02 学校にて その1
いきなり机と椅子が床をこする大きな音がして、塚本英志は眠りから覚めた。
頭が真っ白で、状況をうまく把握できない。体も妙にこわばっている。
自己主張の強い黒縁の眼鏡を直してから、英志は周りを見渡した。
自分は椅子に座っていて、教室にいて、今は授業中で、クラスメイトの戸惑っているような面白がっているような目がこちらに向いている。
居眠りをしていたらしいということはわかった。
――いつから寝てたんだ?
思い出せなかった。
居眠りというか、完全に熟睡していて何時間も経っているような感覚だ。いまが何時限目だとか、何の授業中だとか、そういうことも頭の中で結びつかない。
よくわからないが、突然目が覚めたせいで体がびくりと痙攣して、机の足蹴っ飛ばしてしまったという――そんなありがちな小ハプニングを自分が引き起こしてしまったらしい。
教壇に立つ教師から何か小言を言われた。
だが何を言われているのか全然頭に入ってこなかった。気圧の変化で鼓膜がおかしくなっている感覚に似ている。
「……い、おい! 聞いとるのか塚本!」
教師の強めの注意に、英志はようやく朦朧とした状態から抜け出た。どうやらいまは英語の授業らしい。
「……ええと、大体は」
他人事のように答え、英志は今日一日の流れを朝から思い出そうとした。
寝て、起きて、通学して……いつものことのはずなのに、妙に曖昧で、それが今朝の出来事なのかさえあやふやだ。
何か違和感がある。
反省する風もなくぼんやりと考えこむだけの態度に教師の覚えがいいわけもなく、また小言が続いた。そんな図体で居眠りなんぞしてばれないと思っているのか、とかそんな内容だった。
言われたことには概ね異議はなかった。授業中に寝るのは褒められる行為ではない。
しかし体の大きさは関係ないだろうと小さな不服を感じた。
体格が問題なら、何をやったかなんて関係なく問題になるのではないか。
身体的特徴をあげつらう必要が今ここであるのか――と反論が思いつかないでもなかったが、英語教師だって別にそこまで大ごとに考えているわけではあるまい。些細なことだ。
そんなことを考えているうちに説教は終わった。
「じゃあお前、ちょっとここの文章を訳してみろ」
よく聞いていなかったので何でそんな流れになったのか分からないが英語教師にそう言われ、英志はやや窮屈そうな授業用の椅子からのそっと立ち上がった。
大きい。
教師の言った通りだ。
背が高い――というより体がでかい。横にも大きく、肩幅があり、厚みもある。
高校1年生としては平均をかなり上回る体格といえる。
もう一度眼鏡の位置を直してから、英志は黒板の英文を流し見た。
「……『私がトラクターについての広告を新聞に載せると、数日後に目つきの鋭い男性に用件を聞かれた。』」
特に苦もなく答えられ、英語教師は面くらったようだった。聞く気があるならそれでいいんだ、とごまかすように言って着席を促した。
何事もなかったように再び腰掛け、英志はなんとなしに教室の中を見渡した。
3時限目。いつもと変わらない風景。日常の匂い。並ぶ椅子と机とクラスメイト達。
そのとき、全く出し抜けに、劣化したグリスのようななにかぬるりとした違和感が生じた。
英志はもう一度記憶をさかのぼった。
どういうわけか、ピースの欠けたパズルのように時系列に並べられな。。
――日曜日にあいつらと……仲間たちと……ええと、誰がいたんだっけ? ともかくいつもの連中と一緒にいて……それからどうなったんだっけ?
――それから……夜になって、急に流星群が見えたから、それを見学するために丘の上の公園に行って、それから……俺達はそれから……。
ぞくりと違和感が走り、下腹が引き絞られた。
――何だこの記憶?
脳裏に蘇ったのは、赤黒いのノイズに塗れた爆発の光景だった。
隕石か何かが墜落して、そこで起こった大爆発に巻き込まれた……?
