手を差し伸べて
*
タンタンタンタンと、軽く重く、足音は沈むように鳴りながら床板を軋ませる。
シーツを置いてきた代わりに紅茶を淹れ、文は屋根裏へと向かった。
部屋数は足りなかった――というよりも、物置と化している部屋が多すぎた。あの先代の趣味が骨董品収集なのだから仕方ないと放っていたのだが、ヴァニッシュが来てマリア伯母様も今後もしも泊まるようなことになればいい加減片付けないといけない。
脚で屋根裏のドアを押し開き、文は微笑みながら言った。
「入るよー、いい?」
「――入ってから言うな、アホ」
窓辺に腰掛けていつものように読書。いつもと同じポーズ、同じ姿――
サイドテーブルの上に盆を置き、文は角砂糖の瓶を開けた。
「何個入れる?俺は三つ入れるけど」
「同じでいい。入れなくてもいいぞ」
「甘いの嫌いだもんなー、ノアって。了解」
二つのカップに紅茶を注ぎ、片方には三つ。もう片方には、六個ほど入れさせてもらった。
本から目を離さないノアへ大量の角砂糖の入ったカップを渡し、文はニッと笑んだ。
ありがとうと言ってカップを受け取り、ノアは熱く湯気のたつカップの縁に口をつけた。
「っ!?」
「どう?旨いだろー?実はな、ダージリンからジャスミンティーに変えてみたんだよ。苦いけど香りがいいよなーって」
「……殺すぞ」
「あははー、バレた?」
馬鹿なふりをして、砂糖をさらに足す。ぽとんぽとんと音を立てて、カップの底に角砂糖が沈んでいく。
言葉を失ったように呆然とカップを眺め、ノアは読みかけの本をしおりも挟まず置いた。
「……いつかの綿あめみたいな味がするが」
「おぁ、覚えてたんだ。不味いとか言ってなかったっけ」
「――甘味が嫌いなんだ。てめェがどうしてもというから食べたまでであって」
「はいはい。じゃ、これもどうしても」
人の食べ物が嫌い、人が嫌い、外が嫌い、太陽が嫌い、人の作りだしたものが嫌い、何もかもが嫌い、好きなものは――
角砂糖の一つを指先でくるくると弄び、文はノアの唇にそれを押し付けた。
「――甘いの、嫌いなんだろ」
「行動と言動が伴っていないな。てめェ、何を考えて――」
「あはー。ほら――ノア、口開けてくれないと襲うよ」
「色々と間違っているぞ。大体てめェ、あの狼を変えたろうが」
「情報早いね。見てたとか?」
「勘だ。てめェに意見する気はないし、あいつも同意の上だから構わんが」
そう言葉を吐き、ノアは角砂糖を文の指ごと口に含んだ。
ぷつっと指先が歯で切れ、数滴紅く血が流れた。
「……折角治したのに」
「何度も何度も、てめェの血を飲み続けて――治らなくったって、不満なんてないくせに」
「愛してる。だから許せるんだけど――わかれよ」
突然表情を失くし、文はノアの首に両手をかけた。
強く力を入れ続け――小さく音が鳴った。
ふっと笑んで、ノアは言った。
「そうして俺は――てめェのように翼を生やして窓から飛び立てばいいのか?」
「っ……何それ。当てつけか」
「勿論。ヒトの首を黙って折るようなやつには、お灸をすえてやろう」
文の力が緩まったその一瞬を見計らい、ノアは片方の腕で文の身体を抱き寄せた。
コキッと音を立てて折れた首を戻し、ノアは静かに文の耳元で囁いた。
「――殺してやろうか」
「……殺せないくせに。ノアは、俺がいないと生きていけない」
「わかっているじゃないか。なら、どうして笑わない」
「笑ったら、ノアに馬鹿にされる」
そう言いながらも、こんなことを言った時点でもうにやけ始めている。ノアのことが好きすぎている自分はもう、末期なのだろうか。
ぼそりと、ノアは静かに何かを囁いた。
「は……?」
「だから、キスしようと言ったんだ。聞こえなかったか?」
聞こえたとか聞こえなかったとか、そんなことはどうでもいい。問題は何を言ったか――
ただ静かに笑ったまま、ノアは文の唇に指を滑らせた。
「俺には文、てめェが必要なんだ。どんな世界よりも、ずっとずっと美しい」
「ノアお前っ……首折ったから怒ってんのか!?だからそんな恐ろしいことっ……!」
「いいや。てめェを愛している――ただそれだけだ」
くっと指先を顎にかけて上げられ、文は嗚咽に似た声を漏らした。
サラサラと風になびく黄金色の髪を垂らし、ノアは文の頬に軽くキスをして見せた。
「――奪われたくないんだ。あの狼にてめェを奪われるのが、たまらなく怖い――わかるよな?」
「わかるかよ……だって、ノアは……」
「てめェがいなければ、きっと今頃生きているお偉方とともに荒らしまわってるだろうな。てめェは、俺の生きている理由だ」
