三 訴え
街の中心にある古い高層ビルの事務所は、真夜中にも関わらず、ほぼ全部の明りがついていた。しかし中にいる人間はふたりだけだった。
応接コーナーに座ったままの同僚に、和泉は恐る恐る声をかけた。
「酒井さん、あの・・・・」
「なんや?」
酒井は長椅子の背に両肘をかけてもたれたまま、顔だけ振り向いて、和泉のショートカットのよく似合う小麦色の童顔を見た。
「あ、あの、病院へは、行かないんですか?・・・深山さん、まだ予断を許さない状態だって・・・」
「わかってる。板見が付き添っとるんやろ。」
「板見くんから連絡がないから、何も変化はないんだとは思いますけど・・。」
酒井は正面を見た。
「板見はひとりでおるんか?」
「はい。」
「和泉、お前、俺にかまってる時間あるんやったら、板見のところへ行け。」
「・・・・」
「怪我した本人は、あとは病院と本人の頑張りしかない。こういうとき、一番きついんは、かばってもらったほうや。板見のこと、見てやってほしい。」
「酒井さん・・・・」
「頼む。」
「わかりました。」
そのまま和泉は事務所を出て行った。
酒井は正面の壁を見つめたまま、長い間、じっと椅子に座っていた。
波多野部長が、続いて月ヶ瀬が応接室から出てくると、高原がまだ自席で作業していた。
高原の席の脇を通り過ぎようとした月ヶ瀬は、同僚が微かにこちらを見たことに気づき、口だけで笑って立ち止まった。
「山添に聞いたの?あの殺人専門エージェントくんのこと。」
「聞いた。」
堪えきれず、月ヶ瀬は吹き出すように笑い出した。
「あのさ、やめてもらえる?その・・・馬鹿みたいな表情。」
「・・・・」
「心配してますって、顔に大きな文字で書いてある。」
「・・・・」
「僕が山添に話したとおりの状況だったけど、・・・・そうそう、あいつらの第二のターゲットが指輪に仕込んでいた毒は、呼吸器系がやられるやつだった。すぐに息が止まってたよ。苦しかっただろうね。」
「そのエージェントを襲ったのは、どんな奴だ?」
「さあね、ほとんど見てないから覚えてない。・・・ねえ、あんまりそういう顔してると、波多野さんが心配するよ。」
「・・・・・」
「うちの大事な高原警護員は、どうしてうちのクライアントを狙った、敵の殺人者のことがそんなに心配なんだろう、もしかしたら実はあいつらの仲間なんじゃないか、って。」
「・・・・・」
「でもね。僕も実は、あのエージェントくんだけは、また会いたいと思ったよ。正直。」
「なぜ?」
「見たことがないくらい、腕が良かったから。あそこまでのレベルだと、もう美の領域だよね。君があのエージェントを気に入った理由のひとつもそれなんでしょ。」
「そうかもしれない。」
「そういう意味では僕は他人のことは言えない。」
「そうだな。」
月ヶ瀬は、今度はその冷たく美しい両目に、微かな笑みをよぎらせた。
「君と奴とが本気で殺しあったら、どっちが勝つんだろうね。」
「・・・・・」
くすくす笑いながら、月ヶ瀬は、明らかに不愉快そうな表情になった高原を見下ろす。
「いずれにせよ・・・エージェントくん、助かるといいね。そこは、賛同するよ。」
「・・・・そうだな。」
そのまま月ヶ瀬はロッカーへ上着を取りに行った。そろそろ日付が変わろうとしていた。
もう夜明け近くと呼んでいい時刻の事務室に、携帯電話のコール音が鳴り響いた。
三回コールされた後、応答された電話機の向こうから、不満そうな低い声が届く。
「凌介、冷たくない?親友なら、僕が目を覚ましたとき一番近くで見守っててほしかったんだけど。」
「アホかお前。ドラマやあるまいし。」
「板見くんも和泉さんもここにいて優しく接してくれてるよ。」
「そりゃよかったな。」
「吉田さんもさっき来てくださった。」
「ほう。で、お前の大事なお兄さんは来られたんか」
「・・・・・来ないよ。」
「ははははは」
「あ、和泉さんが電話かわってほしいって。」
電話の声が、女性に変わる。
