『秤の上の聖域(サンクチュアリ)』
第一章:無音の牢獄
1
その朝、高木真理子の世界からは「音」が消えていた。
キッチンに立ち、使い古されたケトルでお湯を沸かす。シュンシュンと蒸気が吹き出す音さえ、今の彼女には耳を劈く暴力的なノイズに聞こえた。
リビングの大型テレビは、音量を最小に絞ったまま、狂ったように同じ映像を繰り返している。
『相模原を彷彿とさせる惨劇――障害者施設「あかつき園」で未明、刃物を持った男が乱入』
『十九名死亡、二十名重軽傷。犯人は元職員の二十六歳』
テロップの隅で踊る「死亡者リスト」の中に、その名前があった。
高木聖。二十歳。真理子の息子だ。
「……静かだ」
真理子は独り言を漏らした。自分の声が、異様に低く、他人ごとのように響く。
二十年。聖がこの世に生を受けてから、真理子の人生に「静寂」が訪れたことは一度としてなかった。深夜三時の突発的な奇声、喉に絡まる痰を吸い出す吸引器のズズズという不快な音、車椅子のタイヤがフローリングを擦る摩擦音、そして絶え間ない洗濯機の回転音。
それらすべてが、昨夜を境に、この地上から永遠に削り取られたのだ。
真理子は淹れたてのコーヒーを一口啜った。
熱い液体が喉を通り、胃に落ちる。その瞬間、彼女は自分でも信じられない戦慄を覚えた。
(……美味しい)
コーヒーが、美味しい。
不謹慎だ、と脳が警報を鳴らす。息子が殺されたのだ。首を切り裂かれ、冷たい床で、言葉も発せぬまま事切れたのだ。それなのに、自分の肉体は、二十年分の重荷から解放されたことに歓喜していた。肩の凝りが消え、視界が妙に明るい。明日のショートステイの段取りを考えなくていい。おむつのストックを気にしなくていい。
(私は、自由になったんだ)
その思考が脳をよぎった瞬間、真理子は猛烈な吐き気に襲われ、キッチンに崩れ落ちた。自分の喉を掻きむしり、胃液を吐き戻そうとするが、出てくるのは枯れた嗚咽だけだった。
「最低だ……私は、最低よ、聖……」
床に伏した真理子の目に、テーブルの脚にこびりついた古い汚れが映った。聖が、スプーンを投げ飛ばした時に飛んだミートソースの跡だ。拭いても落ちなかったその汚れが、今は、この家で聖が生きていた唯一の「証言者」のように見えた。
2
警察からの連絡を受け、遺体安置所に向かうタクシーの中でも、真理子の心は二つに引き裂かれていた。
窓の外を流れる景色は、いつもと変わらない日曜日の風景だ。犬を散歩させる老人、手を繋いで歩く若い親子。世界は何事もなかったかのように回っている。その事実に腹が立つ一方で、自分もまた、その「何事もない世界」の住人に戻りつつあることを自覚していた。
安置所の冷たい空気は、真理子の思考をさらに研ぎ澄ませた。
白い布を被せられた、肉の塊。
係官が布をめくる。そこにいたのは、間違いなく聖だった。
死に顔は、驚くほど穏やかだった。いつも苦しそうに歪めていた眉間の皺が消え、ただ眠っているだけのように見える。
「身元に間違いありませんか」
刑事の問いに、真理子は小さく頷いた。
「……はい。息子です」
涙は出なかった。代わりに、猛烈な怒りが湧き上がってきた。犯人に対してではない。聖を「殺されるべき存在」だと定義した、あの狂った声明文を読み上げたテレビの向こう側の存在に対してでもない。
一番腹が立つのは、聖の死に顔を見て「やっと楽になれたね」と、心の奥底で彼に語りかけてしまった自分自身に対してだった。
安置所を出ると、マスコミの群れがハイエナのように待ち構えていた。
「お母さん、今のお気持ちを!」
「犯人への怒りはありますか!」
向けられるマイク、焚かれるフラッシュ。真理子は、レンズの向こう側にいる数百万人の観衆を感じた。彼らは「悲劇の母親」が泣き崩れるシーンを待っている。あるいは、犯人への憎悪を剥き出しにする「倍返し」のドラマを期待している。
その時、群衆を割って一人の男が現れた。
