11色の色鉛筆
0.
僕の知っている彼女は小学生の頃からスケッチブックと色鉛筆を持ち歩く癖があった。 誕生日に買ってもらった本物のスケッチブックと色鉛筆のセットである。美術家が愛用するような、本格的な画材だ。
スケッチブックの表紙が無地で、それが彼女を大人っぽく仕立てていたのだが、悲しいことに彼女は昔から小柄な女の子だった。
大きなスケッチブックは彼女には不釣合いだったのである。
けれど、他人がどれだけ言っても彼女は決してスケッチブックを誰にも渡さなかった。
誰も知らないスケッチブックの中身に様々な憶測が飛び交った。
クラスメイトの悪口だとか、酷くグロテスクな絵だ、とかいろいろ言われていた時期もある位、彼女のスケッチブックは謎に満ちていた。
火のない所に煙は立たない、とは言うけれど、彼女は火を消すどころかそんな噂などどこ吹く風で毎日スケッチブックを手放さずにいた。
人の噂も七十五日。当時最大の関心ごとであった彼女のスケッチブックにも次第に興味が無くなったのか、変な噂は気がつけば自然消滅していた。
そんなある日のことだ。
僕は彼女がそのスケッチブックを開き、何かを描いている所に遭遇した。
桜の季節が過ぎた後だった。水たまりに花弁が浮いていて、彼女はそれを見ていた。
「どうして……ここに?」
「……たまたま? 僕もこの桜を見に来たのだけれど」
「……」
「散っちゃったね。昨日の雨のせいかな」
見上げた桜の木はもうすっかり葉っぱばかりになっていた。咲き誇った桜の影は何処にもなくて、送りだした卒業生の後を追うように次々と散っていた。
もう蕾は見当たらない、そんな桜の木の下で僕と彼女は目が合った。
「……な、何をしたら黙っていてくれる?」
声が震えていた。クラスメイトに対してここまで警戒心をあらわにしなくてもいいのに、と言うのはあれか僕の独りよがりな考え方のせいにしておく。
「何を黙ればいいのかにもよるけど」
「私がここで絵を描いていること、黙っててほしいの。まだ描き上げていないのに、絵を描いているところを誰かに見られたくないわ」
「ふーん……じゃあ」
少し考えて、花弁がまた一枚水たまりに落ちていった。
「じゃあ、そのスケッチブックの中身を、一度でいいから見せてくれないかな? それだけでいい」
「……ホントにそれだけ?」
「うん、それだけ」
彼女は酷く安心したように息を吐くと、スケッチブックを一度閉じた。
「他の誰にも言わない、って約束してね」
悪戯を隠していたい子どものように微笑んだ彼女は存外、何の迷いもなく件の無地のスケッチブックを渡してきたのだった。
「じゃ、じゃあ、見ます」
「どうぞ」
一ページ、また一ページとめくるたびに僕は次第に自分がこのスケッチブックをめくっていることを後悔した。
僕が、僕程度の人間が見る様な絵ではなかった。
春、田んぼを彩る蓮華の花が咲き誇り、夏、入道雲の向こうに飛び急ぐ鳥の影を見つめ、 秋、落ち葉と踊る風に目を細めて、冬、澄んだ空気にぽっかりと浮かぶ月を見上げる。
そこには四季折々の花鳥風月が描かれていた。写実的で、けれどどこか空想のようにも見える不思議な絵画がそこにはあった。
無地な表紙からは想像もできないほどにカラフルで幻想的な空間が紙の上に広がっていたのである。
「これは……」
言葉が出てこない。どんな称賛も、どんな形容もし難いほどに彼女の絵はその存在自体が圧倒的だった。少なくとも僕が生きてきた十数年の中では最も心を動かされた瞬間である。動かされた、と言うか殴られた、と言うか。
押し潰されてしまいそうなほどに重たいのに、薄氷のような繊細さも持っていて……どうしようもなかった。居場所が無かった。ここは僕のいるべき場所じゃない、と本能が痛感した。
「えへへ、どう? まだまだでしょう?」
まだ上を目指すのか。まだ上があるのか。
紙の重なる音を立てながらスケッチブックを閉じる彼女は夢を見る様にこういうのだ。
「もっと綺麗な絵が描きたいな」
青く澄み渡った空に、言葉を染み込ませるような、そんな言い方だった。
1.
