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追放された聖女は、目を背けない

作者: 空秤ユウリ
掲載日:2026/11/07

『セレスティア・ノルンとの婚約を破棄し、聖女の資格を剥奪する』


その通達が届いたのは、安息日を翌日に控えた午後のことだった。


(……やっぱり来たか)


いつかこうなる気はしていた。


神託によって聖女に選ばれたあの日、私は真っ先に「何かの間違いでは」と思った。治癒も、結界も、浄化も、奇跡と呼べるほどの力はほとんどない。神学の知識も落第点ぎりぎりだったし、人前での講話も得意ではない。


実際、聖女になってからも、神官たちを束ねることはできていなかったと思う。それでも誰も表立って異を唱えなかったのは、ひとえに私が「神によって選ばれた聖女」だったからだ。


婚約者の殿下にいたっては、最後まで一度も、私の目を見て話してくださらなかった。


正直にいえば、聖女になんてなりたくなかった。だから少しだけ、ほっとしている。


いっそ辺境でスローライフでも始めようか――。

そう思ったのに、胸の奥に何かが引っかかっていた。


紙の端が、くしゃりと鳴った。

いつの間にか、握りしめていた。


◇


翌日、私は大広間に呼び出された。


「殿下! 聖女は神によって選ばれし存在! 人の都合でその地位を奪うなど、神罰が下りますぞ!」

「ええい、うるさい!」


エドワルド王子の怒鳴り声が宮殿中に響き渡った。


久しぶりにお顔を拝見したけれど、こうして見ると、やはり見目のいい方だと思う。正直に言えば、婚約者として隣に立つのは嫌ではなかった。恋をしていたかと聞かれれば、違うけれど。


「傷一つ癒やせぬ女に、何の価値がある! 他国の聖女は、死に瀕した者さえ救うというではないか!」

「しかし、神託は絶対でございます!」

「この女は、辺境の砦にでも送っておけ。形だけの聖女としてな!」


殿下は私を指差した。


「殿下、それはあまりにも……!」


殿下の腕の中には、一人の少女がいた。春の花のような桃色の髪。陽の光を思わせる微笑み。半年前、隣国から招かれた新たな聖女、リリア・ポートランド様だ。


「それに比べてリリアはどうだ! 高度な治癒の奇跡を操り、容姿も美しい! 私の妃にふさわしいのは彼女だ!」

「まあ、殿下。お褒めいただき光栄ですわ」


リリア様は、恥じらうように微笑んだ。けれど、その視線は殿下ではなく、私に向けられていた。

一度ではない。殿下の胸に頬を寄せながら、貴族たちに会釈を返しながら、何度も、何度も。


ああ……。

私がどんな顔をしているのか、気になるのでしょうね。

捨てられた女が泣くのか、取り乱すのか。それを確かめずにはいられないのでしょう。


私は、まっすぐに背筋を伸ばした。

聖女は、人前で涙を見せてはならない。

幼い頃から、教えられてきたことだ。


「……謹んで、お受けいたします」


深く頭を下げる。

顔を上げたとき、リリア様はまだ、こちらを見ていた。

その瞳が、ほんの少しだけ、苛立ったように細められた気がした。


◇


翌日の朝、私は王都を発つことになった。

行き先は、北の国境にある小さな砦。

そこで名ばかりの聖女として、生涯を過ごすのだという。

離宮の自室で荷物をまとめていると、扉が叩かれた。

 