仕立てのいいチャコールグレーのスーツ。理知的な眼鏡の奥に、深い慈愛を湛えた瞳。
福祉法人「セイクレッド・エデン」の代表、九条和真だった。
「皆さん、下がってください。彼女は今、深い喪失の中にあります」
九条は、真理子の肩を優しく抱いた。彼の体温は、冷え切った真理子の身体に、毒のように甘く染み込んできた。
「高木さん、お察しします。……あなたは、もう戦わなくていい。聖くんの魂は、今、ようやく重力から解き放たれたのですから」
九条の囁きは、聖域への招待状のように聞こえた。
真理子はまだ知らなかった。この男こそが、自分の「安堵」という名の罪悪感に、最も冷酷な秤をかける死神であることを。
3
三日後。通夜を終えた真理子の自宅に、一人の弔問客が訪れた。
あかつき園の新人職員、佐藤美咲。事件の際、逃げ遅れて右腕に深い傷を負ったという彼女は、包帯を巻いた手で、小さな段ボール箱を抱えていた。
「これ……聖さんの、遺品です」
佐藤の目は赤く腫れ上がり、声は震えていた。
「お母さんに、どうしても届けておきたくて。警察の検分が終わってすぐに……」
中には、使い古された吸引カテーテル、ボロボロになったお気に入りのタオル、そして一冊のスケッチブックが入っていた。
真理子は、そのスケッチブックに見覚えがなかった。聖は、ペンを握る力さえ満足になかったはずだ。
「聖さんは、言葉が出せませんでした。でも、リハビリの時間に、指の間に筆を挟んで、ずっと何かを書いていたんです。……いえ、描いていたんです」
真理子は、震える指でページをめくった。
そこには、形をなさない色彩の嵐があった。
一ページ目は、暗い灰色。
二ページ目は、濁った茶色。
だが、中ほどにある数ページだけ、驚くほど鮮やかな「黄色」で塗り潰されていた。
「これ、何……?」
「日付を見てください」
佐藤が指差した日付。それは、真理子が月に一度、仕事を休んで一日中聖の側にいた「面会日」の翌日だった。
「聖さんは、あなたの表情を描いていたんです、お母さん。……あなたが笑った日は、世界がこんなに黄色く見えるんだって。……あの日も、そうでした」
佐藤の声が、嗚咽に変わった。
「事件の夜……犯人が部屋に入ってきた時、聖さんは逃げなかった。……いえ、動けないはずの身体で、隣のベッドの子の前に車椅子を割り込ませたんです。彼は、最後まで笑おうとしていました。犯人を、赦すみたいに……」
真理子の心の中で、何かが音を立てて崩れた。
自分が「重荷」だと思っていた二十年間。自分が「解放されたい」と願っていた毎日。
その日々の中で、聖は、自分を「光」として見つめ、自分の「醜い本音」さえも、その濁りのない瞳で肯定し続けていたのだ。
真理子は、スケッチブックを胸に抱きしめた。
キッチンから漂うコーヒーの香りは、もう美味しくなかった。
代わりに、二十年分の重みが、凄まじい質量を伴って彼女の肩に帰ってきた。
(聖……あんた、私を待ってたのね。……こんな、汚い母親のことを)
真理子の瞳から、初めて、熱い涙が溢れ出した。
それは安堵の涙ではない。
奪われた命への、そして、自分の中に潜んでいた「悪魔」への、宣戦布告の涙だった。
第二章:緋色の断層
1
四十九日の法要を終えた真理子の自宅は、以前とは違う種類の重苦しさに包まれていた。
介護用品はあらかた片付けられたが、壁に残った車椅子の擦り跡や、吸い飲みを置いていた棚の変色だけが、消し去ることのできない刺青のように残っている。
真理子は、ダイニングテーブルに広げた一枚の書類を見つめていた。
それは、聖の遺産――といっても、彼名義の障害者年金の端数と、わずかな保険金だ。その事務手続きの書類に混じって、二十年以上も前の「記憶の断片」が脳裏をかすめる。
(……あの時も、私は書類にサインをした)
二十二年前。真理子が二十五歳の夏。
当時の恋人、瀬戸康介は、現在の厚労省の幹部候補としてのエリート街道を歩み始めたばかりだった。