窓の外は曇り空だった。どうしようもない位に灰色で、黒かった。
雨が降るのも時間の問題だよ、と暗に語りかけてくるような空模様である。
そんな中、中間考査最終日、最終科目、数学Ⅲは僕のなけなしのプライドと努力を何の容赦も遠慮もせずに消し去った。
完敗である。自棄酒の乾杯をしたい気分だ。
「それでは出席番号順に解答用紙を提出してください。提出した者から放課後とします」
試験監督の声がチャイムと同時に聞こえてきた。諦めの解答用紙は存外あっけなく、他の人の解答用紙にまぎれて消えた。
次に解答用紙とめぐり合うのは赤点が付けられたあとである。
ため息も出てこないほど。
「何をしていたのだろうか……」
悔いても悔いきれないのがテスト後である。すでにクラスメイトの間ではカラオケに行く、だとかファミレスに行く、だとかそんな打ち上げの話がちらほら上がっている。何と切り替えの早いこと。
どうしようかなぁ、なんて話半分で考えながら僕は廊下へ出た。クラスメイトのグループ化の波に取り残された僕は何処へ行っても気を使うだけだった。
「……でも、何をするにしてもとりあえずこの重たい参考書をロッカーに入れることが最優先だな」
全重量3kgの参考書の束をまとめてロッカーに放り込みながら、ふと隣に人の気配を感じた。
「あ、テストお疲れ様。どうだった?」
「テストはいつも通り、微妙なところですな。ふぃちゃんは?」
「ま、いつも通り、微妙なところですな」
黒くて長い髪、黒ぶち眼鏡とベレー帽、いつも通りの「ふぃちゃん」はいわゆる僕の幼馴染で、他愛のない雑談を交わすことのできる数少ないクラスメイトの一人である。
「参考書、持って帰らないの?」
「こんな重たい物持って帰ってもどうせ家では勉強しないよ」
「まぁね、確かに」
ふぃちゃんもまたそれが当たり前、と言わんばかりに参考書をロッカーに入れているのである。
僕と違うのは放り込んでいないこと、位か。
「それで、今後の予定は? どうせまた一人で図書館とか?」
「……ま、まぁ、そうだね……」
「ふーん。ねぇ、じゃあさ――」
パタン、とロッカーを閉じたふぃちゃんがぐっと間合いを詰める。
「――私に付き合ってはくれないかしら?」
微かに香る甘い匂いがふぃちゃんの物だと気付いた頃にはもう頷いていた。それ以外の選択肢は彼女の中にはどうせないのだから仕方ない。
「うん、ありがとう、君ならきっと頷いてくれると思ったわ」
すっかり上機嫌のふぃちゃんはいつものように少ししか入らない肩掛けのカバンからスケッチブックを取り出した。
「じゃあ、行きましょうか?」
にっこりと、彼女は廊下を歩き始めた。
曇天の中、ふぃちゃんは何の迷いもなく街を通り過ぎて公園に入った。その公園には錆びてはいるが遊具がいくつか存在していた。
滑り台やブランコや、ジャングルジムなどなど。端っこには砂場もあって、誰かが作った山の残骸が雨に打たれて潰れかけていた。
屋根のあるベンチのペンキはもう剥げていて、座るには少し抵抗があった。ふぃちゃんは迷うことなくどっかりと座った。
「ところで、どうしてここに連れてこられたの?」
「そんな……愚問よ。私が描いている間、誰にも話しかけられたくないから避雷針に、と思って」
人を平気で避雷針と呼ぶ。
「それじゃ、僕じゃなくても……」
「私が絵を描いている姿を、実は君以外は見たことがないのだけど?」
「美術の時間は? あれだったら誤魔化せないだろう」
「私は音楽を選択しているのよ、ご存知ないかしら? 我がこう始まって以来の天才歌姫ことふぃちゃんなのよ」
「……はいはい。でもまぁ、いいや、とにかく早いところ描いてしまおうぜ。 こんな天気じゃいつ雨が降ってきてもおかしくはないしさ。濡れたくないし」
一応折り畳み傘をカバンの中に仕込んでいるのだけれど、本降りの雨を防ぐには心許ない。できれば雨が降る前に帰りたいところである。
「え、何を言ってるの? 雨の降る公園を描きにきたに決まってるじゃない」
「……」
さすがふぃちゃん、目の付けどころがシャープすぎてついていけない。
「ふぃちゃん、傘持ってるの?」
「ないわよそんなの。最初から濡れるつもりだったもの」
「……それ本気?」
「私が冗談でこんなことを言ったことがあった?」
「……わかったよ。最後まで付き合ってやるから――」
「――ちゃんといい絵を描けよ、でしょ? わかってるよ」
ふぃちゃんはスケッチブックの真っ白なページを開くと鉛筆を握った。
「だったらいいよ、何も言わない。……お、雨か」
滑り台にぽつぽつと音を立て始めて、やがて大粒のそれに変わっていく。街を走る車の音が次第にぼやけて消えた。
スケッチブックは湿っていた。言うまでもない。けれど、そんなことなどお構いなしに彼女が手を動かした。
錆び付いていたはずの公園が心なしか活気付いているようにも見える。
錯覚か。
色鉛筆ケースを開ける音が聞こえて、どうやらこれから着色に入るらしかった。彼女の言葉を借りるなら、色までつけて下書き、らしい。
もうしばらく掛かりそうだ。
彼女が描いている間、僕には居場所がなかった。唯一の話し相手はスケッチブックとにらめっこをしているし、ブランコに揺られようにもこの雨では外に出る気にもなれない。
ふと見上げた屋根の裏に落書きがしてあって、それを辿ると屋根を支える柱のあちこちにも落書きがしてあった。