「もしもし、酒井さん?すみませんこんな時間に。一報は行ったとは思うんですけど、どうしても深山さんが一言電話で文句・・・あ、いえ、話をしたいって言うもので。」
「ええけどな、和泉。今もう電話なんかかける元気があるんやったらもうちょっと早く目を覚ますことでけへんかったんかって、言っといてくれ。じゃあ俺、もう寝たいからこれで。」
電話を切り、大きく伸びをした酒井は、すぐに後ろの人物の気配に気づいて振り向いた。
電話で噂をされていた、金茶の髪と緑の目をした社長が、首をやや傾げるようにして苦笑しながら酒井を見下ろしていた。
「祐耶に責められた?」
「ええ。俺も、社長も、来てくれへんって、文句言ってましたわ。」
「あははは。」
「・・・社長が、そこまで臆病者だとは、初めて知りましたけどね。」
「お互い様だよね、酒井。しかも私よりずっと早く、駆け付けられたはずなのに。友達甲斐のない。」
酒井は目を逸らして笑った。
「祐耶も人のこと言えませんよ。いつか俺が負傷したとき、あいつは、俺がほとんど治りかけのころになって、初めて病院へ来ましたからね。」
「そうだったね。そういえば私は、あいつに早く病院へ行ってやれと勧めた記憶があるけど、なんだか、拒否された。そうか、同じなんだね、今回のお前と。」
「そうでしょうな。」
「類は友を呼ぶんだね。」
「血は争えない、とも言ってほしいですね、祐耶の愛する兄であらせられる阪元社長さん。」
「ははは。・・・・ところで、酒井。」
「はい。」
「板見のほうは、どう?」
酒井は正面をゆっくり見て、しばらく黙った。
「殺人案件はいくつか担当したけれど、実際に最後まで行ったことはたしかまだなかったよね。」
「・・・・・そうですな。人を殺したのは、初めての、はずです。」
大森パトロール社の朝は遅いことが通常だが、昼前に山添が事務所に着くと、夕べ遅くまで波多野に説教されていたはずの月ヶ瀬が、すでに自席で作業しているのが目に入った。
「おはよう、月ヶ瀬。」
月ヶ瀬は顔を上げ、山添の顔を見てしばらくしてから、挨拶を返した。
山添は月ヶ瀬の席まで行き、立ち止まる。
「波多野さんにだいぶ説教されただろう。悪いけど、俺は、見聞したことは正確に上司に報告する主義だから。」
月ヶ瀬は笑った。
「そういう性格、大好き。」
そのまま月ヶ瀬は手元の端末へ目を落とし、山添はロッカーへ向かった。
カウンターで来客に対応していた事務員の池田さんが、月ヶ瀬の席まで歩いてきた。
「月ヶ瀬さん、今そこに見えたお客さんが、これを月ヶ瀬さんにって置いていかれました。」
池田さんは青い洋封筒を月ヶ瀬に手渡した。
太陽が高く空に上ったころ、事務所に戻ってきた板見は、応接コーナーの長椅子に長々と体を伸ばして寝ている先輩エージェントにおそるおそる近づいた。
「さ、酒井さん、またこんなところで寝て・・・・。風邪ひきますよ。」
「ん」
大きく伸びをして、酒井は目を開けて板見のほうを見た。
「酒井さん・・・・どうなさったんですか?」
「え?」
「お疲れなのは当然ではありますが・・・・なんだか、妙なお顔をされてますね。」
「そうか?」
「なにか、心配ごとですか?」
酒井は両手を頭の後ろで組み、目を閉じて苦笑した。
「お前もだんだん成長してるんやなあ。先輩としてはちょっと淋しいくらいやわ。」
「ええ?」
再び目を開け、酒井は後輩の大きな宝石のような両目を見た。
「板見、お前、なんか相談事とかあったら、いつでも・・・・恭子さんに相談せい。」
「酒井さんに、じゃないんですか?」
「ああ、俺はそういうのはちょっと、やからな。」
「ははは・・・。」
そのとき酒井の携帯の着信音が鳴った。
応答し、しばらく相手の話を聞いていた酒井の表情がわずかに和らいだ。
「なんや?ああ、板見やったらここにおるけど。え?」
酒井が電話を中断し、板見のほうを見た。
「病院の祐耶からや。お前に電話したいって、なんで先に俺の許可求めるんかよう分からんなあ。ちょうどここにおるから、電話かわるって言ったらそうしてくれって。」