「今は無理だ。君のキャリアも、僕の立場も、この子を育てる準備ができていない」
冷房が効きすぎた喫茶店で、瀬戸は万年筆を差し出した。
「これは『中止』じゃない。より良い未来のための『延期』なんだ」
その言葉を信じてサインした同意書。そのペンの走る音が、今も耳の奥で止まらない。
もしあの時、あの命を消していなければ。
もしあの選択が、聖という「重い命」を授かるための天罰だったのだとしたら。
真理子は、震える手でコーヒーカップを握りしめた。
2
数日後、真理子は都内の高級ホテルのラウンジにいた。
呼び出したのは、福祉界のカリスマ、九条和真である。彼は葬儀の際に見せた慈愛の表情をそのままに、真理子を迎え入れた。
「高木さん、少しはお痩せになりましたか。……無理もありません。二十年という歳月を他者に捧げ、それが突然失われたのですから」
九条は、手慣れた仕草で紅茶を注いだ。
「実は、あなたにお願いしたいことがある。我が法人が主催する『次世代福祉フォーラム』で、遺族代表として登壇していただきたいのです」
真理子は目を見開いた。
「私が……? 私は、あの子を誇れるような母親ではありません」
「だからこそです」
九条は身を乗り出し、真理子の目をまっすぐに見据えた。
「あなたは今、解放されたことに罪悪感を抱いている。……ですが、それは個人の罪ではない。障害者を家庭に囲い込み、母親にすべての犠牲を強いる、この国のシステムが歪んでいるのです。中絶が『女性の自己決定権』として認められるなら、介護という終わりのない重労働から解放される権利もまた、議論されるべきではないか。私はあなたの声を、社会を変えるための『光』にしたい」
九条の言葉は、真理子の魂の最も柔らかい部分を、優しく愛撫した。
自分が感じた「安堵」は、汚らわしい本音ではなく、システムの犠牲者としての正当な反応だった。そう肯定されることが、どれほど甘美で、恐ろしい救いか。
「……瀬戸さんも、そのフォーラムに来るのですか?」
真理子の問いに、九条はわずかに口角を上げた。
「ええ。厚生労働省の瀬戸審議官も、我々の提言には深い関心を持たれています。彼もまた、あなたの勇気を待っているはずだ」
過去に自分に「選別」を強いた男と、現在の自分に「解放」を説く男。
二人のエリートの影が、真理子の頭上で巨大な網のように重なり合った。
3
九条と別れた帰り道、真理子は施設職員の佐藤美咲に呼び出された。
新宿駅近くの薄暗いカフェ。佐藤は右腕の包帯を痛々しく庇いながら、周囲を警戒するように声を潜めた。
「高木さん。……九条さんには、近づかないでください」
佐藤の手は、ガタガタと震えていた。彼女はカバンから、一束のコピー用紙を取り出した。それは「あかつき園」の入所者名簿と、その横に記された不可解なアルファベットの羅列だった。
「これ、何……?」
「九条さんの法人の裏帳簿です。……今回の事件で亡くなった十九人、全員の横に『A』という印がついています。これは、ケアのコストが最も高く、かつ身寄りが少なく、反対運動が起きにくい家族を持つ入所者のリストです」
真理子の背中に、冷や汗が流れた。聖の名前の横にも、鮮明な赤色で『A』と印字されていた。
「九条さんは、犯人のあの青年と何度も面談していました。彼に優生思想を吹き込み、事件を誘発させたんです。……すべては、あかつき園の広大な土地を売却し、そこに富裕層向けの高齢者住宅を作るための『清掃』だったんです」
真理子の脳裏に、九条の慈愛に満ちた笑顔が浮かんだ。
あの言葉。あの救い。
あれはすべて、真理子の罪悪感に付け入り、息子を殺された親を「共犯者」の座に引き摺り下ろすための罠だったのか。
「……証拠はあるの? これだけじゃ、誰も信じない」
「九条さんの執務室に、ボイスレコーダーがあります。犯人への指示を録音したものが……。でも、私一人じゃ、もうこれ以上は……」