地面が焼け焦げる生々しい匂いが蘇り、鼻の奥がツンと痛んだ。
たしかキャンプ用の設備があったはずだから、そこでガス管か何かが破裂したのかもしれない。だが、そんな規模で収まるようなものとは考えられない。
轟音と閃光、激しい爆風に吹き飛ばされて、土煙と舞い散る破片が降り注いで……まるで至近距離で爆弾が破裂したかのように思える。
――いや、そんなはずはない。
本当に爆発があったとして、そんなものの間近にいて、今こうして無事でいられるわけがない。
無意識に制服の上から体のあちこちを触ってみるが、何ら変わったことはなかった。傷も痛みも何も。
――何かの間違いだ、そんなの。
気味が悪いほどリアルな夢か何かだろう。現実ではない。
たとえ何かが焼け焦げる匂いや熱さえよみがえるほどリアリティがあったとしてもだ。
だとしても――それでも説明がつかないことがあって、引っかかった。
爆発の件はひとまず置いておくとして、文字通り降って湧いた天文ショーを見物に行って、そこから帰宅したはずだ。
しかし思い出せない。いつどうやって帰ったのか、何の記憶も蘇らなかった。
どうやら、公園にいた途中から記憶が途切れている。思い出せるのは、ついさっき居眠りから飛び起きたその瞬間からだ。
日曜の夜。
そこから何がどうなったのか、今現在の授業中まで頭の中はただ空白だけしかない。
どう順序立てようとしても、半日以上記憶が飛んでいる。いったいなぜ? 何でこんなことが……。
と、そこで英志は半眼になってゆるくため息をついた。ちょっと興奮し過ぎだ。落ち着いて考えよう。きっと何か勘違いしているに違いない。
昨日の夕食が何だったか思い出せないのと同じように、たまたま覚えていないだけなのだろう。
学校での生活なんて、席について授業を受けるという点では昨日も今日も同じようなものだ。
ちょっと寝ぼけ気味だっただけで、悩むようなことではないはずだ。
ひとまず納得できる理屈をつけられた。爆発にまつわる嫌な感覚は残っているものの、これ以上考えていても埒が明かない。とりあえずは授業に集中しておこう……。
そう思った矢先、教卓に戻ろうとしていた英語教師が机に突っ伏して完全に熟睡している女子生徒の横で足を止めた。
あちゃあ、と英志は顔をしかめて無意識に前髪に手櫛を突っ込んだ。
遠野あさひ。
中学時代からの友人で、男女関係なく気軽に話のできる相手の一人だ。動きも性格も明るく軽快、笑いが大好きでどんな時でも隙あらば周り笑わせようとするタイプだが、のべつまくなしボケすぎるのが玉に瑕の……。
「おろっしゃあぁ!?」
奇妙な悲鳴が廊下まで響いた。教師に叱責されたあさひの、寝起きの第一声だ。
「ヤバっ、熱っ、いや冷たっ……メガネ……!」
わけのわからないことを口走り、あさひはきょろきょろと周りを見渡した。赤くなった右の頬には文具の跡が、口元にはよだれが、そしてかわいらしい赤いセルフレームの眼鏡が冗談のように斜めにズレている。
「よ~お寝とったのお?」教師は訛りのつよい口調で言った。
「ええ、寝付きはいいほうなので」
あさひは心ここにあらずと言った風に答えた。そんな返し方をされれば教師も注意の声を大きくせざるを得ない。
しかしあさひは反省どころかほとんど何も耳に入っていないようで、しきりに首をひねったり体のあちこちをぺたぺた触ったりしていた。
「聞いとるのか君は! というかその……よだれとかそのままでいいのか? まったく、せめて眼鏡くらい直しなさい」
呆然としたまま反応の鈍いあさひに対し、教師は怒るよりもむしろ呆れ混じりに心配し始めた。
そのときふと、聞こえるか聞こえないかの声であさひがポツリと漏らした。「ばくはつ……?」
聞きとがめた英志がわずかに身を乗り出し、同時にあさひは左斜めの英志の方を振り返った。ストレートの黒髪がふわりと揺れて、目があった。
瞬間、お互いが何を考えているのかをそれとなく悟った。何かおかしな事態が起きていると。
チャイムが鳴って、なし崩し的に授業は終わった。
不満気に教室を後にする英語教師の背中が見えなくなるのを待ってから、あさひは周りの机を蹴倒すように英志のところまで駆け寄り、無言のまま廊下の方を親指で指した。