ファーストインプレッション 4
発表会までの自分らはこの日の前と変わらず、練習時の会話はほぼなかった。弾いている間の互いのやり方も同じで、呼ばれる時に「森矢」ときちんと名字が出てくるのだけが進歩だと思う。小さい、しかし確かな進歩。「鷹野君」から「鷹野」になったのも同じく。
発表会の日はあっという間にきて、前日わくわくし過ぎて夜中までずっとマンドリンに触っていた。ソロとデュオと合奏。三つもあるんだやった! と単純な愉快さがあって――朝、母親に「あっくん、今日は一人で帰らなきゃだめなのわかってる? 電車で寝過ごさないようにね」と笑われた。遠足の前日なんかはすこんと寝てしまうのに、マンドリンはやはり自分の中で他と格が違うと思う。
「眠い」
ふあ、と鷹野は盛大に欠伸をしていた。調弦が終わったら触らない主義らしく、ケースの中に仕舞ってあった。
「寝れなかったの?」
「ゲームでな」
「鷹野っぽいね」
「オマエは?」
「え。楽しみで楽器触ってたらつい……」
「徹夜?」
「ちょっとは寝たよ」
「よくやるわ」
はは、と笑われた。そっちもね、とお返しをする程度には打ち解けている。
緊張する度合いは人それぞれで、ピークがくるのは控え室だったり舞台袖だったり色々だなと周りを見ていると思う。自分も緊張はするが、袖から舞台へ足を踏み出したら全部吹っ飛んでしまう。後はやるだけだと腹が据わるのも皆大概この時点かもしれない。すうっと息を吸って、吐く。
「行ってきます」
「ん。やっといで」
先生の声に背中を押されて歩き出す。革靴なんて普段は履かないので、背筋がぴんと伸びる感覚がした。カウントダウンのように僅かに堅い足音が鳴る。
ソロは、孤独だ。何度も思う事だ。発表の場に出、礼をし、椅子に座る事から全て見られている。奇妙な緊迫感に襲われながら、それすらわくわくしてしまう自分がいる。大勢を自分の空間に引き込めるなんてなかなかできないじゃないか?
楽器を構える。もう何年も扱ってきたマンドリンは手に馴染んでいて、寄せる信頼は絶大だった。
――よし。行こっ、
全神経が研ぎ澄まされた状態になれる快感はここでしか知らない。
弾き出せばそこは文字通り独壇場で、呼吸すら止まりそうな静寂の中で伸びやかな音色だけが耳に届く。自分の世界に入りながら、観客の意識も一緒に引きずり込める音はやはりすごいと思った。
最後の一音まで弾ききって拍手が鳴る中で、浮遊感に包まれてそこに立っていた。ああ、まただ、と。
* * *
「あーやべえ、緊張する」
「珍しいな」
「俺一人じゃねっすからそれなりには…」
「いつも通りぶっ飛ばしてくりゃいいんだよ。しかも二人掛かりだしな」
「あー、まあ……じゃ、まるっと食ってきます」
「言うよなあこいつは!」
「若い証拠さね」
「おーし、行っとくか」
心底楽しみで、にやっと口元を吊り上げる。いっそ不敵に映るであろう自分の態度は毎度の事だ。森矢はへらりと笑っていた。こんな時まで掴み所がない雰囲気は変わらない。
アナウンスの後に舞台に出、椅子に座ったまではよかった。切っ掛けは森矢が出すはずが待ってもそれが来ない。はて、と見ていると相手もぽかんとこちらを見ていて――それが驚いたような目をしている気がして、何だ、と目で訴える。さっと見分して気が付いた。
――ピック、ねえ!!
馬鹿だこいつ! と本気で呆れた。予備も無いらしいのでどうしようもないという事だろう。こちらは青くなったが森矢は落ち着いていて、舞台袖に向けて手をちょいとあげる。それから静かに立ち上がって一人舞台袖に引っ込んでいった。やってしまった事は間抜けなのに、妙に優美な足取りで。
戻る時もごく冷静だった。観客に向けて一礼してから席に着く。こちらも何事もなかったように振る舞わなければならないわけで、大丈夫かなどとは顔にも出さない。
――後で蹴るコイツ
それだけ決めて、森矢に切っ掛けを促した。仕切り直しだ。にこりと笑みを浮かべたその顔は、普段の練習の時には見たことがなかった類のものだった。それにまた「ん?」とさせられる。その理由は始まってから感じた。
これまで何度も合わせていたはずなのに、この時の森矢の奏でた音は本当に凄かった。体の奥まで響いて、芯から揺さぶられる何かがそこにあった。同い年で楽器歴もさほど変わりないはずで、なのに彼には自分に無い物が備わっているのだとこんな場で感じるとは。――普段の天然っぷりはどこ行った?!
演奏は滞りなく終わり、言ってしまえば練習通りに全て進んだ。けれど聴く者だけでなく自分まで丸飲みしたのはここが舞台だからか?
彼がソロの時から"飛んでいた"らしいと知ったのは舞台袖に引っ込んでからで、尻に蹴りを入れたのを森矢は数瞬遅れて盛大に痛がった。
「え、ちょ、何!?」
「何じゃねーっつの! どこ行ってんだオマエ」
「あ――…ごめん……」
「ピック忘れるとかバカか!」
「ごめん。ポケットに入れてたはずなんだけど違ったみたいで」
「まあいーけどさ…」
「……うん、」
よかった、と彼はぽつりと呟いた。まったくだ、と憮然としていると「ごめん。埋め合わせはいつか」とだけ言って森矢はふらりと舞台袖から引き上げていった。次の出番までまだ間があるので自分もそれに続く。
控え室ではふ、と漏らされた吐息を合図に、森矢は合奏までぴくりとも動かなくなった。壁に凭れて目を閉じているらしい彼はひどく消耗している風に見える。徹夜なんかするからだろうと呆れた。
「あれ、森矢君寝てんのか?」
「みたいっすね。師匠ーよかったっすか? さっきの」
「本番に強くて何よりだったよ」
つまりよかったという事か、と嬉しくなって顔が緩んだ。
「……天才ってのはいるもんだな」
「はい?」
「すごかったって話。豹変っつーのかね、彼の」
「えーと…森矢っすか? そんなに?」
「お前とやらせて正解だったな。ありゃあ下手したら空中分解するとこだったかもよ」
正直驚いた。いつも通りやりやすかったのに、端から見たらそんな危うかったのだろうか?
「お前と同じ、あの子も先行き不安だっつってんの」
「ちょ、何すかそれっ」
「丸くなれよーツンデレのままだとまずいぞお前。続けたいなら大人になれ」
「ええぇぇぇっ?」
先生はからから笑っているが、言われた側は堪らない。意味不明なんだけどとしか思えなかった。
森矢は合奏直前まで起きなくて、演目が終わり撤収作業が粗方できた頃、先生と何かしら話をしてそっと帰って行ってしまった。打ち上げには出られないのかとちょっと残念だった。ちらりと見えた横顔はどこか違う場所を見ている風で、「お疲れ」と掛けられる声には会釈するのがやっとらしかった。本当の意味で全部持って行かれる奴は実際にいるもので、さて自分はどうだろうなと思い、彼がほんの少し羨ましくなった。
「懐かしいな、」
ぽつんと呟き目を細める、未来。
*
とんでもない奴らの始まり。
生意気だ!と書きながら鷹野をぐりぐりしたい気分になったり(´ω`)森矢はすごい子な分跳ね返りも大きい少年だったのよとゆーだけの余談です。楽器、大変。
また息抜きに何かupするかもしれません。その時はまたよろしくお願いします!