「失礼いたします、セレスティア様」


入ってきたのは、殿下とリリア様だった。


「明日は朝早くご出発と伺いましたので、今日のうちにご挨拶をと思いまして。お邪魔ではありませんでしたか?」

「……いいえ。わざわざありがとうございます」


リリア様は部屋の中を見回した。


「まあ。もうこんなに片付けられたのですね」

「持っていける荷物は限られておりますので」

「そうですわよね。辺境では、ドレスも宝飾品も必要ありませんものね」


彼女は柔らかく微笑んだ。


「そういえば、セレスティア様って、ルヴェリア神学院のご出身なんですって? 私の同期にも何人かいるんですよ」

「いえ、私は北ルヴェリア高等神学校の方で……」

「あら、そうでしたの」


リリア様は、少し驚いたように目を見開いた。


「そういう学校からも聖女って出るんですね。素敵だと思います、本当に」

「はは、リリア。こいつは、たまたま選ばれただけだ。君のように、聖女になるために育てられてきた者とは違う」

「まあ、殿下。そんなおっしゃり方をなさらないで」


リリア様は、殿下の腕にそっと手を添えた。


「私は、先輩の学校のことを尊敬しているとお伝えしたかっただけなんです」

「……お気遣い、ありがとうございます」

「私ったら、つい自分の通っていた学校の基準で考えてしまって」


リリア様は、恥ずかしそうに頬を染めた。


「私は、聖アルヴェイン学院でしたの。首席で」


聖アルヴェイン学院。

大陸でも有数の名門であり、数多くの高位神官や聖女を輩出してきた学府だ。

その名は、私もよく知っていた。


 ……。

 だから、なに?

 それって強いの?


「北ルヴェリアも、昔は大変な名門だったそうですね」

「……ええ」

「百年ほど前には、王国随一の聖女様も輩出されたとか」

「はい。母校でも、よくお話を伺いました」

「素晴らしいことですわ」

 リリア様は、心から感心したように頷いた。

「近年は、随分と穏やかな校風になられたと伺っておりますけれど」

「……そう、でしょうか」

「ええ。王国合同魔法演習でも、最近はお名前をお見かけしませんもの」


私の母校は、小さな地方の神学校だった。

施設も古く、生徒の数も少ない。

それでも先生方は熱心で、私はあの学校を誇りに思っている。

リリア様は、私の手を取った。


「どうか、ご自分の出身を恥じたりなさらないでくださいね」


 ……。

 私は、少しだけ困惑した。

 なぜ、恥じる必要があるのだろう。


「……ありがとうございます」

「ふふ。お役に立てたなら嬉しいです」


そう言って、リリア様は微笑んだ。

なぜか、その微笑みを見ていると、胸の奥がざわついた。


「では、まだ片付けがございますので……」


私は丁寧に頭を下げ、部屋の奥へと下がった。

けれど、二人は帰らなかった。

私などいないかのように窓辺に並び、楽しげに語り合っている。

殿下はリリア様の腰を抱き寄せた。

リリア様はその腕に身を預けながら、ちらり、ちらりと、こちらを見る。


 お願いですから。

 もう、私を見ないでください。


「殿下、私、少し心配なのです」

「どうした、リリア?」

「セレスティア様は、これからどうなさるのでしょう。簡単な祝福さえ、お使いになれないのでしょう?」

「そうだな。あの程度の力では、普通の神官として働くことも難しいだろう」

「まあ……。では、辺境ではどうやって暮らしていかれるのでしょう」

「ふっ。お前は優しいな、リリア」

「だって、かわいそうですもの」

「ああ。お前が聖女になってくれて、本当によかった」

「もう、殿下ったら。セレスティア様に聞こえちゃいますわ」

「構わん。彼女とは、もう何の関係もない」


くすくすと笑い合う声が途切れ、湿った小さな音が聞こえた。

私は、聞こえなかったふりをした。


こういう時、どういう表情をすればよいのだろう。

怒れば、嫉妬していると思われる。

泣けば、未練があると思われる。

相手の思うつぼだ。

自分が傷ついていると知られることさえ、悔しい。

だから、何でもない顔をした。


私はただ、すでに畳み終えた衣服を、何度も整え直していた。


◇


その夜、私は眠れなかった。

目を閉じると、殿下の笑い声が聞こえてくる。

リリア様の、あの甘ったるい声も。

もう終わったことだ。

明日にはここを出ていくのだから、忘れてしまえばいい。

そう決めて、目を閉じる。


 ……でも、どうしてあんなことを?