相合傘、というのだろうか。アンテナみたいな記号の中に男の子の名前と女の子の名前が書かれた落書きが一番多かった。不思議なことに女の子同士の名前はあっても、男の子同士の名前のそれはなかった。
どうやら場所が足りなくなって、それでついに屋根の裏にまで伸びていったらしいこの落書きもとい記号の羅列はこの柱に刻まれた呪いのようにも見えた。
呪い。御呪い。そういう意味で行けば、彼女もあるいは呪われているのかもしれない。
「……っと、もう少しでできるよ」
後ろの方でふぃちゃんの声がした。思考タイム終了のチャイムだった。
「お疲れ様」
「ん。もうちょっと待ってね」
「わかってる」
そしてまた彼女は色鉛筆を動かした。
雨の音が弱くなる代わりに、紙の上を摩擦する音が少しだけ大きく聞こえた。
結局今回もどんな絵を描いたのか僕は最終的には見せてもらえそうになかった。
彼女は一枚の紙の上で下書きから完成までさせるため、スケッチブックを持ち歩くということはすなわち、完成品を持ち歩くことに他ならない。
雨が弱くなったところで、一つしかない傘を彼女に渡して僕は少し濡れながら駅まで歩いた。ふぃちゃんは僕よりもスケッチブックが大事と判断したらしい。
彼女にして見ればそれは至極当然のことらしく、僕はちょっとだけ悲しかった。
「今回も見せてくれないの?」
「うん。例に違わずダメ。それにほら、ちゃんとお礼はしたでしょう?」
「ん? 何も貰ってないけど」
むしろこっちが傘を渡している位だ。
「私みたいな美少女と二人きりでいられたのよ? 感謝しなさいよ」
あまり大きくない胸を張ってふぃちゃんは大威張りである。
「……はい?」
「嘘です、ごめんなさい、ホント冗談です出来心です、今度駅前のおいしいパフェをおごるから許してください」
「パフェよりもふぃちゃんのクッキーの方が好きなんだけど?」
「じゃ、じゃあ、今度それを作ってくるから許してください」
「うん、それならいいよ」
……全く、力関係のわからない二人だ。自分のことながら呆れてしまう。
折り畳み傘もあまり濡れないほど、雨は遠くに去っていた。通り雨だったのだろうか。
「じゃあまた明日、学校で」
「うん、今日はありがとう」
彼女は元気に手を振って横断歩道の向こうに消えた。
そこで思い切り手を空に向かって伸ばしてみる。高く、高く、さらに高く。凝り固まっていた体のあちこちが悲鳴のような痛みを上げる。心地よい疲労感。
「はぁ……テスト終わり、っと」
ようやく肩の荷が下りた様なそんな気がする。自分のベッドに横たわって僕の視界もまもなくブラックアウトした。
2.
僕は昔から口下手である。したがって昔の話をする、というのはあまり得意ではない。しかし、けれどこの話をしないことにはいつまで経っても物語は進まない。
本当はしない方がいいような、そんな昔話である。
昔々、と言っているけれどほんの数年前の話だ。僕にとってはもうだいぶ昔のことだけれど。
そんな昔話の結論から言うと、ふぃちゃんは“青色”を認識できない。
目が悪いわけではなくただ純粋に青が認識できないのである。色覚異常ともいう。病気というよりも呪いに近いのかもしれないその症状は絵描きである彼女にとって致命的な呪いでもある。
彼女の絵には青がない。
海もなければ空もない。
青、という言葉は知っていてもそれがどんなものなのかは分からないのである。
十二色一セットの色鉛筆も青の部分だけは空っぽのままである。彼女が青い物を手にしているところを見たことがなかった。
彼女にはこの世界がどんな風に見えるのだろうか。
青くない空、青くない海。
青くない朝、青くない夜。
六色の虹、十一色の色鉛筆。
何かが足りないのだけど彼女にはそれがわからないのだ。
ふぃちゃんは青がなくても素晴らしい絵を描けるけれど、それはもしかしたらふぃちゃんは青がないから、青を知らないから素晴らしい絵を描くのかもしれない。
ふとそんなことを考えてしまうのだ。
以下回想。
何年前だったかすでに忘れてしまったけれど、その日は梅雨の間の晴れた日のことだ。
雨ばかりで部屋に閉じこもりっきりになってしまった僕らはその晴れに歓喜して喜び勇んで外ではしゃぎ回っていた。
久しぶりの青空に、普段は沈みがちの心も浮足立ってしまうというもので、だからこそ僕は言ってしまった。
「ふぃちゃん、空が綺麗だね」
と。
それはふぃちゃんには見えないのに、感じられないのに、言ってしまった。
ふぃちゃんは困ったように笑いながら、
「そうね」
とだけ言った。悲しそうな顔をする理由が、僕にはわからなかった。
翌日も、その翌日も晴れた。青空が夏を呼び込んでくるようで、僕は気付いてやれなかった。
彼女は元気を青空に吸い取られているかのようだった。
「私には青が見えない」
だから、僕は最初、ふぃちゃんの告白の意味がわからなかった。
何を言っているのか皆目見当がつかないとはこのことである。
「青が見えない、ってどういう――」
「――そのままの意味よ。私は青を知らない」
彼女はきっぱりと言い切った。口調とは裏腹に声が震えているようだった。
「……意味がわからないんだけど?」