板見は酒井から電話を受け取る。
「もしもし、板見です。」
「深山だよ。ごめんね急に。今回のことについて、ちょっと君に言っておきたいことがあって。」
「深山さん、今回、俺の代わりにこんなことになって、本当に・・・・」
「謝らないで。お礼もいらない。君は、エージェントでしょ。」
「はい。」
「まだ未熟な部分もあるけれど、腕の良さもセンスも今の段階としては十分だよ。あのときよく分かった。あとは、気持ちの持ち方だね。」
「・・・はい。」
「方法を選ばない。それが僕たちの考え方の全てだよ。殺人も含めて。それを使うのは、もちろん最終手段。しかし本当に必要なときは、ためらうな。・・・・これからも。」
「はい。」
「それから、おんなじくらい大事なことだけど・・・。命を、簡単に捨てるな。仕事のために、どうしても必要なときは、捨てるんだから。だからこそ、だよ。」
「はい。」
「・・・怖い?」
「・・・・はい。」
「手段を選ばぬ我々には、手段を選ばぬ報復が来る。あの凶器も我々のデータには存在しなかった。怖いよね。」
「はい。」
「大丈夫?」
「大丈夫です。自分にできることを、やるしかないですから。」
「・・・そうだね。」
正午の明るい太陽が降り注ぐ都市公園の入口で、向かいのコンクリートの人工池の浅い水面が漣とともに反射する光が、木々の隙間から漏れる光と交差する芝生の上で、
その男性は月ヶ瀬を待っていた。
あの人殺しとよく似た目鼻立ちをした、しかしもう少し背が高い、そして折り目正しい紳士は、目の前の黒髪のボディガードに笑顔で挨拶した。
「月ヶ瀬透さん。初めまして。阪元航平と申します。あのようなメッセージカードで突然にお呼びしてしまい、すみません。」
「初めまして。」
「弟を、助けてくださって、ありがとうございました。」
いきなり本題に入った相手を、面白そうに見つめ、月ヶ瀬は少しだけ笑った。
「弟さんは、貴方と本当にそっくりだけど、なんだか、全然違うね。」
「あはは、よく言われます。」
月ヶ瀬は襲撃圏ぎりぎりの距離まで来て、立ち止まる。
「つまり、あの殺人者は、助かったってこと?」
「はい。」
「それはよかったね。・・・・で、用事って、まさかそれだけ?」
「貴方は、本当に、魅力的なかたですね。そういうストレートな言い方、大好きですよ。あ、失礼。ほかにも用件はあります。」
「・・・・」
「二つ目。告白です。前から、貴方のファンだったんです。うちのエージェントをあのリゾートホテルで助けてくださったときから。」
「助けたのは僕じゃないけど。」
「助けてくれた河合さんを助けてくれましたから。」
「・・・・あといくつ、用事があるの?」
「ひとつだけです。あと。・・・お誘い、です。」
「・・・・・あのね、僕は、それほど忙しいわけじゃないけど、貴方が思っているほどは、ヒマじゃないよ。」
「お許しください。」
「貴方たちが、河合警護員にリクルート活動をして見事に失敗したことは、僕も知っている。」
「貴方をいきなりうちの会社にお誘いしているわけじゃありません。取引したいだけですよ。」
阪元は異国的な顔立ちに似合う深い緑色の両目で、静かに笑った。
「それ、長くかかる話?」
「すぐに終わります。まず、正直に申し上げます。我々は、貴方が、欲しい。」
「そう。」
「しかし、一筋縄ではいかないことも、わかっています。ですから今お願いしたいことは、ひとつだけです。そしていずれは、もしも可能ならば、さらに我々の話を、聞いてほしい。」
「犯罪者の話を聞くの?」
「そうですよ。きっとこの考え方だけは、遠からず一致できるのではないかと、思っているんです。・・・・合法には合法を。そして、違法には違法を。」
「・・・・・」
「まずは、今すぐに、お願いできないかと思っていることについてです。」
阪元が再びまっすぐに月ヶ瀬の美しい切れ長の両目を見つめた。