また同じところに戻ってしまった。

何度繰り返しても、頭の中から二人の声が消えてくれない。


私は寝台の上で身を起こした。

ふと、視界の隅に、見慣れた文字が浮かんだ。

自分のステータス。

何度も見てきた、期待外れの能力一覧。

治癒、浄化、結界、祝福。

どれも最低等級。


その一番下に、小さな文字があった。


ああ……。


そうだった。


十歳の春、初めて神殿で能力の神託を受けた日のことを思い出した。


私のステータスに現れた、あるスキルのことを。

あまりに聖女らしくなくて、恥ずかしくて、誰にも言えなかった。帰り道も、ずっと悩んでいた。家に帰ってからも、一人きりの部屋で、何度もステータスを開いた。


誰かに打ち明けるべきだろうか。

でも、なんて言われるだろう。

結局、誰にも言えなかった。


一度だけ、誰もいない河原で試したことがある。何が起きたのか、よく覚えていない。ただ大きな音がして――清々しくて。同時に、それが悪魔の誘惑のように思えて、少しだけ怖かった。


それ以来、私は一度もその力を使っていない。


それから、十年が経った。私は聖女になり、王子と婚約し、人々のために祈り続けた。

そして今日、すべてを失った。


でも。


そうか。


まだ、あったんだ。


あの日から、ずっと。


私が忘れようとしていただけで。


「……ああ。ずっと、そこにいてくれたのね」


捨てたつもりでいたのに。


あなたは、私を捨てなかったのね。


頬を、一筋の涙が伝った。

私はステータスを閉じた。

明日からは、また新しい人生が始まる。

今度こそ、誰にも迷惑をかけず、静かに暮らしていこう。

そう心に決めて、目を閉じた。


◇


翌朝。

王宮の城門前には、辺境へ向かう馬車が用意されていた。

荷物は、小さな鞄が二つだけ。

私は御者に挨拶を済ませ、最後に王宮を振り返った。

ここで過ごした三年間。

決して、幸せなことばかりではなかった。

それでも、後悔はない。

そう思っていた。


「セレスティア様!」


聞き覚えのある声がした。

振り返ると、数人の子供たちが駆け寄ってくる。

施療院で、私がいつも世話をしていた子供たちだった。


「まあ、みんな……!」


思わず顔がほころぶ。

最後にもう一度会いたかった。

けれど、別れが辛くなると思い、知らせずに出発するつもりだったのだ。


「セレスティア様。みんな、お見送りがしたいって」


子供たちの後ろから、リリア様が姿を現した。

今日も美しい、白と金の聖女服を身にまとっている。


「リリア様……わざわざ、ありがとうございます」

「いいえ。先輩には、きちんとお別れをしていただきたかったんです」


リリア様は、子供たちの背中を優しく押した。


「ほら、みんな。あれ、お返しするんでしょう?」


子供たちが、小さな手を差し出した。

そこには、色とりどりの糸で編まれたお守りがあった。

私が、一人ひとりに作ってあげたものだった。

熱が下がりますように。

痛みがなくなりますように。

どうか、この子たちが健やかに育ちますように。

奇跡を使えない私にできたのは、そんな願いを込めて、お守りを編むことだけだった。


「……どうして?」


思わず、声が漏れた。

リリア様が、微笑んだ。


「みんな、もう必要ないんですって」

「……え?」

「私が治して差し上げましたから。お守りは、先輩にお返ししたほうがいいと思いまして」


子供の一人が、私の手を取った。


「お姉ちゃん、ありがとう。これ、返すね」

「……ええ」

「リリア様が、もう痛くならないって」


その子は嬉しそうに笑った。

私は、ゆっくりとお守りを受け取った。

よかった。

本当に、よかった。

あの子たちはもう、苦しまなくて済むのだ。私にはできなかったことを、リリア様が成し遂げてくださった。

それを、喜ばない理由などない。

なのに。

どうして、こんなに胸が痛むのだろう。


「よかったですわね、先輩」


リリア様が、私の肩に手を置いた。


「これで、何も心残りはありませんでしょう?」

「……はい」

「正直に申し上げますね。先輩が悪いわけではないんです」


彼女は、まっすぐに私を見つめた。


「ただ、聖女としてのお力が、少し弱すぎただけで」


 ……。

 弱い。

 また、その言葉だ。


