第三二話
「な、なんで、どういう事? さ、さっきのイタズラも伐がやったの?」
「……」
「答えてよ!?」
クリスは黒い靄に囚われた恐怖に原因が知りたいようで伐に詰め寄るが、彼女の突撃を伐はひらりと交わすとソファーに戻って行く。
納得のいかない状況にクリスはすぐに伐を追いかけてソファーに座り直すと説明を迫るように鋭い視線を向ける。
そんな彼女に伐は小さくため息を吐くとタバコの煙を天井に向かって吐き出すと面倒だと言いたいのか頭をかいた。
「……伐?」
「お前の身体にまとわりついたのか俺が原因じゃねえよ。さっきのはお前自身が呼び寄せた物だ」
「ちゃんと説明してよ」
クリスは怖い思いをしたせいか、原因を聞かないと納得できないようで頬を膨らませて彼の名前を呼ぶ。
頭をかきながら伐は自分のせいではなく、クリスが原因だと言うがそんな説明で納得などできるわけもなく、クリスはテーブルを叩く。
「……面倒だな」
「伐」
「……歪み」
「ひずみ?」
伐は視線をクリスに向けると『歪み』と一言だけ話す。
聞きなれない言葉にクリスは首を捻りながらも伐が話してくれる気になった事は理解したようでソファーに座り直して彼の次の言葉を待つ。
「……幽霊や妖怪で良いか?」
「ちゃんと、説明をしてって、どこに行くの!? ……普通にビールを飲んでいるけど、未成年だよね?」
すでに面倒になったようで適当に終わらせようとする伐の様子にクリスはもう一度、テーブルを叩くと伐はソファーから立ち上がり、事務所を出て行こうとしている。
彼の様子に気づき、クリスが声を上げると伐は缶ビールの空き缶を見せて事務所を出て行ってしまう。
缶ビールの缶を見てクリスは伐が缶ビールを取りに行った事は理解できたようで彼の背中を見送るが伐が年下だと言う事を思い出して眉間い深いしわを寄せた。
「あ、ありがとう」
「……」
クリスがしばらく待っていると伐は缶ビールとともにペットボトルのジュースを一本持って戻ってくる。
伐は缶ジュースをクリスに手渡すとソファーに座り直し、缶ビールを開く。
クリスはせっかく、伐が持ってきてくれたジュースを飲まないのは悪いと考えたようでペットボトルを開けて一口、口を付けるが話の内容が気になっているためか、視線は伐に向けられたままである。
「……現世と隠世の間で生きる存在、エサは嫉妬や妬み、絶望と言った人の負の感情。エサになりそうな自覚があるだろ」
「それは……あるけど、簡単には信じられないよ」
彼女の視線に伐が言葉を発するとクリスに向けて歪みと言う存在に付け込まれる心当たりがないかと聞く。
クリスの情報処理能力は決して低くないため、先ほど、歪みに取り込まれそうになった体験も重なり、歪みを理解しようとするがそれでも完全に理解するのは難しい。
「それなら、もう一度、取り込まれてみれば良い。戻ってこられるかは知らねえけどな。今のお前なら、簡単に呼び出せるぞ。上質のエサは力をつけるのに良いらしいからな」
「……それは絶対にイヤ」
伐はタバコをふかしながら、歪みを呼び寄せてみろと言う。
その言葉にクリスは歪みの中に囚われた時の事を思いだしたのか、顔を青くして身体を震わせる。
彼女の様子から歪みに囚われると負の感情に心が傷つけられる事は容易に察しが付くが元々、歪みと言う物を知っている伐には興味などないようでタバコの煙を肺一杯に吸い込むと天井に向かって吐き出すと彼の背後から黒い靄が上がり出す。
「伐はあの歪みを扱えるの?」
「別に扱ってなんかいねえよ。こいつらは俺を上質なエサとして食うスキを狙っているだけだ。簡単に食われてやるほど、俺はマヌケじゃねえし、歪みは共食いもするからな。俺の側だと俺が食えなくてもエサにありつけるから、余所に行かねえだけだ」
「そうなんだ……」
歪みが伐のタバコに火を点けていた姿は彼が歪みを完全に扱っているように見えたようでクリスは遠慮がちに手を上げる。
伐の背後の黒い靄は黒い腕に形を変えると伐を捕らえようとしているのか、彼をつかもうとするが、先ほど吐き出したタバコの煙が黒い靄に絡みつき、部屋の中で青白い光を放つ。
クリスは伐が歪みと共存していると考えていたのだが、実際の関係では歪みが淡々と伐を食らうスキを狙っているだけであり、彼女は伐の事が心配になったようで表情を曇らせる。
「……危なくないの? それっていつも命を狙われているって事だよね?」
「命が狙われているってのは少し違うな。歪みに食われると同じ存在になるんだ。こいつらと同じように他人の負の感情を探して食らい。仲間を増やして行く」
伐の身が危険と言う事を彼の口から否定して欲しいようでクリスは願うように聞く。
その言葉に伐はけだるそうに欠伸をしながら、歪みに食われた人間は歪みに変わってしまうと答えるとクリスはなんと反応して良いのかわからないようで顔を伏せてしまう。
「伐は食べられちゃったりしないよね?」
「勝手に話を決めつけて話すんじゃねえよ。俺が歪みに食われていないなんて言ったか?」
「それって……待って。冗談だよね? 伐はここにいるでしょ。温かいし、さっきの歪みとは違うよ」
クリスは顔を伏せたまま、伐に気を付けてと言うが彼は彼女の質問をあざ笑うように聞き返す。
その言葉にクリスは考えたくない答えが頭に浮かんだようで顔を見上げると保護されてから触れた伐の温かさは嘘ではないと確認したいようで彼の手をつかもうとしたのか手を伸ばした。
触れられる事のできた伐の手には確かに温かさがあり、クリスは安心したようで胸をなで下ろすが伐の表情に変化はない。
「体温なんて、どうにだってできるな」
「え?」
「……俺がお前をここに置いているのは食い時を待っているとか考えなかったか?」
伐は冷たい笑みを浮かべるとそれと同時にクリスが触れていた彼の手は体温を失って行く。
その変化にクリスは伐の顔へと視線を向けるが先ほどまでソファーに座っていた伐の姿は完全になくなっている。
クリスは嘘だと思いたいようで伐を探そうと周囲を見回そうとするが、身体には黒い靄が巻き付いており、身体を動かす事ができない。
何が起きたか理解しようと頭をフル稼働させようとする彼女の耳元に感情を殺したような淡々とした伐の声が響く。