「だから青い空を知らない、青い海を知らない、青い朝を知らない、青い夜を知らない。青い何かを知らない。でも同情とかいらないの。別にそういうのが欲しいわけじゃないから。ただ知っておいて欲しかっただけなの」
「青を知らないのに、あんなすばらしい絵が描けるんだ……」
「え?」
「僕は青を知っているけれど、ふぃちゃんみたいな絵は描けないよ」
「……」
「だから泣かないでよ。ふぃちゃんはふぃちゃんのままで素敵だよ」
「……卑怯者」
彼女はそういってぷい、とそっぽを向いた。
「ばか」
「ん?」
「……ばーか、早く帰りなよ。私一人で帰るから!」
「あーはいはい、じゃあまた明日」
「……」
ふぃちゃんはそれきりこちらを向いてはくれなかった。泣いていたからだろうか? 僕にはわからない。
「そうだ、海へ行こう」
告白からしばらく経って、もうすっかり夏がやってきたある日の帰り道の話である。
「え?」
「海だよ、海。電車で二駅ほどの所に確か綺麗な海岸があるはずだからさ、夏休み、海に行こうよ」
「海に行っても私、青が見えないって――」
「知ってる。だから行くの。青が見えないだけであって、海が感じられないわけじゃない、だろう? だから海に行こうよ」
「……ダメよ」
ふぃちゃんは少し戸惑ったような素振りを見せて、結局首を縦には振らなかった。
「どうしても、ダメ?」
「今は、ダメ。まだ怖いわ」
「じゃあいつか行こう。僕が連れていくよ、約束だ」
「う、うん……約束、いつか絶対に連れて行って」
甘ったるい恋愛小説でも読んでいるのだろうか、とそのあと二人で笑っていた。
以上回想。
梅雨が明け、夏が来て、結局何もできないまま、秋が来て、冬が来て……もう何年も前の話だけど、果たして「海に行く」約束はまだ有効なのだろうか。
外はもうすっかり暗くなっていた。
ひと雨降ったのだろうか、窓を開けると妙に心地の良い湿った風が部屋を通り抜けていった。
「夢か……」
随分昔の変な夢を見ていた様な気がする。夢の欠片があちらこちらに散らばっているのに、結局どんな夢だったかは覚えていない。
久しぶりにふぃちゃんの夢でも見たのだろうか。
皺のついた制服を着替えて、妙な気だるさを一気に吐き出して捨てた。
「あ、そういえば……携帯の電池……」
帰宅途中の電車の中でプツン、と音を立てて切れたのだ。充電するのを忘れていた。
電源を入れるとメールが二通来ていた。
一通は親から。晩御飯は冷蔵庫の中、ということだった。なるほどそう言えば晩御飯を食べていない。気付かなかった。ここでお腹が鳴った。
もう一通はふぃちゃんからだった。
「改めて、テストお疲れ様(*^_^*) 長かったね、でも君のことだからきっと大丈夫だろう、私は数学でヤラレマシタ(>_<) 今日は付き合ってくれてありがとう、描いている間、寂しくなかったのは今回が初めてかもしれません。本当、ありがとう。クッキーは今度持っていきます。家に帰ったら材料が切れてた(-_-;)
P.S. また避雷針をよろしくね!」
……。
メールを三回読みなおして、携帯をベッドに放った。返事はしないことにして、階下の晩御飯を目指した。
晩御飯はものすごく冷えたハンバーグだった。
3.
自棄酒代わりのジュースをぐいぐいと喉に流し込んだのち、どうしようもない虚無感に襲われた僕はどうしようもなく机に突っ伏した。
「もういいよう、数学なんてできなくてもいいよう……」
すっかり凹みっぱなしである。放課後もずっと図書館に備え付けられた談話室の一角でずっとこんな調子だ。
「まぁまぁ、今回は特別難しかったんだって先生も言ってたし、赤点じゃないだけラッキー、ってことにしておこうよ」
「そうだけどさぁ……」
クラス平均が赤点、と言うテストとで赤点じゃないだけ僥倖か、とは割り切れない学生のテスト事情である。
「それにほら、このテスト終わったら夏休み終わるまで何もないし、しばらくゆっくりできるじゃん。どこか行こうよ。お絵描きにっ!」
「ふぃちゃんはお絵描きかもしれないけど、僕は避雷針だからね」
「そうとも言うわね」
昨日の夢の残り香のせいか、会話が途切れてしまう。なんでだろう。
「どうしたの?」
「どうしたんだろう、よくわからない」
「変なの」
「たまには変でもいいかな、って」
「君の変な要素は何処にも需要ないよ。でもたまにはおかしくならないとやってられない」
ふぃちゃんはベレー帽の位置を整えるとすくっと立ちあがった。
「そうだ、絵を描きに行こう」
「どんなノリだよ。ってか、今日も行くのかよ」
「テスト終わったんだよっ! 今描かなくてどうするのさっ!」
「……あー、はいはい」
心なしか重たいカバンを背負って立ちあがった。ふぃちゃんがいなかったらきっと立ち上がれない位の重さだ。
「おっと……」
ふらついた。情けない。
「駄目だ、今日はなんか調子悪い」
「あらら、風邪でも引いちゃったんじゃないの? 雨に濡れたりした?」
「どっかの誰かさんに折り畳み傘をかしたせいで昨日は濡れましたな。しかもそのあと昼寝までしてしまったよ。これで風邪をひかない方がおかしいかも……」
「風邪をひいたらバカじゃない、って証明できるし一石二鳥だね」
「ん? ……ごめん、ふぃちゃん、よくわからない。何が一石二鳥なの?」
「なんとなく使ってみたかっただけ」
「変なの」
「今日の君ほどではないわ、大丈夫よ」
「大丈夫の基準がわからないよ」