「ですから、どうかお気になさらないでください。人には向き不向きというものがございますもの」


リリア様は、優しく微笑んだ。


「これからは、私がお守りいたします」


私は、手の中のお守りを見つめた。

子供たちのために、夜遅くまで編んだもの。

それが、今はただの糸くずに見えた。


もう嫌だ。

こんなもの、見たくない。

こんなことが起こる世界なんて、知るか。

どうして私が、こんな思いをしなければならない。


「……リリア様」

「はい?」

「わたくしのほうが弱いとおっしゃるのは、少々違うのではありませんか?」


リリア様が、目を細めた。


「……まあ」


その口元に、かすかな笑みが浮かんだ。


「そうでしたの? てっきり、先輩もご理解なさっているものと」

「……」

「私は聖アルヴェイン学院の首席です。神殿の鑑定でも、聖女適性はすべて最高等級でした」


彼女は、少し首を傾げた。


「先輩の固有スキルは、未だに効果も分からないのでしょう?」


……。

聖女としての適性が低いことは認めよう。

婚約の解消も受け入れよう。

施療院の子供たちを救えなかったことだって、仕方がない。


 でもよ。


 どっちが強えかって話は、別だろうが。


 ……つーか。

 謁見の間でも。

 部屋でも。

 今も。

 こいつ、ずっとこっち見てたよな。

 それって。

 そういうこと?


「……ねえ」


私の声に、リリア様が顔を上げた。


「何でしょう、先代聖女様?」

「今、目ぇ合ったよね?」

「……はい?」

「いや、合ったよね? こっち見たよね?」


リリア様が、不思議そうに瞬きをした。


「……何をおっしゃっているのか、分かりませんわ」


 ……あ?

 とぼけてんのか?


「さっきから、ずっとこっち見てるよね?」

「それは、お話ししておりますので……」

「昨日も見てたよね? 大広間でも、部屋でも」


リリア様の微笑みが、ほんの少しだけ深くなった。


「……ええ。見ておりましたけれど」


 ……。

 ああ、そう。

 やっぱ見てたんだ。


「何? ガン飛ばしてんの?」

「……ガン?」

「だから、やんのかって聞いてんだよ」


辺りが静まり返った。

子供たちが、きょとんと私を見上げている。


「セレスティア!」


聞き慣れた怒声が響いた。

エドワルド殿下だった。


「貴様! リリアに何という口の利き方を!」


殿下は、私とリリア様の間に割って入った。


「ついに本性を現したな! この下品な女め!」


 ……。

 うるせえな。

 今、こいつと話してんだろうが。


「殿下、どうかお怒りにならないでください」


リリア様が、殿下の腕にそっと触れた。


「セレスティア様は、きっとお辛いのです」

「しかし、リリア!」

「大丈夫ですわ」


リリア様は、私に向き直った。


「弱い犬ほど、よく吠えると申しますもの」


 ……。

 ……あ?


「それに、ご安心ください」


リリア様は、胸の前で両手を重ねた。


「私の固有スキル《聖なる守護》は、あらゆる攻撃を防ぎます。先輩の力では、傷一つつけられませんわ」


 ……。

 ビキッ。


「そうだ、セレスティア!」


殿下が勝ち誇ったように叫ぶ。


「貴様のような役立たずが、リリアに敵うはずがない!」


 ……ビキビキッ。

 おい。

 ちょっと待てよ。

 誰が、誰に敵わねえって?

 私は、ゆっくりと顔を上げた。


「……リリア様」

「はい?」

「本当に、よろしいのですね?」

「何がですの?」

「わたくしのスキルを、お見せしても」


リリア様は、小さく笑った。


「もちろんですわ。ぜひ、拝見したいものです」


そのときだった。

視界の中央に、淡い光が浮かんだ。

見慣れたステータスの文字。

十年間、一度も触れなかった、その一番下の項目。

そこに、新しい文字が現れていた。


――固有スキル《ギガスカリバー》を発動しますか?


 ▶はい

  いいえ


私は、その文字を見つめた。


 ……。


 いや、これ使っていいのか?


 どちらかというと、魔王とかに使う奴じゃないか?


「どうした、セレスティア!」


殿下が叫んだ。


「やはり、何もできんのか!」


 ……。


 できねえ?