佐藤が泣き崩れたその時、真理子のスマホが震えた。
九条からのメールだった。
『フォーラムの原稿、楽しみにしています。あなたの「安堵」を、世界を浄化する言葉に変えましょう』
真理子は、スマホを握りしめた。
怒りではない。それは、二十二年前、クリニックの椅子で感じたものと同じ、冷徹なまでの決意だった。
(……ああ、わかったわ、九条さん。秤にかけるっていうなら、受けて立つわ。あんたの腐った理屈と、私のこの汚れた魂。どっちが重いか、試してみましょうよ)
真理子の瞳から、迷いが消えた。
池井戸作品特有の「反撃の序曲」が、静かに、しかし力強く鳴り響き始めていた。
第三章:泥の中のダイアリー
1
新宿の雑踏から逃れるように入ったルノアールの片隅で、真理子は佐藤美咲が差し出した資料を凝視していた。
指先が微かに震える。それは恐怖ではなく、冷徹な怒りに火が灯った証拠だった。
「九条は……あかつき園を『掃除』しようとした。土地の売却益を、自分の新しいビジネスの軍資金にするために?」
「はい」
佐藤は包帯の巻かれた腕を強く抱え、声を潜めた。
「九条代表は、犯人の青年に何度も『特別面談』を行っていました。精神的に不安定だった彼に、選別思想を植え付けたんです。『君は選ばれた執行人だ。無駄な命を間引くことで、社会は君を英雄にする』と。……事件が起きれば、施設は管理責任を問われて閉鎖される。そうなれば、入所者の立ち退き交渉も一気に進む。すべて、彼のシナリオ通りなんです」
真理子は奥歯を噛み締めた。
九条が自分に近づいてきたのは、遺族の「安堵」を肯定することで、事件を「不幸な事故」ではなく「社会の必然的な浄化」として世間に認めさせるためだったのだ。
(あの男は、私の罪悪感さえ、金に変えるつもりだったのか)
「高木さん。九条代表の執務室の金庫に、犯人との面談記録を録音したボイスレコーダーがあるはずです。でも、部外者の私にはもう……」
佐藤の瞳に絶望が滲む。
真理子は、カバンの中から一通の封筒を取り出した。九条から届いた、フォーラムの招待状だ。
「……チャンスはあるわ。来週のフォーラムの前夜、九条の法人でレセプション・パーティーがある。私は『遺族代表』として、そのビルの最上階まで招かれているの」
真理子の瞳に、かつてない鋭い光が宿った。
2
決行の夜。
真理子は、十数年ぶりに袖を通した黒いフォーマルドレスを纏い、銀座の超高層ビルを見上げた。
最上階のパーティ会場は、シャンパングラスの触れ合う音と、選民意識に満ちたエリートたちの笑い声で溢れている。
壇上では、九条が厚労省の瀬戸康介と親しげに肩を並べ、カメラのフラッシュを浴びていた。
「高木さん、よく来てくださいました」
九条が近づき、真理子の手を取る。その掌は驚くほど冷たかった。
「明日のスピーチ、期待していますよ。あなたの言葉が、この国の福祉を『合理化』する最初の一歩になる」
横に立つ瀬戸が、気まずそうに目を逸らす。二十二年前、自分に中絶を強いた男。彼は今、九条の思想を政策に反映させようとしている。
「ええ、精一杯務めさせていただきます。……少し、気分が優れないので、テラスで風に当たってきてもよろしいでしょうか」
九条は疑うことなく頷いた。
真理子は会場を抜け出し、監視カメラの死角を突いて非常階段へ向かった。
佐藤から聞き出した、代表執務室の暗証番号。
背中を伝う冷たい汗を無視し、彼女は暗闇の中に潜り込んだ。
3
重厚な扉を開け、執務室に入る。
静寂が支配する空間で、真理子は金庫のダイヤルを回した。
カチリ、と音がして扉が開く。そこには、数冊のファイルと、佐藤が言っていたボイスレコーダーがあった。
真理子は再生ボタンを押した。