「だ、大丈夫なのっ!」
底知れない不安だけが募った。けれど変な具合に風邪に作用したらしい。身体のだるさがどこかへ消えた。
「そう言えば、君は花や鳥などは好きなのかな? 前にも同じ様な質問をしたけど」
ふぃちゃんは何の脈絡もなく僕に問うた。
「好き、と言うほどではないなぁ、けれど嫌いじゃないよ。花が咲いていれば道を避けるし、鳥が飛んでいれば少しは眺めたりする、そのくらい。ふぃちゃんは?」
「とてつもなく好きよ。そうね、今晩の晩御飯がカレーだったとしても私の気持ちは揺るがないわ」
「それは……何と言うか、返事に困るね」
誰かうまい返事があったら教えてほしいものだ。
「さて、そんな前振りで来たのはこちら! 地元でも有名な樹齢百歳を超える神社の御神木です! じゃじゃーん」
「一人旅番組……!」
「今日はゲストをお呼びしております。どうぞー」
そう言って僕を手招きするふぃちゃん。しかしカメラ何処だ。
「エーこんにちは、ゲストの……って、そういうのいいから話を進めようか? 今日はこの木を描くの?」
「ん? 違うよ、この木の根っこに生えてるキノコを描くの」
御神木の下の方にポツリポツリと生えている白いそれは確かにキノコらしい。どう見ても毒を持ってる。できればお近づきになりたくない。
「ふぃちゃん、つくづく思うんだけどさ……」
「ん、何かな?」
「……ごめん、やっぱいいや。キノコね、はいはい。僕はそこの石段に腰かけてるから、終わったら呼んでね」
「あいあいさー」
ふぃちゃんはスイッチの切り替えができる子だ。あっという間に黙りこむと、紙の上で鉛筆が舞踏会を始めたらしかった。
線の引かれる音、色の重なる音、紙の摩擦の音、そして葉が風に揺れる音。
穏やかな時間が流れた。小鳥のさえずりをこんなに落ち着いた気持ちで聞いたのは実に初めてのことである。神社はひんやりとしていて、太陽の日差しを丁度よく遮っていた。
「時に、ふぃちゃん」
「ん?」
「まだ、海は怖いの?」
「……うん」
「そっか」
「ごめんね、約束なのにね」
「覚えてたんだ」
「忘れないよ、君との約束だもん」
「……そっか」
会話がまた途切れた。静かな空気が割り込んできて二人を引き裂くような気分。
「終わったよー」
「帰りにアイスでも食べよう。今日はおごるよ、こんな場所があるなんて知らなかった」
「え、アイス、いいの? ねぇなんでもいい? ちょっと値が張るアイスでもいい? ねぇホントにいいの? 」
「安い奴な。六十円位の」
「けちー!」
「うるさいわ! 財布の中がそろそろ氷河期につっこむんだよ!」
「へ、私の胸はすでに氷河期よっ!」
「何を偉そうに! こらこらない胸を張らんでもよろしい。見てるこっちが悲しくなる」
「な、何をー!」
ベレー帽って意外と痛い。ぼこぼこにされた。
けれどアイスは六十円のソーダ味だった。
4.
青を認知できない、と言うのは要するにこういうことを招く恐れもあった。
こういうこととはつまり、こういうことである。
「何やってんだこのドジっ子は……」
「いや、あれはボールが青いのが悪いね、私は被害者として被害届を――」
「なんでドッジボールとかやってんだよ、ホント……バカだろ絶対」
休み時間を使ってドッジボールをしていたらボールが青い球だったそうで、やめればよかったのに無理してやったせいで顔面直撃そのまま気を失って保健室へ緊急搬送……そしてこの様である。
「う、うるさい!」
「はいはい、黙って寝とけ」
「うぅ……あ、そうだ。教室にベレー帽とスケッチセットがあるからそれだけ持ってきてほしい、あと眼鏡」
「パシるのな、僕を」
「え、いやほら、好意には甘えないと」
「好意ではない様な気がするのだけど……じゃあ机の中覗くぞ」
「覗くなんていやらしい……あ、嘘ですごめんなさい持ってきてください、でもスケッチブックの中は見ちゃだめ。呪われるよ」
「はいはい」
ベレー帽も眼鏡も付けていないふぃちゃんを見るのは実は、初めてだったりしてドキドキしちゃったわけだけど、しかしなぁ……倒れた衝撃で頭に瘤を作ってそのせいで寝ているとなると萎えるよなぁ、いろいろと……。
等々、いろいろ考えているうちにすでに復路についていた。ベレー帽と眼鏡とスケッチセットと……ホント、いつの間に回収したんだろう。
「何やってんだろ、自分も」
ため息ももう在庫切れだ。
「いやー、しかし災難だったねー。うんうん、しばらくはベレー帽の中に氷を仕込んでおかないと、瘤が引かないや」
痛いなぁ、などと瘤をさすりながらふぃちゃんはいつものふぃちゃんに戻った。あっという間だった。
「しかしボールが青いとは知らなかったなー。何をパントマイムしているのか、と思ったらそうかボールを投げ合っていたんだね」
遠くを見つめる様な目で彼女はスケッチブックを撫でた。
「見えないのは、辛いね」
かける言葉を僕は持っていないから。
「しかしほら、あれだね、年頃の男女が保健室で二人きり、と言うのはちょっとアレな感じだね」
いやらしい笑みを浮かべてふぃちゃんは僕を見た。
「ねぇ、なんかいやらしいことしないの?」
眼鏡をわざとずらして色っぽく見せているつもりなんだろうけれど、残念ながら頭の上に載せた氷のせいで随分と滑稽に見えた。
「何を求めてるのかさっぱりだけど……ってか、宿題もあるし帰っていい?」