 へえ。

 言ってくれるじゃねえか。


私は静かに微笑んだ。


「……少々、場所を選びますので」


◇


王都の城壁を出て、しばらく歩いた先に、広い河川敷がある。周囲には建物もなく、草原がどこまでも続いていた。私は、そこまで二人を案内した。


殿下の護衛騎士たちも、少し離れた場所からついてきている。


「セレスティア。最後の機会を与えてやる」


殿下が腕を組んだ。


「ここで謝罪すれば、これまでの無礼は不問にしてやろう」

「……お断りいたします」

「愚かな!」


殿下は、呆れたように首を振った。


「リリア。見せてやれ。真の聖女の力というものを!」

「承知いたしました、殿下」


リリア様が一歩前に出た。


その周囲に、淡い黄金色の光が満ちていく。


天は黄昏を以て、桃色の髪の聖女を祝福した。

夕映えを宿した髪は、海にこぼれた星々のように、静かに、まばゆく煌めいていた。


七重の光輪が、彼女を取り囲むように展開した。


「これが、私の《聖なる守護》です」


リリア様は、優しく微笑んだ。


「いかなる攻撃も、この結界を破ることはできません」


 ……。

 へえ。

 言い切ったな。


「……では」


私は、右手を天に掲げた。

低い音とともに、雨雲が立ち込める。


陽の光が翳った。

ざわめいていた騎士たちが、ひとり、またひとりと口をつぐむ。頬に、ぽつりと冷たいものが落ちた。


ああ、この匂い。

十年前の、あの河原と同じだ。


聖女は、人前で声を荒らげてはならない。

幼い頃から、教えられてきたことだ。


でも、いいでしょう?

私はもう、"形だけ"の聖女なのだから。


すう、と息を吸う。


「いくぞオラぁ!」


一歩。

二歩。

三歩目で、地面を強く踏み切る。


体が宙に浮いた。

弓のように背を反らし、右腕を大きく引き絞る。


――一瞬、すべての音が消えた。


眼下に、リリア様の顔が見える。

あの日、何度も何度も私を盗み見ていたその瞳が、今、初めて大きく見開かれていた。


十年ぶりに、あの名を口にする。


「――《ギガスカリバー》ッ!!」


その瞬間――


聖女は雲の切れ間の黄昏の中で、腕を大きく広げ、天翔ける神の似姿のごとく天に佇んでいた。


雷光はその腕が届く距離まで歩み寄り、捩れ、やがて一振りの剣を成した。

レクティウムの精霊――すなわち神の光をまとった雷は、聖女の前に頭を垂れ、彼女に神の執行者としての証を与えた。


轟きは、古き鐘の音のように響いた。しかしそれは、神託を告げる音ではない。霊を祓い、荒ぶる嵐を鎮める音でもない。理不尽な運命そのものを、塵ひとつ残さず無に帰さんとする、怒れる者の声であった。

         ――『聖雷密議聖典』聖雷の女勇者


「クソ女ぁぁぁ! 死にさらせぇぇ!」


巨大な剣が、リリア様へと落ちる。

その瞬間。

世界が、白く染まった。

大地が揺れ、川の水が天高く跳ね上がる。

地面に巨大な亀裂が走り、遠くの山々まで震えた。


私は、息を吐いた。


 ……。

 やっべ。

 思ったより出たわ。


土煙が晴れていく。

殿下が、腰を抜かしていた。

騎士たちは地面に伏せ、誰一人として動こうとしない。


「な……な……」


殿下の口が、何度も開閉した。


「何だ、今のは……!」


神官たちが駆け寄ってくる。


「どうした!」

「この奇跡……まさか、伝承にある……」

「神託は……間違えてなど、いなかった……」


殿下は、私を見た。

その顔に、先ほどまでの傲慢さはなかった。


「セ、セレスティア!」

「……なんでしょう」

「今の力があれば、王国は安泰だ!」


殿下が立ち上がった。


「そうだ! お前を再び聖女に迎えよう!」

「……」

「婚約の件も、考え直してやっていいぞ!」


 ……。

 は?

 何言ってんだ、こいつ。


「……誰が頼んだよ」


そのときだった。


「……ふふっ」


笑い声が聞こえた。

私は、振り返った。

土煙の向こう。

リリア様が、立っていた。

無傷で。

白い聖女服は煤けていたが、その身体には、傷一つない。

七重の光輪が、彼女を取り囲んでいる。


「……やはり、貴女でしたのね」


リリア様は、笑っていた。

先ほどまでの、控えめな微笑みではない。

心の底から楽しそうな、満面の笑顔だった。


「北高のセレスティア」


 ……。

 北高?