『……いいか、君がやることは、社会のコストを削減する“外科手術”だ。家族も、心の底では君に感謝するはずだ。特に入所者リストのAに印をつけた者たちは、親が中絶を経験していたり、生活に困窮していたりする。彼らは、子供がいなくなることを、神の救済だと感じるだろう』
録音された九条の声に、真理子は耳を塞ぎたくなった。
彼は、真理子の「過去の過ち」までも、弱みとして計算に入れていたのだ。
その時、執務室の明かりが突如として灯った。
「――やはり、あなたでしたか、高木さん」
入り口に立っていたのは、九条だった。
彼は冷徹な微笑を浮かべ、真理子の手にあるレコーダーを指差した。
「それを持ち出しても無駄ですよ。警察も、世論も、私の言葉を信じている。それに……あなたも『安堵』した一人だ。私を告発すれば、あなたのその醜い本音も、世界中に晒されることになる。あなたは、聖くんを愛していなかった母親として、一生石を投げられることになるんですよ」
真理子の喉が、恐怖で引き攣る。
だが、その時、彼女の脳裏に聖のスケッチブックが浮かんだ。
あの不器用な、しかし温かい「黄色」のページ。
「……九条さん。あなたは一つ、大きな勘違いをしているわ」
真理子は、レコーダーを握りしめたまま、一歩も引かずに九条を見据えた。
「私が聖を失ってホッとしたのは、事実よ。私が中絶を選んだのも、事実。……でも、私のその『醜さ』は、私自身が一生かけて背負っていく罪であって、あんたの金儲けの道具に貸してあげるものじゃない」
九条の顔から、余裕の笑みが消えた。
「明日のフォーラム、楽しみにしていて。あんたが用意した原稿通りに喋るなんて、一言も言ってないわよ」
真理子は九条の横をすり抜け、部屋を出た。
背後で九条が激昂する声が聞こえるが、もう怖くはなかった。
エレベーターを降り、夜風に当たった真理子は、懐からもう一つの遺品を取り出した。
それは、聖が最期まで握りしめていたという、小さな、小さな、ひまわりの種だった。
(聖。……あんたが見せてくれた『黄色い世界』、お母さんが必ず守ってみせるから。……倍返しなんて言葉じゃ、足りないくらいにね)
真理子の反撃――「第四章:聖域の断罪」へのカウントダウンが始まった。
第四章:聖域の断域
1
東京国際フォーラム、メインホール。
三千人を収容する巨大な空間は、熱気と、どこか不穏な期待感に包まれていた。
壇上には「新時代の福祉――命の価値を再定義する」という巨大な看板が掲げられ、その下で九条和真が、自信に満ちた表情でマイクを握っている。
「……私たちは今、過渡期にあります。家族という名の自己犠牲、ケアという名の無償労働。それらから個人を解放し、社会のリソースを『未来ある命』へと集中させる。これこそが、真の人道支援ではないでしょうか」
会場から割れんばかりの拍手が沸き起こる。最前列に座る厚労省の瀬戸康介も、満足げに深く頷いていた。
九条は、拍手を制するように手を挙げ、舞台袖を見やった。
「ここで、あかつき園の悲劇を乗り越え、新しい一歩を踏み出そうとしている一人の母親をお招きします。高木真理子さんです」
スポットライトが真理子を照らし出す。
彼女は、聖が遺したあの「黄色いスケッチブック」を胸に抱き、ゆっくりと壇上へ歩み出た。
舞台袖で九条とすれ違う際、彼は低く、真理子だけに聞こえる声で囁いた。
「わかっているね。余計な真似をすれば、あなたの中絶も、安堵した過去も、すべてネットに流れる。……大人しく、私が書いた原稿を読みなさい」
真理子は答えず、演台の前に立った。
まばゆい照明。数多のカメラ。そして、自分を「悲劇のヒロイン」として消費しようとする三千人の観衆。
真理子は一度、深く息を吸い、九条が用意した原稿を――ゆっくりと、二つに引き裂いた。
2
会場が、凍りついたような静寂に包まれる。
九条の顔から笑みが消え、瀬戸が椅子から身を乗り出した。
「……私は、二十年間、重度の障害を持つ息子を育ててきました」
真理子の声が、スピーカーを通じてホール全体に響き渡る。震えてはいない。冷徹なまでに、澄んだ声だった。
