覚醒
*
明るく、眩しく――ひどく、苦しく。
痛いところが多すぎる。心の右と、片隅と、中心と――……。
不思議そうにもなく、唐突に猫は尋ねた。
「……何か不満でも」
「あァ――そう、だな。不満というか……」
唇を噛んでみるものの、何が悪いとは一概に言えない。自分が頼んだのだが、心が痛く苦しい。
尾をふわりふわりと揺らし、猫は和んだように微笑んだ。
「心配しなくてもいいよ。運命は――俺の手の中だ」
「そんなことは知っている。だが――」
「何それ。馬鹿にでもしてる?」
「――少しは、な。お前の存在が絶対なのは知っているが、それでも面倒なほどに――」
「……あの子が心配なんだ。どうして?」
「お前には関係ない。黙って傍観していろ」
心配だと……?あぁ、心配だ。壊してもかまわないが、あの子にはひどい癖がある。それを制御できるものがいるかどうか――いないところで、何も変わりはしないが。この世界が壊れるだけだ。
ただ考えにふけっているだけで、自分は動けない。本当なら、あの子に手を貸してやりたかったのだが、それも叶えてはいけない。叶えた時点で自分はまた違う次元の化け物になってしまう。それは面倒で嫌だ。
「……黙って傍観、ね。あんたこそ、それ守ってよ」
「わかっている。必ず――」
必ず叶えてくれると。今はただ、それを信じよう。
*
キィンッ、カンッ――――
刃が打ち合い、金属音が鳴り響いた。草原には月光がめいっぱい差し込み、静かに自分達を照らしていた。
あぁ、もう――理性が壊れかけている。頭が締め付けられるように痛く、吐き気までしていた。いつ、ノアは本に火をつけたのか――まだ、あれは燃え続けているのか――
血を吐き、文は柄を握り締めた。
「いい加減っ……くたばれ」
「そっちこそ。邪魔……」
言葉が乱雑なのはお互い様。刃が血に濡れているのも。
ぺろりと刃を舐め、ヴァニッシュは文に斬りかかった。
反射的にそれを受け止め、文は歯をきしませた。
「っ……」
「お兄さん、匂いが変わってる――ひっどい匂い」
「はッ……黙ってな、餓鬼のくせに」
止めてほしい――けど、そんなことも考えられなくなっている。
狂気めいたヴァニッシュの眼を睨みつけ、文はその足を払った。
軽々とそれをかわし、ヴァニッシュは拳で文の腹部に一撃を繰り出した。
「何で……?つっまんない、お兄さんってそれくらいでへばるような身体じゃないよね?」
「……は――」
「っ……と。体……えらく侵されてるね。これって、チャンス?」
にたりと、ヴァニッシュは楽しそうに笑んだ。いっぱいに狂気を孕んで。
ドサリと音を立てて、文はそのまま背の高い草の中に倒れた。剣も離し、完全に無防備な状態で――
剣を掲げ――降り注ぐ月光の中をその鈍色は真っ直ぐに落ちた。
*
「っ、文!?」
胸騒ぎがした。何かがあったのか――?
振り向いたノアの脇を鋭利な刃がかすめた。
「くっ……」
「こっちにはクァトロがいる。油断するな」
目を爛々と光らせて自分を狙っている獣の姿。それはわかっているのだが、体が勝手に反応した。
煌々と燃え盛る本の束。二冊目も三冊目も焼け落ちた。
早く文のもとへ戻りたい。あの化物、尋常じゃないほどに強い――もしも、万が一のことがあれば、俺は――
血の滲む脇腹を手で払い、ノアは舌打った。
「――片付ける――」
「クァトロ、迎撃」
「グァアアアァアアアアァアアアアア!!」
狂っている。だが、獣には慈悲の心さえも無駄。
素早く相手の懐に入り込み、ノアは数本の隠し持っていたナイフをその胸に突き刺した。
返り血で頬が朱に染まる。
「クァトロ!?」
「俺を見くびるなよ。こんなやつごときに――」
――ズブ、と。
刺したはずのナイフが、乾いた音を立てて地面に落ちた。
地面に伝う紅い液体が、靴を濡らし、脚を濡らした。
「は……」
「不死の肉体でも、痛みはあるでしょう――?」
クァトロに刺したはずのナイフは、真っ直ぐにノアの右ももに刺さっていた。それが、地面に落ちていたのであった。
自分でもう一本のナイフを引き抜き、ノアは膝をついた。
「二本も刺しやがって……痛い」
「知っている。私を舐めるなよ、【吸血鬼】」
「ダメージを相手にも与える魔法だろう、わかっている――面倒くさいものを……」
傷はそこまで大きくはない。しかし――血が足りない。
と、ノアははたと耳をそばだてた。静かに、息をのんで。
何かが近づいて来る。こちらへ、ゆっくりと。
背後ということは、来るものは限られてくる。それに、その方角には文がいたじゃないか――
「っ……!」
「ん――?あぁ、あの化物もう来て――」
月光の中に見えるシルエット。返り血を浴びた様子はなく、自身の血液で腕や足に紅くラインが残っているのが見えた。
ジャリ、と石を踏みつけ、そのシルエットの男は長い銀髪を揺らして微笑んだ。
「こんばんは、お兄さんの愛しい人。無様だね」
冷めたような声色。嗤っているのか、表情はあまりはっきりしていなかった。
ほたりと、紅くラインが落ちた。
抜けていた、文字を入れ直しました