お嬢さんは俊足 Ⅱ
驚いたように口を半開きにし、相手の青年はじっと文を見つめていた。
ヤバい、やってしまった。
ほんの些細な癖だからいつもは抑えてるのに――どうして――?
「あ……あの……?」
「っ……!?」
困らせている――そんなことわかってはいるのだが。
この血の味は
誰よりも甘く、ほろ苦く
甘美な果実のごとく、喉を潤していく。
この手を――離したくはない。
「あ、えと……大丈夫だから。ちょっと、石で切っただけ……」
「ぅ……あぁ、うん……」
名残惜しいが困らせるのはつらい。疲れがすべて、たったの数滴で消えてしまった。
フードを深くかぶり直し、青年は文に頭を下げた。
「すみませんでした……」
「こっちこそ勝手に……ごめん」
「……知らない方にこんなことを言うのもどうかと思うんだけど、あの、こっちに女の子が走ってきてないかな?小さな子で、籠を持ってて……」
「女?もしかして、リリスって子か?」
「あ、知り合いか何かなの……?」
嬉しそうにほころんだ表情が、何故か曇った。
「いや、さっき会って……付いて来いって」
「……またそんなこと言って……」
「妹とか?にしても足の速い……」
「家族じゃあないんですが、そんなものかと。で、どっちへ?」
「見失ったんだけど……」
「そっか……」
あんなに足の速い女の子捕まえることできるのか。俺でさえ無理なのに。そもそもあの子は人間じゃない。別の匂いと、あの足の速さが証拠だろう。
――じゃあなんで、こいつはあの子のことを「足が速い」って知ってるんだ――?
「リリスは悪い子じゃないんだけど、イタズラが好きで……すぐに他人を迷子にさせるんだ。自分は遊んでいるつもりなんだろうけど、いい迷惑で」
「で、捜してんのか」
「うん。さっき会ったんだけど、こっちに逃げちゃって」
「そっかぁ。んじゃ、手伝うわ」
困ってる人を見つけたら、助けたければ助けろ!別に教訓でも何でもないが、良心があるなら当然のことだろう。
困ったように、青年は慌てて立ち上がった。
「そんな、いいから!一人で大丈夫だから!」
「いいっていいって。手伝わせてよ、あんたの手に余計なことしちゃったし」
「余計なこと……か。それじゃあ、手伝ってくれるかな」
ああ、やっぱり余計って思われてるー……。心が痛い、痛すぎる。
にこりと笑んで、青年は文に言った。
「俺はヴァニッシュ。そう呼んで。で……お兄さんの名前は?」
「お兄さん言うな。同じくらいのくせして……俺は文」
「あや、か。うん、わかった」
そう言って明るく笑うこいつを見て、どうしてもさっきの血の味がよみがえってくる。何とも比喩しがたい、至高の蜜の味――
と、風が足元を走り抜けた。
「!?」
「いやがったぁぁぁぁぁぁ!!!!!」
常人の目には映らないリリスの姿を文は確実にとらえていた。
準備もそこそこに急激にスピードを上げて走り出し、文はリリスを追った。
「うにゃっ!?」
「まぁちやがれぇぇぇえええぇ!!」
あと数メートル。逃げられたのは癪だから必ず捕まえる。
狭い路地をちょこまかと逃げ回るリリスに文が手を伸ばした刹那――
「――っ!?」
「つぅかまぁえた――」
ワキから出てきた一つの影――それは文よりも速くリリスを捕えた。
ズガシャァアン!と破壊音を立て、リリスと影は地面に転がった。
「痛たたぁ……何するのよ、レディに向かってぇ!」
「レディ?……そっか、レディだったね」
そう言ってほほ笑む影は、文を見やった。
「あぁ、驚いてる……俺も足が速いんだ」
「あ、そう……」
ヴァニッシュ――やはりそうか。びっくりしたが気にもしてないらしい。
ぷくっと頬を膨らませ、リリスは文を睨んだ。
「むうぅ。サイッテーよ。私をヴァニッシュに捕まえさせるなんて」
「……ごめん」
なんと返していいのかわからない。
唯一つわかったこと――
この男も『化け物』だ――
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