ふぃちゃんは一瞬ポカンと口を開けたまま固まって、それから捲し立てるようにベッドの上で暴れた。
「き、君は私のような可憐で美しい女の子をこの学校と言う不法地帯のさらに保健室と言うアレなところに一人残して帰ると言うのか! 帰れると言うのかっ!」
「帰れるけど? それがどうしたのさ?」
「ひどい、ひどい……」
そこまでひどいかなぁ、などと自分の言葉を反芻しつつしかし反省はしない。
「それともあれかな、残っててほしいの?」
「うぐっ……こいつ、なんだよマジでなんだよ、確信犯か? 君は確信犯なのか? 私は怪我人だぞ! 手負いの乙女なんだぞ!」
「ん?」
ついに意味がわからなくなった。
「すいません何でもないです残っていてほしいですよろしくお願いします……」
「今日はいつにもまして変だけど、打ち所が悪かったんじゃないの?」
「いつにもまして、って何だよ、私いつも変なの……帰る準備をするのでもう少し待っていてください一緒に帰ってください」
「はいはい、じゃあ部屋出てるから」
「うん」
珍しく、寄り道をしない帰り道だった。
渇ききったアスファルトの上をふぃちゃんは軽やかなステップで歩いていく。
「ふぃちゃん、偉くご機嫌だね?」
「ふふふ、そう見えるかしら? ……その通りよ」
黒い髪をなびかせながら彼女はどんどん進んでいく。ベレー帽がごつごつしているのはきっと中に氷を隠しているに違いない。
「例えばさ、例えばの話よ、例えば……」
ふぃちゃんはふと足を留めた。何か進歩するための停止だ。
「もし私が青を取り戻せたら、どんな絵が描けるのかなぁ、って……最近よく考えてしまうんだ。色の幅が広がる、と言うか、表現の幅が広がる、と言うか……よくわからないんだけど……」
「いい意味で変わらないんじゃないのかな?」
「そう、かな。そうだといいのだけど」
そしてふぃちゃんはくるっと振り向いて上目遣いにこう言うのだ。
「でも私は青なんて見えなくても何でも描けるからいいのよ」
えへへ、と笑うふぃちゃんはいつものふぃちゃんだった。
5.
ずっとふぃちゃんばかり出てきたせいで、すっかりふぃちゃんとのラブコメみたいになってしまったけれど、実際はたった数分程の会話を長ったらしく書いているだけだ。スマートに書けるほどの才能が自分にはどうやらなかったらしい。
自分の語彙の少なさと国語力の低さが露呈している感が否めない。
こんなことならもっと本を読めばよかった、もっと国語を勉強すればよかった……というのは後の祭り、と言うやつだ。でも、だからと言ってじゃあ古文の授業を真面目に受けるか、と言われたらそれとこれとは話が別である。
甘いものは別腹、とはちょっとニュアンスが違うかもしれないけれど似たようなものだ。
おいしくない物はどれだけ噛み砕いてもおいしくはならない。
……という自分なりに長い前振りをしておきながら僕は何をしているのだろうか、と言われればそれはもう隠すまでもなく電車に乗っている。ふぃちゃんと。
「こうして出かけるのって久しぶりだよねー。最後に行ったのいつだっけ?」
「昨日の登校、じゃないかな?」
休日の昼下がりのしかも下り電車は空席の方が多かった。一人で3つほど座席を使ってもなおあまりある程である。
「いや、そうじゃなくてほら、こうなんていうのかな、わざわざ私服で、駅で待ち合わせてデート、みたいな……?」
「あー……いつだっけ? 先週の土曜日のハイキング?」
「あーもういいっ!」
デートである。ラブコメ真っ盛り。爆発するかも。
「……でもどうしてまた急に「海に行きたい」って言いだしたの? あんなに嫌がってたのに」
「ホントは嫌じゃなかったの。行きたくて仕方なかったのだけれど、でも怖くて。……もし海がなかったらどうしよう、とかいろいろ考えちゃって……けど怖がってても仕方がないかな、って思ってさ」
「海がない、ってことはないよ。例え見えなくてもそこには水があって潮風があって海猫の鳴き声があって……海は色だけじゃないよ」
「そう、だね。それに今は君もいるし、私は最強で無敵かもしれない」
へへへ、と柄にもなくベレー帽を弄ってみたりしてふぃちゃんはスケッチブックを大事そうに胸に当てた。
「最強に無敵、っていつもじゃないの?」
「またまたそんな冗談を。私みたいにか弱い乙女はおいそれと最強で無敵にはなれない物なのだよ。それに君も私みたいな美少女と以下略」
「略すなよわからないだろう」
「そこはほら、幼馴染的電波を受信してお察しください」
「幼馴染的電波……なんだそれ、受信したくないな」
「ひどい……あ、そうだ。何の脈絡もないけれど一応クッキー焼いてきたよ。君のリクエストもあったことだし。実はこのカバンは保冷が効くのですよ、今回は初挑戦のアイスクッキーですよ」
「アイスクッキーかぁ、これはまた一段と楽しみですな」
「うん、楽しみにしておいて。私も海を楽しみにしてるから」
電車で二駅、時間にして10分ほどで景色はがらりと変わる。線路だけが自然に飲み込まれていないようなそんな田園地帯だ。
無人駅のホームは今日も閑散としていて、誰が手入れしているの花壇には大きな向日葵が咲いていた。 真夏なのに風はどこかひんやりとしていて、自然のクーラーが効いていた。
「っと、そう言えば僕は泳がないつもりできたのだけどふぃちゃんは?」
