04 最初に来たのは『牛』
おおかたの生徒が席につき、古文の教師が教室に入るかはいらないかくらいの時に、それは起こった。
どこか遠くから、低く長くそして重い音が響いてきた。地響きにも似た、何か得体のしれない音。
「牛の鳴き声?」と、誰かが言った。言われてみればそんなふうに聞こえなくもない。
妙な話だ。
英志たちの暮らす青瀬市は、牛の鳴き声がいきなり聞こえてくるような環境ではない。それに鳴き声にしても異様に音量が大きいように感じる。
ではいったい何が――と思った次の瞬間、急に突風が吹いて教室の窓がカタカタと震えだした。
それは次第に強くなり、窓枠が軋むほどに強烈なものになっていく。まるで台風のような風だ。
「こら、もう高校生なんだから風が吹いたぐらいで騒がしくしない!」
教師の言葉で次第に落ち着きを取り戻しかけた教室は、隣の教室かどこかで上がった大声で再び混乱した。
「見てみろアレ!」「校庭になにかいる?」
クラスメイト達はざわめき、一斉に窓際に向かって集まった。
「牛?」「牛だぞ?」「なんであんなところにいるんだ!」「どこから入ってきたんだよあんなの!?」
窓から校庭を見た生徒たちは口々にそんなことを叫んでいた。
そして校庭側の窓を全開にして顔を出し、タイミングを図ったかのように一斉に携帯端末を取り出すと、パシャパシャとカメラに撮り始めた。
英志も好奇心に駆られ、窓際で我先にと押し合うクラスメイトの後ろから校庭を見た。
牛だ。
確かにそれは牛だった。
四足のがっしりした体に左右に揺れるしっぽ。白黒模様で、ホルスタインだろうか? 見るからに牛だ。
ただし、一箇所だけ普通の牛とは似ても似つかぬ部分があった。
頭だ。
そこに本来在るべき草食動物の大きな頭、コブのような角、ピンと横に張った耳、反芻する口――いわゆる当たり前の牛の頭は、そこにはなかった。
何か全く別のものにすげ変わっている。
牛が姿勢を変え、英志たちのいる学舎にその『顔』を向けた。
英志はぐっと息を呑んだ。
牛とは似ても似つかぬその頭部は、白い石膏の塊のように見えた。
粗い面で削ぎ落とされた現代彫刻のようで、大きさこそ牛の頭と大差のないもののようだったが、抽象的ながら明確に『人面』の形を示していた。
作り物の人面――『仮面』と言う方が正しいのだろうか。
ともかくそれを頭部に頂いた牛。あえて呼ぶなら『仮面牛』だ。
「あの牛……なんなん、あれ?」いつのまにか英志の横に並んでいたあさひが、眉をひそめながら言った。「なんかちょっと……ヤな予感がすんだけど……」
嫌な予感? 英志が聞き返そうとする前に、あさひは急に顔色を変えた。
恐怖とも、なんともつかぬ視線が英志に向けられる。
「アタマ下げて! 早く!」叫びながら、あさひは英志の袖を思い切り引いて強引にしゃがませた。
それと入れ替わるようなタイミングで、牛の鳴き声が響き渡った。
いや、それはもう鳴き声という範疇ではない。
耳を聾する巨大な咆哮、骨まで震わせるような絶叫、パニックさえ引き起こす悪魔じみた悲鳴――こんなものは牛の鳴き声、いや生き物の声だとは思えない。
直後、強風が轟音とともに吹き荒れた。
窓は開け放たれており、突風はそのまま教室の中に素通りで吹き込む。
教科書や文具、掲示物、あらゆる紙がを巻き上げ、むちゃくちゃにかき乱された。竜巻の中にでも放り込まれたようだ。
天井で何かが割れるような音がして、英志はあさひとともにしゃがみこんだまま頭を庇った。何が起こっているのか、落ち着いて周りを見ることすらできない。
数秒か、数十秒か。
荒れ狂った風はようやく収まり、教室はうって変わってしんと静まり返った。
いや、教室だけではない。
周りからほとんど何も聞こえなくなった。あれほど騒がしく校庭を見ようとしていた校内の生徒たちが、まるで一斉に口をつぐんでしまったように。
妙な胸騒ぎを感じながら英志はおそるおそる顔を上げ、いったいどんな状況なのかと周囲を見渡し――驚きのあまりその場で尻餅をついた。
「な、んだこりゃあ……?」
言葉が喉の奥でつかえ、心拍数が急激に上がり、軽いめまいすら感じた。
ついさっきまで窓際で画像を撮影して騒いでいたクラスメイトたち。
列をなしていた彼らは、全員が声も発さずぴたりと静止している。
自分の意志で身動きを止めたのではない。
凍りついているのだ。
彼らの体は、透明なクリスタルガラスのような何かに殻のように覆われていた。
その表面には白い霜がつき、冷ややかな空気を周囲に広げているようだった。
なぜそんなことになるのか説明がつかないが、氷としか言いようがない。
その氷に閉じ込められ、クラスメイトたちは――咄嗟にしゃがみこんだ英志たちを除いた全員だ――恐怖や驚きで唖然とした表情のまま凍りついていた。
「あっ!」あさひが驚きの表情で英志の制服を引っ張った。「塚本、背中、背中!」
