晴れ晴れとおはよう
* * *
コポコポコポコポ……耳に優しいその音と、ほろ苦い大人の香り。
静かに目を開き、一人の青年はぼぅっとする頭を手で軽く押さえた。
「……朝……?」
「おや、起きたの?遅かったわねー」
くるりと振り向き、ポットを手にしてそのヒトは文に向かって笑いかけていた。
まだ覚醒していないからかぼーっとしたまま、青年はカーテンへと手を伸ばした。
見慣れた風景とともに、明け放たれた窓から室内に風が吹き込んだ。
「……帰ってきた……?」
「なぁに寝ぼけてんのよ。早く目を覚ましなさい」
「伯母……様……」
体にうまく力が入らない。匂いだけはわかるのか、鼻がひくつく。
自分の分のコーヒーをカップに注ぎ、マリアは青年の眠っているベッドに歩み寄った。
「おはよう、文。よく眠っていたわね」
「……っ!!」
あぁ、帰ってきた――そうだ、帰ってきたから自分はここに――!
頬をほころばせ、文はマリアに精一杯笑いかけて応えた。
*
どうやって帰ってきたのか、何をどうしてこうなったか――全く分からない。覚えていないのか、そもそもそんな事実はなかったのか――今思えば、現も幻も同じに感じる。
ベッドで眠っていて、気が付くと傍に伯母様がいた。これだけが今、わかっている。
仰向けになったまま、文は自身の腕に巻かれた包帯を眺めて言った。
「……傷だらけー」
「そうよ。全く……手当てするのは誰かわかってるんでしょうね、その傷だと」
「病人には優しくしてよ……けっこう頑張ったんだから」
「あら、どうでもいいわそんなこと。興味ない」
冷たく言い放ち、マリアは窓辺に腰掛けて髪をなびかせた。
黒のローブのようなドレスも一緒になびき、マリアは不敵に笑みを浮かべた。
「――勝つことは宿命よ。わかっていたからどうでもよかった」
「あぁ、そういうこと……確信なんて珍しい」
「私は負ける賭事はしないわ。勝つから賭けた、それだけよ」
自信に満ちた発言と行動。この人はいつだってこうだ。
包帯だらけの身体を引きずり、文はゆっくりと体を起こした。
「……で。俺以外の大切なヒト達は?」
「とっくに起きてるわよ。下でリリスと話してるみたいだけど……」
「用事でもあったの?最近いろいろありすぎてわかんなさすぎ……」
「主にあなたのことよ。あー、疲れたー……心配して損したわよ、文。元気じゃない」
「まぁ、父さん譲りのタフだから」
実感がない。生きていることに対して、全く感覚がない。何故なのかは分からないけど、亡霊になってしまったようで。
マリアをおいて部屋を出て、文は階段を下りはじめた。
何やら声がするのに引かれ、花に集う蝶のように文はふらふらとその方向へと寄っていった。
大切人の声が聞こえる。姿は見えないが、ものの数秒で見えるだろう。
――目に映っていたはずの、大切なヒトの美しさ。見えていたのに、わかっていたのに――
歩みのスピードは速くなり、徐々に鼓動が高まっていく。心臓は動いていないはずなのに、それでもドクドクと血を走らせて――
強くドアを開け、文は部屋に飛び込んで腕をめいっぱい伸ばした。
「っ!?文っ……!?」
「何で……まだ寝ててもいいのに……」
「ノアっ……ヴァニッシュっ……!!」
飛び込んで抱きついたからどちらに抱きついたかは分からない。けれど、暖かな感触は――
不意にはたと気が付き、文は恐る恐る顔をあげた。
「……あ」
「レディに抱きつくなんていい度胸ね、バーロー。死んでくれる」
【吸血鬼】なら暖かいわけがない――つまり、ヴァニッシュかと思った。しかし、アイツならもっとオーバーリアクションをとるはずだ。
リリスのイラつく声を耳にし、文は慌てて彼女から離れた。
「リ、リリスって知らなかったから!知ってたら抱きつかない!」
「失礼な……怒らせたいの?」
「いやいや……あれ、二人は?」
「――ここだ、馬鹿」
「バッカじゃないの――」
きょろきょろと文が辺りを見回すと、同時に二人の声が背後から降ってきた。同時に、一発ずつ拳も。
慌てて振り向き、文はにひゃっと力の抜けた笑みを浮かべた。
「おはよー、二人とも。起きぬけ早々愛が痛すぎる……」
「うるさい。こちとら、てめェと同じほどに傷だらけなんだ」
「そうそう。結構痛いんだからなー……」
不機嫌そうだが、あくまでいつも通り。おかしく感じるほどに。
包帯を巻いた手で文の手をつかみ、ノアはリリスに背を向けた。
「――話は終わりだ。文が起きた以上、勝手なことは口出しさせない」
「勝手にして頂戴。ヴァニッシュまで……」