「息子が殺された朝、私はコーヒーが美味しいと感じました。……二十年ぶりに、誰にも邪魔されずに眠れる夜が来ると、心のどこかでホッとしたんです。……九条さんの言う通りです。私は、息子の死を、心のどこかで待ち望んでいたのかもしれない」
会場に、ざわめきが広がる。「なんて親だ」「信じられない」という落胆の声が、波のように真理子に押し寄せる。
九条が、勝ち誇ったように口角を上げた。真理子が自ら「醜さ」を晒したことで、彼女の発言権を奪えると確信したのだ。
「でも、九条さん。……私は、自分のその『汚さ』を、一生かけて背負っていく覚悟を決めました。……中絶を選んだあの日も、聖を重荷だと思った昨日も、すべて私という人間の一部です。……でもね、あんたに、私のその『痛み』を、あんたの私欲を正当化するための道具に貸してあげるつもりは、さらさらないわ!」
「何を言っているんだ、高木さん! 警備員、彼女を降ろしなさい!」
九条が叫ぶ。だが、真理子は壇上の大型スクリーンを指差した。
「……見なさい! これが、あんたが語る『合理性』の正体よ!」
スクリーンに、一枚の内部資料が映し出された。
九条の法人が、あかつき園の土地売却を条件に、ゼネコンから受け取る予定だった数十億円のキックバックの明細。そして、犯人の青年に宛てた、九条直筆のメモの画像。
『あかつき園の“Aリスト”を片付ければ、君の理想は完成する。私が君の背後を守る』
「これは捏造だ!」
九条の声が裏返る。だが、真理子は止まらない。
「捏造かどうか、この音声を聞けばわかるわ。……瀬戸さん、あなたもよく聞きなさい。あなたが推進しようとしている政策の『裏側』よ!」
真理子がスマホの再生ボタンを押すと、ホールに九条の冷酷な肉声が響き渡った。
『遺族なんて馬鹿ばかりだ。中絶の過去や、日々の疲れを突けば、簡単に私の操り人形になる。……殺された連中だって、どうせ社会のゴミだ。死んで感謝されるべきなんだよ』
3
会場は、怒号に近いざわめきに飲み込まれた。
九条は壇上でよろけ、マイクスタンドをなぎ倒した。カメラのフラッシュが、今度は「稀代の詐欺師」を暴く光となって、彼に降り注ぐ。
真理子は、九条を見下ろすように一歩踏み出した。
「九条さん。……あんたは、私たちが『弱かったこと』を、自分の罪の隠れ蓑にした。……でもね、罪を背負って泥の中を這いずり回る私たちの方が、綺麗事の裏で命を掃除するあんたより、よっぽど『人間』らしいわ」
彼女は、胸に抱えていたスケッチブックを高く掲げた。
「この子は、私を『光』だと言って死んでいった。……私の醜さも、弱さも、すべて知った上で、それでも私を愛してくれた。……あんたのような人間に、この重みがわかるわけがない!」
真理子の叫びに、会場のあちこちから啜り泣きが漏れた。
瀬戸は顔を覆い、九条は壇上に膝をついた。
それは、池井戸作品における「倍返し」を超えた、一人の母親による、魂の復讐劇だった。
警備員ではなく、警察官たちが壇上に上がり、九条の腕を掴んだ。
真理子は、激しい動悸を抑えながら、舞台を降りた。
ホールの出口に向かう彼女の背中に、誰かが拍手を送った。それは一人、また一人と広がり、やがて地鳴りのような喝采となった。
会場を出ると、冷たい夜風が真理子の頬を撫でた。
彼女は、空を見上げた。
そこには、聖が描いたあの黄色い世界のような、明るい月が浮かんでいた。
(……聖。お母さん、少しはマシな人間になれたかな)
真理子の戦いは終わった。しかし、彼女の新しい人生は、ここから始まるのだ。
第五章:重荷という名の光
1
嵐のようなシンポジウムから数ヶ月。
メディアの狂騒は、新しいスキャンダルを求めて別の場所へと去っていった。
九条和真は、殺人教唆および背任、収賄の疑いで起訴された。犯人の青年との接点、そして用地買収に絡む政界への献金工作が次々と明るみに出るたび、かつての「福祉の寵児」は「稀代の詐欺師」として獄中に繋がれた。
