯端末が同じタイミングで震え、着信を通知した。
思いもよらない突然の振動に、心拍数が一気に上る。
ポケットに入れていた携帯端末が唐突に震えだしたのだ。何だよいったい、と取り出したところで、奇妙なことに気づいた。
ふたりとも携帯を取り出している。
どちらかの携帯ではなく、ふたり同時に何かを受信して振動していたのだ。同じように驚いて顔をこわばらせるあさひと目配せし合い、お互いの携帯を同時に突き合わせた。
画面には、でかでかと同じ文言が浮かんでいた。
『鹿頭の後を追え』。
「鹿頭の……」「……後を追え?」
英志とあさひは困惑顔を見合わせ、ふたり同時に首を傾げた。
そして――何かの足音が聞こえた、
ビクリと背後を振り返ったところに、『彼』が立っていた。
エナメルの靴にタキシード姿。
そつなく着こなした長身に品のいい黒の蝶ネクタイが映える。
そこだけ見れば、礼儀をわきまえた正装の男と言えなくもない。ただし取り繕いようもなく場違いな格好ではあったが。
だが問題は服装ではない。その首から上だ。
そこに乗っているのはシカの頭だった。
茶色と焦げ茶の模様につややかに濡れたような黒い眼。
草食動物特有の長い顔、ぴんと張った耳。
そして縦横に広がる枝角。
どこからどう見てもシカの頭だ。
かぶりものには見えない。もごもごと動く口元からときおり見える青黒い舌。素早く方向を変える耳。
首から上が、生きたシカの頭にすげ変わった男。
シカの頭にタキシード。シカの、頭に、タキシードだ。
疑いようがない。
コイツが『鹿頭』だ。