「文句は言わせないよ。リリスのことは大好きだけど、僕はこっちを選んだんだから」
何やら自分の知らないところで話が進んでいるようだ。といっても、憶測はつく。
二人に腕を退かれたまま、文はそのまま外まで連れ出された。
風が強いらしく、さっきよりも冷たく木々を揺らしていた。
「……文」
「ん――何?さっき、リリスと何か話してた?」
「あぁ。てめェのことについてだ」
「俺?なにかやったっけ……」
まだはっきりしない。昨日自分が何をしていたのか、何ができなかったのか――わからない。
少々表情を曇らせて、ヴァニッシュは言った。
「……その、さ……昨日のこと、頭に残ってる?」
「あんまり……ごめん、本当にぼんやりしてて……まだ寝てんのかなー?」
「茶化すな。真面目な問題だ」
と言われても、わからないものは解決のしようがない。思い当たらないものは、まだ脳が眠っているんだろう。
髪を押さえて、ノアはふぅと息をついた。
「……ヴァニッシュはもう、ここから離れることはないだろう。てめェがここから居なくなることもないし、ずっと前のままだ」
「え……何、どういうこと?」
「こいつは、リリスの下からも自由になった。つまり、戻るところがなくなったというわけだ」
「けど……戻るって、ここが居場所だろ?」
「てめェに渡した時点でそうなるはずだったんだが。正式に契約を交わしたというわけだ」
譲り受けたということか?記憶がぐちゃぐちゃで、どこからが正しいのかがわからなくなってきている――
ん、と言葉を詰まらせ、文は絆創膏を張ったヴァニッシュの頬を指で撫でた。
「っ、何!?」
「……あ……」
――そうか。そうだった、どうして忘れられたんだ。
ようやく覚醒し、文はヴァニッシュの首に両腕を絡めてその体を預けた。
不意な重さによたつき、ヴァニッシュはそのまま地面に尻もちをついた。
「あ、文……?」
「……俺……ヴァンを……」
「っ――それ、僕が殺したんじゃんか。文は悪くない」
「俺が体を奪われたから……だから……」
「いいんじゃないか、あの結末で。しなければ、こうして日の目を浴びることもできなかった――」
そう吐き捨てるように言い、ノアは陽の下で大きく伸びをして見せた。
ぽかんと口を開けてそれを眺め、文はノアに指摘した。
「ノア、お日様……大丈夫なのか?」
「は?ダメに決まっているだろう」
「じゃあなんで……」
「――川で溺れていたてめェらを体を張って助けたのはどこの誰だと思ってるんだ」
何事もなさそうにそう言い、ノアは文の手を掴んだままヴァニッシュを睨んだ。
むっとしたように、ヴァニッシュももう片方の手を離すまいとより強く握った。
「仕方ないだろ!?僕だって、“覚醒”が解けるまでは自由に動けなかったんだから。それに、傷ついただけで来なかったあんたに言われたくない」
「文句を言うには十年早い。出直してこい、青二才が」
「黙れおっさん」
「待てって!何で喧嘩するんだよ……」
呆れたように思うのに、何故か笑いがこみあげてくる。くすぐったいような、変な気分なのは間違いないが。
文を一斉に見やり、二人は同時に舌を打った。
「似てるじゃん、二人とも。性格全然違うっぽいのに」
「うるさいぞ、文。こんな獣と似てるなど、心外だ」
「はぁ?おっさんと一緒にされる僕の方が不憫じゃん」
晴れた空、明るい世界。こうやって笑っていられることが、こんなにも素晴らしく楽しく、煌めいている――まるで、親しき友人のその上――
と、不意にノアがぎょっとしたように文の顔を覗き込んだ。
「おい、文……どうしてここで泣くんだ」
「え……?あ、ホントだ……何でだろ……」
ボロボロとみっともなく、突然あふれ出してきた。こすってもこすっても拭いきれないほどに。
しまいには諦め、文は涙を流したまま二人と繋いだ腕をぶんぶんと振った。
「――守れなくって、ごめん」
「……守ってもらったよ。離さないでいてくれたから、今こうしてここにいられる」
「てめェが自分を責めることはないだろう。悪いのはこのアホ犬だ」
「喧嘩売ってんの?しつこいと嫌われるよ」
「てめェよりかマシだろう。文は従順だからな」
また始まった。止めてもキリがないが、放っておいたら自分に火の粉が飛ぶ。
逃げるように身を翻し、文は空を仰いだ。
「――青すぎ。流石に眩しいかな……」
「……文。てめェ、俺を愛しているとかほざいてたよな?」
「っ、まぁ、うん……ダメ?」
「いや、別に。喜んだら襲ってやろうかと思った」
恐ろしげもなくさらりと言い放ち、ノアはようやくいつもの黒い蝙蝠傘を挿した。
逃げる間もなく、ノアの手が文へと伸びた。