「私の水着姿がみたいならそう言ってくれれば……ゲフン、何でもないわ。泳ぐつもりなんて最初からないわよ」
「じゃあこっちに行こう」
「ん? そっちは?」
「話したことなかったっけ? 地元の人も知らないような綺麗な海岸だよ。泳げないけど」
「……他に誰か連れてきたことあるの?」
「いや、誰も。だってちょっと距離あるし、それに独り占めしていたかったし」
「じ、じゃあもしかして……私、初めて?」
「そうなるけど……どうしたの?」
「私、どんな顔をしていけばいいの? 君の御嫁さん、と言う設定でいいのかしら?」
「……何でもいいよ、もう」
木造の駅舎を海の方へ向かっていく道が次第に砂っぽくなってきた。心なしか潮の香りがする。
「……これが、海の香り?」
「そうだよ。海が見えてきたよ。道の向こう。今日も幸か不幸か綺麗な青だ」
「……そう」
彼女は少しだけ悲しそうに俯いた。
「海岸まではもう少しあるから、この坂を下りた先に展望台があるからそこでクッキーを食べよう」
「うん」
坂を登り切った先に見えたのは混じり気のない青だった。どうしようもないほどに真っ青で、どうしようもないほどに原色に近かった。
坂を下りた先のベンチに腰掛けた。誰もいない木のベンチは乾いて風化してしまいそうなほどだった。
「ふぃカフェ自慢の一品、アイスチョコクッキーをどうぞ召し上がれ!」
カバンの中はしっかりと保冷されていて、しっとりとしたクッキーはすごく冷たかった。火照った身体を冷やすには十分だ。
「ありきたりだけど……すごくおいしいです。さすがシェフ、超一流ですな」
「ふふん、こういう時はパティシエとお呼びなさいな。でもおいしいのは当り前よ、私が作ったんだもの!」
「これはホント……僕がお金を払いたくなる位だよ」
クッキーをまた一口かじる。甘くもなく苦くもない絶妙な味が口の中いっぱいに広がってそのうち融けて消えた。
「んーそうだなぁ、じゃあ今日ちゃんと海に連れて行ってくれたらそれをお代として受け取ってあげる」
「分かった。お安いご用さ。クッキーを食べたら砂浜に行こう」
「うん、ってか食べ過ぎだよ」
「だって……」
言葉が続かなかった。形容のしようがないほどにクッキーはおいしかったのだから。
潮の香りが強くなり、波の音と海猫の鳴き声が聞こえてきた。海が間近に広がっていた。
「……っと、ここ階段ないから降りる時は気を付けて」
「……あれ? 君がお姫様だっこしてくれるという約束じゃ……」
「気を付けてね」
「……はい」
テトラポットをいくつも渡って、白い砂浜にたどり着いた。青い波が白い砂を飲み込んでいく様がとても美しくて、けれどあえて言葉にはしなかった。
しばらくの間、僕とふぃちゃんは短い砂浜を行ったり来たりして訳もなく歩いた。途中で綺麗な貝殻を見つけてふぃちゃんは大事そうにカバンにしまった。
「……波の音。向こうには海猫が鳴いているのかしら。この匂いも好き。身体に浸透していくみたい」
ふと彼女が口を開いた。
「海猫、何処に居るんだろう……鳴き声は聞こえるのに」
「きっとどこかで油揚げでも狙っているんじゃないかしら?」
「……それはトンビ?」
「そうとも言うわね」
ふぃちゃんは流木の上に腰かけるとスケッチブックを膝の上に広げた。
「描いてもいい?」
静かに、けれど何かを決めた様な、そんな強さを感じた。
「いいよ。今日は貸し切りだもの」
僕はふぃちゃんと少し距離を置いた岩場に腰かけて押し寄せる波が、また返っていく波が消える様子をただ眺めていた。
彼女には何が見えているのだろう。空も海もこんなに青いというのに、ふぃちゃんは紙に何を描きつけるんだろう。
そんなことばかり考えて、考えるたびに海へ向かって石を一つ投げた。
そんなことは僕が考えても仕方のないこと。
ふぃちゃんにしか見えない世界があまりにも美しすぎて、実のところ、青を持っている僕は少し嫉妬していたのかもしれない。
彼女は足りていないのに足りていて、僕は足りているのに足りていない。
向こうでスケッチブックとにらめっこをする彼女の目には何が映っているのかを僕は知らない。
「ねぇ、青ってどんな色?」
ふぃちゃんはスケッチブックを見つめたままそんな声を上げた。
「青は……青だよ。16進数のコードで”0000FF”、英語ではブルー」
「どんな雰囲気なの?」
「落ち着いてる、と思う。赤とか黄色とかとは違って一人で落ち着いてる感じかなぁ? よくわからないけどさ」
「そう……だったらこれが、青なのね」
ふぃちゃんはスケッチブックを閉じて海の方へ歩いた。波打ち際まで歩くと突然泣き始めた。悲しい涙ではなかった。
「ふ、ふぃちゃん!?」
「……これが海なんだね。これが空なんだね。こんなに……こんなに綺麗だったんだね。こんなに素晴らしい色だったんだね。こんなに優しい色だったんだね。……知らなかった。ありがとう、ありがとう!」
歓喜の声、笑顔の涙が彼女を包んでいく。
「青が、見えるの?」
「うん、うん! こんな色今までみたことないもの! 本当に……嬉しい……。はじめまして青、こんにちは青。今まで見てあげられなくてごめんなさい。今まで見守ってくれてありがとう……そしてこんな素晴らしい色を見せてくれた君にも……」
ふぃちゃんに抱きつかれた。……抱きつかれたっ!