「……そんなの、卑怯だろ」
この言葉を聞くのは遅すぎた。今、心は真っ二つだ。どちらか片方を愛することなんてできそうにない。
ノアの腕を払いのけ、文は目を閉じて唇を噛んだ。
「その言葉――嘘じゃないなら、願いを叶えろよ」
「あァ。“ご褒美”か」
「……ヴァニッシュにも言うつもりだけど。先に、ノアに言っておいてもいいよな――」
宣言なんて大層なものじゃない。このまま――キスして――
噛みつくようにノアの首筋に牙を立て、文はまた喉を鳴らした。
少々表情を引きつらせ、ノアは文に言った。
「またヘタになったな……もっとうまくやれ」
「無理。ヴァニッシュよりは激痛にしてるけど」
「何の気遣いだ。慣れたが、うっとうしい」
文を無理矢理に離させ、ノアは細く血の垂れる口端を舌で舐めた。
すっかり冷えてしまった紅茶の香が、潮風に混じって部屋にたちこめた。
「珍しいな……海からの風か」
「もうすぐ秋だから……そしたら、あんまり部屋の中でも薄い格好はできないかな……」
「知るか。【吸血鬼】なのに風邪を引くこと自体おかしい」
甘く甘く、溶けた角砂糖のように。唾液と血液と紅茶と――それから、全ての何かに対して。
無駄と思われる、倒錯的で意味のないキスに抱擁。愛情なんて目に見えないものを信じているとも思えない。なのに、離れがたく辛く苦しい。
ただ何度か苦しそうに息を吐くものの、ほとんど呼吸なんてしていない。心臓が動いていないのだから。
舌を絡めるような深いキスを交わし、文はノアを強く抱きしめた。
「――起きようか。俺の願望を叶えたい」
「……もう少しこうしていたいがな。独占できる時間は長くない」
「あははー。そーだねぇ」
「馬鹿に戻るな。俺だけを見ていろ」
見ていたいけど――叶わない。見つめていると惑わされる。心がおかしな方向に動いてしまう。朝から体を舐められ自主規制レベルのことをするのはまだ良心が許さない。
にぱっと笑んで、文は紅茶をぐっと飲み干した。
強い甘い香りに、舌が痺れるようにノアの血の味を思い出させた。
*
森の真ん中、世界が傾き月は泣いて沈んでいった。
何もないなんて誰が言った。喧嘩するよりは何もなく、ひっそりとした日陰でいる方がずっとずっと楽しいじゃないか。
チックタックチックタック。針は回ってくるりくる。終わらない世界に言葉はない。
朝日を遠目に眺めている“マリア”に近づき、リリスは箒を機に立てかけた。
「……おはよう。綺麗な朝ね」
「あら、リリスいたの?どうかした?」
「――おやすみ」
油断している今なら、叶わないことも叶う。したくないことでも叶う――
“マリア”に急いで駆けより、リリスはその頬にキスをしてみせた。
「……なん……で……?」
「――――だから大っ嫌いなのよ」
カチリ、と歯車が最後の音を立てて止まった。
足元から灰と化して消えた“マリア”を見つめ、リリスは思い切り木を蹴りあげた。
「っ……あのねぇっ!!私、嫌って言ってるの!!!わかってよ!!!!!!!!」
「――わかってるわよ。そう怒鳴らないで頂戴な」
「嘘つかないで!!」
シュタッと木の上から降り立ち、マリアはにこっと微笑んだ。
気が立ったネコのように興奮しながら、リリスはマリアを睨んだ。
「あの子たちのためじゃない、ありがとう」
「これがヴァニッシュ達のためじゃなかったら、引き受けるわけないでしょう!?」
「はいはい。感謝してるわよ」
「っ、【魔女】のくせに……!」
「あなただって。【魔女】であることを望み、【悪魔】の地位を捨てた。そんなあなたが大好きよ」
「いい道具でしょうね。協定を結んでいなかったら、あなたとなんてありえない」
いい加減キャットファイトを起こしそうなリリスをなだめ、マリアは足元の灰を踏みにじって朝日を仰いだ。
「――うまくやったんでしょうね、きっと」
「?何のことかしら」
「A君よ。やっと休めるわぁー……」
ふわぁとあくびをして見せ、マリアは箒に腰掛けてリリスに手を差し伸べた。
ハテナマークを顔に浮かべ、リリスは訝しみながら言った。
「その手は何」
「休暇と洒落込みましょう。おいしいプディングをご馳走するわ」
「……餌で釣るつもり?」
「来ないならいいわよ」
「っ、行くに決まってるでしょ!?待ちなさいよ!」
飛び立とうとしたマリアの腕を掴み、リリスはその後ろに飛び乗った。
薄いが青く澄んだ色と混ざる朝焼けの美しい桃色の空に向かって、マリアは風を切った。
次回最終回予定です