「ずっと、お会いしたかったんです」


彼女の瞳が、まっすぐに私を射抜いた。


「十年前から、ずっと」


 ……。

 は?

 いや、ちょっと待て。

 それよりも。

 今、何が起きた?

 私は自分の右手を見た。

 もう一度、リリア様を見た。

 無傷。


 ……マジかよ。

 クソッ……ギガスカリバーが効かねえ……だと!?


額に汗が浮かんだ。


 なんだ、この女。

 強え。

 めちゃくちゃ強えじゃねえか。


「セレスティア様」


リリア様が、一歩前に出た。


「今度は、私の番です」


彼女の背後に、巨大な魔法陣が展開した。

無数の光の槍が、魔法陣の中から顔を出す。


 おいおい。

 守るだけじゃねえのかよ。


私は後方へ跳んだ。

直後、さっきまで立っていた場所に大穴が開く。

危ねえ。あと半歩遅かったら、まともに食らってたぞ。


「素晴らしいですわ、セレスティア様! 期待以上ですわ!」

「リリア様こそ、なかなかのお手前ですわ!」


リリア様の光輪が、七重から九重へと増えていく。


 まだ上があんのかよ。

 ……面白え。


二つの光が激突し、王都の空に衝撃の輪が広がった。

どこかで殿下が何か叫んでいたが、もう聞こえなかった。

この女を、どうやってぶち抜くか。

頭にあるのは、それだけだった。


◇


何度、剣を振り下ろしただろう。

何度、結界に弾かれただろう。

日が傾き始めても、決着はつかなかった。

河川敷の地形は、すっかり変わっていた。

最初は草原だった場所に、巨大な穴がいくつも開いている。

幸い、リリア様が王都との間に広域結界を展開してくれたおかげで、街に被害は及んでいない。


 たいしたもんだ。

 戦いながら、周りまで守ってやがる。

 さすがアル高。

 伊達に首席張ってねえな。


「……はあ、はあ……」


リリア様が、肩で息をしていた。

私も同じだった。

もう、ギガスカリバーを発動する力は残っていない。


「……セレスティア様」

「……なんでしょう」

「まだ、続けられますか?」


私は、顔を上げた。

リリア様の聖女服は、すっかり泥だらけだった。

美しい桃色の髪も乱れ、額には汗が滲んでいる。

それでも、その瞳だけは輝いていた。


 ……ったく。

 なんて女だ。


「……もちろんですわ」


私は、拳を握りしめた。

リリア様が、少し驚いたように目を見開いた。


「……まさか」

「ええ」


一歩、前へ出る。


「最後まで、お付き合いいただきますわ」


へっ。

ここまで来たら、もう引けねえだろ。

リリア様は、しばらく私を見つめていた。

やがて、ゆっくりと拳を握った。


「……分かりました」


その顔に、笑みが浮かぶ。


「受けて立ちますわ」


私たちは、同時に駆け出した。

拳が交差する。

頬に、衝撃が走った。

痛い。

ものすごく痛い。

だが、倒れるわけにはいかない。


「……っ!」


私も拳を振るった。

リリア様の頬を捉える。

彼女がよろめく。

だが、すぐに踏みとどまった。


「……やりますわね」


「リリア様こそ」


私たちは、笑った。

もう、どちらが聖女として優れているかなど、どうでもよかった。


ただ。

こいつには負けたくねえ。

それだけだ。


「……参りますわよ!」


「望むところです!」


最後の拳が、互いの頬を打ち抜いた。

視界が、真っ白になった。


◇


目を覚ますと、夕焼けが広がっていた。

川沿いの土手。

柔らかな草の上に、私は仰向けになっていた。

体のあちこちが痛む。

手も足も、ろくに動かせそうにない。

隣には、リリア様が寝転んでいた。

私と同じように、夕焼けを見上げている。


「……セレスティア様」

「……なんだよ」


しばらく、沈黙が流れた。

川のせせらぎが聞こえる。

風が、草を揺らしている。


「……実は、あのとき見ておりましたの」

「あのとき?」


リリアは、空を見上げたまま答えた。


「十年前。北ルヴェリアの河川敷」


私は、目を閉じた。

十歳の春。

初めてスキルを使った日。

思い出した。

川が割れ、大地が揺れ、私は逃げ帰ったのだ。