切羽詰まった口調で言われて、英志は慌てて首を後ろにねじ曲げた。
「うあ!? なんだこれ!」
思わず声が裏返ったのは、制服の肩甲骨辺りから腰にかけて、クリスタルガラスの帯がじわじわと広がっていくさまが目に映ったからだ。
先ほどの恐ろしい咆哮――あれがクラスメイトたちを凍りつかせたとしたら、その余波が恰幅のいい英志の背中をかすめたとしてもおかしくはない。
問題は、その透明な何かが刻一刻と面積を広げ、熱を奪っていることだ。
「脱げ! はよ脱げ! 早くしないと全部凍るぞこれ!」
あさひの必死な叫びに、英志ははっと気づいて制服の上着を脱ごうとした。しかし中に板か針金でも入れられたようにつっぱって、うまく袖が抜けない。
原因は、貼り付いてその面積を広げている透明な氷だ。
どうなっているのか理解しがたいが、そのクリスタルガラスは曲げることも折れることもできないようだった。
「早く! どんどん広がっていってるってば!」
あさひはそう急かすが、英志も悠長にしているわけではない。
皮膚に染みこんでくる寒気はだんだん耐え難いものになってきている。
このまま氷が広がっていけば――あるいは目の前で彫像のように固まっているクラスメイトたちの仲間入りになってしまうかもしれない。
ぐっと奥歯を噛み締め、英志は脱ぐことを諦めた。両肩の部分を掴み、力任せに引きちぎったのだ。
ワイシャツ一枚になった英志はそのまま制服の上着を頭上に振りかざし、腹いせのように思い切り教室の床に投げ捨てた。
「ったく、何なんだいったい……」
悪態をつきかけた英志だったが、投げ捨てたはずの上着が奇妙な動きを見せていることに気づき、あさひと顔を見合わせた。
浮いていた。
破って投げたはずの上着の残骸が、重力に逆らうようにして床から30センチほど上に浮かんでいた。落ちずにそのまま空中にあるのだ。
コマ送りにしたように落下スピードが極端に落ち、さらに減速が続き、唖然とするふたりの前で、上着は増殖するクリスタルガラスの膜で全体を包まれて、空中で完全に静止した。
自分が阿呆のように口を半開きにしていることに気づいていたが、英志は驚きに閉じることもできなかった。
――なんだこの……何だ? あの牛が何かしたのか? 何のために?
「きみ、たち……」
突然うめき声がして、英志は後ろに倒れかけた。声がした方を見ると、古文の教師が窓際の生徒たちの群れから少し離れた場所に立っていた。
自分たち以外に無事だった人がいたのかと喜びかけたが、すぐに英志は文字にできない叫びを上げた。
教師の体は、体の右半身が凍りついていた。
透明なガラス層が半身を固め――その透明な層はじわじわと面積を広げ、まだ凍っていないの部分まで侵食していく。
理解できない現象だが、その氷がやがて教師の全身を完全に固め尽くしてしまうだろうことは容易に想像できた。
「先生!?」
わけのわからぬまま英志は教師のところに駆け寄った。
わずかな間にクリスタルガラスはアメーバのように足を伸ばし、腰から下はすでに氷漬けになっている。助けなければ、と思う一方で、こんなもの助けようがないとひと目で分かった。
さらに腹へ、胸へと凍りついていき、手の施しようもないまま喉元まで包みこまれ――震える声でただ一言、君たちは逃げなさいとだけ残して古文教師は全身を固められ、一切の動作を封じられた。
英志は立ち尽くし、唇を噛んだ。
特別慕っているとか、尊敬している先生というわけでもない。
だが最後まで生徒のことを案じる言葉には敬意を覚えた。
同時に、その言葉をいますぐ実行しなければならないことも。
窓際で凍りついたクラスメイトたちの頭越しに、校庭に立つ『仮面牛』が異形の頭を左右に振るのが見えた。
その石膏の仮面にうつろに穿たれた眼窩と口部には、表現しがたいどす黒い炎がうねりながらわだかまり、勢いを増している。
その禍々しさ。理屈を超えて、咆哮を放つ準備だと知れた。
混乱した頭でも、先ほどのすさまじい叫び声が、突風と異様な凍結現象と何らかの形で関連しているのはわかる。
『大声を浴びると体が凍りつく』などということは、普通に考えればあり得ない。
だが、現にそうなっているのだ。
「塚本! 塚本ってば! 早く逃げよ!」
あさひが必死な叫び声を上げ、英志の腕を引っ張った。
我に返り、一瞬の間に様々な考えが脳裏をよぎった。
わけのわからないことばかり起こっている。
この牛もそのうちのひとつか?
いや、どっちでもいい。とにかくこんなところで凍りついてなどいられない。
「わ……わかった! 行こう!」
ふたりは取るものもとりあえず、突風で乱された机の列を蹴飛ばすようにして廊下に転がり出た。
その背後で、またも仮面牛の狂おしい絶叫がほとばしるのが聞こえたが、ふたりとも振り返ることなく走り抜けた。