「君がいなかったら私は本当に……怖がって何もできなかったから」
「……青を、取り戻せたんだね」
「……うんっ!」
眼鏡越しの彼女の目がいつも以上に明るかった。空も海も、彼女の視界に入る全てがその目に映り込んでいた。
帰りの電車に乗る頃にはすっかり夜だった。今夜は一段と星が綺麗だ。
「ところで今日描いた絵も見せてはもらえないのかな、やっぱり」
「今日の絵は完成したら見せてあげる。これは約束するよ」
ふぃちゃんは軽くウィンクして見せた。
「今回は史上初「青」を使った絵画になりそうなの。だからはっきり言って自信がない」
「そっか、でも、自信のある作品なんてそんなに描ける物でもないだろう?」
「そうなんだけど、ホントに君に見せていいかどうかわからない。でも見せる。見せられるような作品にするよ」
電車に乗ってまもなく、ふぃちゃんは僕の肩に頭を載せてそのまま静かに寝息を立て始めた。その寝顔は……やめた。僕だけの物にしよう。
空も海も青い。僕らはそれを当り前だと思っていたけれど、それはとても特別なことだったんだ。青い空を青いと感じられること、青い海を青いと感じられること、綺麗な景色を綺麗なまま感じられることはとても素敵なこと。
「ふぃちゃん、ありがとう」
大切な物に気付かせてくれた彼女を「好き」だなんてありきたりの言葉で縛りたくないから。
僕はこの気持ちに気付かない振りをし続けようと思う。
だからそれを見た時の感動を僕は上手く言語にすることはできなかった。
『海と少年』と題されたその絵は一人の少年が海に語りかける様な構図で描かれていた。
「これ、この前の?」
「そうそう、青はまだ慣れていないのかなぁ……色鉛筆のセットの中で青だけすごく長いよ、ほら」
見せてもらった色鉛筆セットの一本だけ長いのは青の色鉛筆だった。まだ新品のように先が尖っている。
「今まで使っていなかった分、これからは青も使っていろいろ描いていくつもり。その時はまた付き合ってくれる?」
彼女は上目遣いで僕を見上げてくるのだ。眼鏡付き美少女の上目遣いはこんなにも凶悪な物なんだろうか。
返事なんて考えるまでもないのに。
6.
ふぃちゃんが眼科に通っていたことを僕は実は彼女から告白されるだいぶ前から知っていた。
「え、知ってたの?」
冬も近くなったある日の帰り道である。もうすっかり空気は冷え始めていた。
「まぁ、そりゃいきなり「海に行きたい」って言われればさぁ、何かあるだろう、とは思うわけだよ。何年も幼馴染をやっていればその位は気付くよ」
「で、でもそれだけじゃ病院に行ってた、なんてことには――」
「ドッジボールしてて怪我をしたのは、ちょっと見えるようになったからじゃないの?」
「……もう、君ってば何でもお見通しみたいで面白くないよ!」
「面白くないって……それは凹むなあ」
「せっかく私が一大決心して告白しようとしてたのにさー、そんなの知ってた、なんて面白くないよ。昨日私眠れなかったんだから、罰金モノよ」
「それは、申し訳ない。……で、告白しようとした、ってことは――」
「そう、私はもう完全に色を識別できるようになったのよ! すごいことじゃない?」
「おめでとう! 今日はお祝いに暖かいコーヒーをおごってあげよう」
「え、コーヒー、いいの? ねぇ、なんでもいい? ちょっと値が張るプレミアムコーヒーでもいい? ねぇホントにいいの?」
「安い奴な、150円位の」
「けちー!」
「うるさいわ! 身も心も寒い、ってのにこれ以上財布まで寒くさせんな!」
「へ、そんな寒い身も心も私が暖めてあげるわよ」
「え?」
手を握られた。ギュッと手を握られた。
呆気にとられる僕と目を合わせたふぃちゃんは顔を真っ赤にしてこう言うのだ。
「……だ、大好きだからっ!」
そんな恥なくてもいいのに……。それともプレミアムコーヒーがそんなに大好きなのだろうか?
全くふぃちゃんは分からない。
僕はそんなふぃちゃんに手を握られたまま何処にあるかもわからないプレミアムの缶コーヒーを求めて自販機を探し歩くのだ。
「今度またどこかへ絵を描きに行こうね」
「うん、私を知らない世界へ連れて行ってね!」
繋いだ手をもっと深く繋ぎ直して、僕はプレミアムコーヒーの自販を探していた。
<fin>
だれか……あらすじの書き方を教えてください。
はじめまして、こんにちは。
このお話は少し前に書いたものです。
知り合いの方に「ふぃちゃん」のイラストを描いてもらったあの日のことを昨日のことの様に思い出しながらこのあとがきを書いています。
……楽しんでいただけたでしょうか?
少しでも楽しんでいただけたら、これ以上嬉しいことはありません。感想も批評も大歓迎です。
こんな調子でこれからも書いていこうと思います。
よろしくお願いします。