「たまたま、近くにいましたの」


リリアが、ぽつりと言った。


「いきなり空が割れて、すげえ剣が降ってきて」

「……」

「川が真っ二つになって、その真ん中に、女の子が立っていました」


私は、黙って聞いていた。


「正直、なんだ、こいつって思いました」


リリアは笑った。


「こんなすごい奴がいるのかって。だからいつか絶対、あいつと本気でやり合ってやるって」

「……それで?」

「ずっと探していました。あのスキルを使った奴を」


彼女は、こちらを向いた。


「でも、誰も知らなくて。十年経って、ようやく北ルヴェリア出身の聖女がいるって聞いて」

「……だから、ここに来たのか」

「そういうことです」


 ……。

 なるほどな。

 だから、あんなに目が合ったのか。


「実際に会ってみて、どうだった?」


私が尋ねると、リリアは鼻で笑った。


「正直、がっかりでしたね」

「……あ?」

「十年も探していた相手が、王子に頭を下げて、へらへら笑っていらっしゃるんですもの」


 ……。

 ビキッ。


「お前、ほんっとムカつく女だな」

「それ、こっちの台詞ですわ」


リリアは笑った。

けれど、その笑みが、少しだけ消えた。


「……謝ります」

「……何が?」

「昨日から、散々嫌なこと言ったでしょう?」

「……」

「どうしても、あなたの本気が見たかった」


私はお守りを一つリリアに投げ渡した。


「あれだけは許してねえからな」


リリアは、夕焼けを見つめた。

少し、沈黙が流れた。


あれほど憎らしかった相手が、今は不思議と憎めなかった。

かつて私は、聖女とは人々を癒やし、安寧をもたらす存在だと思っていた。けれど、人を理解する方法は、必ずしも一つではないのかもしれない。


「……で? これからどうすんだよ、あんた。聖女様なんだろ」


河原の向こうから、王子が転がるように駆けてきた。


「セレスティア! リリア! 待ってくれ!」


「まだいたのかよ、このカス」

「まだいらしたの、このカス」


声がそろった。


王子の後ろから、老神官たちが息を切らして追いついてくる。


「殿下! 河川敷をこのように荒れ果てさせたこと、そして伝説の聖女を追放なさったこと、陛下が大変お怒りですぞ!」


王子は、神官たちにずるずると引きずられていった。


「はははっ! バーカ!」


私たちの笑い声が、夕暮れの河原に響いた。


「……それなんですけど」


リリアが、口を開いた。


「南に、妙な聖女がいるらしいですわ」

「……妙な?」

「デカい体で結界張ったまま、突っ込んでくるんですって。校舎の壁、三枚ぶち抜いたとか」


 ……。

 ほう。


「それ、聖女なの?」

「さあ。でも面白そうですわよね」


リリアの目が輝いている。


「それから西の学校には、治癒魔法で敵の骨治しながら喧嘩する奴もいるとか」

「……ろくなのいねえな」

「あなたが言います?」


私は、思わず笑った。

世界には、まだまだ私の知らない聖女たちがいる。

そんな彼女たちとも、いつか互いを理解し、手を取り合える日が来るのだろうか。


「……で、どうします?」


リリアが尋ねた。

私は、ゆっくりと立ち上がった。

夕焼けが、川面を黄金色に染めている。

まだ見ぬ世界が、私たちを待っている。

これから、どれほど多くの出会いがあるのだろう。

私は、隣に立つ友へと微笑みかけた。


「決まってんだろ」


そして、拳を突き出した。


「シメに行くぞ」


リリアは、一瞬目を丸くした。

そして、心から楽しそうに笑った。


「……あははっ。そう来なくちゃ」


私たちは、拳を合わせた。


「まずは南だな」

「ええ。南高の頭から」


「待ってろよ、全国の聖女ども」


私は、夕焼けの彼方を見据えた。


その志が、のちに王国全土を巻き込む大騒動へと発展することを、私たちはまだ知らなかった。


後世の歴史書に記された、その事件の名は――


『聖女全国統一抗争』。


それは、また別のお話。

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