厚労省の瀬戸康介もまた、九条との癒着を追及され、事実上の更迭となった。二十二年前、真理子にサインを強いたその手から、権力という名のペンが零れ落ちたのだ。
真理子は、あかつき園の跡地を訪れていた。
重機が入り、建物が取り壊されていく。九条が目論んだ豪華なリゾートマンションではなく、そこには市営の公園と、小さな通所施設が建設されることが決まった。
「高木さん、お久しぶりです」
声をかけてきたのは、右腕の包帯が取れた佐藤美咲だった。彼女の瞳には、かつての怯えはなく、凛とした意志が宿っていた。
「私、新しい施設で働くことにしました。今度は、九条さんのような『理想』を語る人じゃなく、泥にまみれても現場を守れる人たちと一緒にやりたいんです」
真理子は微笑んだ。
「そう。……佐藤さんなら、きっといい支援員になれるわ」
「高木さんは、これからどうされるんですか?」
真理子は、カバンの中に入った一通の封筒をそっとなぞった。
「……私も、やり残したことがあるの。二十年間、ずっと目を背けてきたことが」
2
真理子は、かつて中絶の手術を受けた、あのクリニックの跡地に近い寺を訪れた。
水子地蔵が並ぶ静かな一角。彼女は、聖の遺品である「黄色いスケッチブック」と、二十二年前のエコー写真を並べて置いた。
聖を失った後の「安堵」という、消しようのない汚れた本音。
自分のキャリアを守るために、一つの命を消したあの日。
これまでは、その罪悪感が重すぎて、真理子は立っていることさえ辛かった。だが、九条との対決を経て、彼女は一つの真理に辿り着いていた。
「……ねえ、二人とも」
真理子は、風に揺れる木々の音に耳を澄ませた。
「お母さんはね、あんたたちを愛していたわ。……でも、同時に、あんたたちの存在を疎ましく思ったこともある。……それが、私という不完全な人間の、精一杯の愛し方だったのよ」
中絶したあの子は、自分を「選別」した母を恨んでいるだろうか。
殺された聖は、自分を「重荷」だと思った母を軽蔑しているだろうか。
答えは出ない。だが、聖が遺したあの「黄色い絵」は、不完全な母であっても、彼にとっては唯一の光であったことを証明してくれていた。
真理子は、地蔵の前に膝をつき、静かに手を合わせた。
涙は出なかった。ただ、胸の奥にある「重荷」が、以前よりもずっと、温かく感じられた。
重い。けれど、この重みがあるからこそ、自分は地面をしっかりと踏みしめて歩けるのだ。
3
翌週。真理子は、佐藤たちが準備を進める新しい施設のボランティアとして参加していた。
そこには、車椅子に乗った子供たちや、意思疎通が難しいとされる青年たちが、それぞれの時間を過ごしていた。
「あ、高木さん! ちょうどよかった、この子の着替えを手伝ってもらえますか?」
佐藤に呼ばれ、真理子は一人の少年の元へ向かった。
少年は、聖と同じくらいの重い麻痺があり、絶えず体を揺らしていた。
真理子が近づくと、少年は不意に動きを止め、彼女の顔をじっと見つめた。
そして、聖がよく見せてくれたのと同じように、不器用な、しかしひたむきな笑顔を作った。
真理子の喉の奥が、熱くなった。
彼女は少年の手をそっと握り、耳元で囁いた。
「……大丈夫よ。お母さんが、ここにいるからね」
それは、自分自身への言葉でもあった。
九条が掲げた「秤」はもうここにはない。命を量る必要などない。ただ、目の前にある温もりを、そのまま受け入れるだけでいいのだ。
窓から差し込む午後の光が、部屋全体を黄金色に染め上げていた。
それは、聖がスケッチブックに描いた、あの「黄色い世界」そのものだった。
真理子は、新しい一歩を踏み出した。
二つの命をその背に、誇り高く背負って。
彼女の歩く道には、かつてないほどの明るい光が、どこまでも続いていた。
作 川見 優里




