三日月の下で
「――死んでいるようだな」
「いや、生きている。これくらいでへばるような命なら、とっくにこの世にはいない」
倒れ伏すその肉塊に、ヴァニッシュの原型はとどめられてはいなかった。もはや他人と言えるほどに、その姿は変わってしまっていた。
美しく、醜く――黒と白の両方を兼ね備えたような、そんな風に。
ぴくりと、クァトロが耳を動かした。
「……どうした?クァトロ」
「あァ……どうやら、来客らしい。手厚く迎えようか」
「――了解」
クァトロの意思を理解し、ヴァンはマントを翻してもと来た道を戻っていった。
それについて歩きはじめ、カルヴォとクァトロも闇にその姿を消した。
*
風を切り、速く――速く行かなければいけないのに――
翼をはためかせ、文は宵空を滑空していた。ただ一つ、大切なヒトを求めて。
ノアの手を離すまいとし、文はその彼に尋ねた。
「この辺だよな……」
「あぁ、そうだな。谷の下と聞いたが、違うか」
「時間ないのにっ……!もう、月が――」
「慌てるな。焦りは余計に思考を狂わす。よく見回せ」
いやに落ちついている。いつだってノアはそうなのだが、今回ばかりは落ちつけない。
焦りを表に出し、文は必死で周りを見回した。
岩肌がごつごつとむき出しになっている。やわらかなせせらぎに、草原に――
はっと息をのみ、文はその草原へと急降下した。
「っ、ヴァニッシュっ……!」
「待て!結果を急ぐな、どう見ても罠だ!」
ノアの声が頭に入らなかった。それほどに、切羽詰まっていた。
草原に人が倒れている。こんな場所で倒れているのだから、ヴァニッシュに違いない。
ひらりと地面に降り立ち、文は慌ててそのヒトの元へと駆けた。
「大丈夫か!?お前、一体何がっ……!」
「文!戻れ!!」
怒鳴り声に反応することはなかった。目の前の人が心配で、それどころではなかったのだ。
文の呼びかけに、彼はゆっくりと半身を起こした。
真っ白な長い髪はボサついて千切れた草が絡み、服はところどころが破れて肌がむき出しになっていた。爪は尖り鋭利に輝き、靴は谷底までの岩に引っかかっていた。
文に目を向けると、彼は静かに笑んだ。
その眼は――【吸血鬼】の紅だった。
「っ、同類かっ……!?」
「……いい匂いがするね、お兄さん――血の香りだ」
芳しい、その香り。隠していても何よりもばれやすい香りなのだ。
ノアに腕を引かれて後退し、文はその影をただただ呆然と見つめていた。
月光に暗く影を落とし、なおかつ微笑を浮かべているその青年。自分は間違いなく、その青年を知っている。
そっと手を伸ばし、青年は自身の耳をふにふにと撫でた。
「……ねェ」
「っ……何?」
「――俺は誰?わかるでしょ、お兄さんなら」
「……あぁ、うん。よく知ってるよ」
「本当!?じゃ、教えてよっ」
会ったばかりの時と同じようなやり取りだ。この話し方で、何とはなく壁を感じていた。
腕を振りほどき、文は応えるように手を伸ばした。
「お前は――俺の愛した大切なヒトだよ」
その答えに、青年はにこりと笑んだ。
そうして――放たれた弾丸のようなスピードで、文に迫ってきていた。
避けられず、文は草原の背の高い草の中へと体を吹き飛ばしていた。
「――愛した、だって?俺にはねぇ、そんなものないんだよ」
「っ、何それ……」
「知りたい?――俺は、殺人鬼なんだ。ぜぇんぶ、この手の中で真赤にっ……!」
高く笑いながら、青年は文に笑いかけていた。それは、楽しそうに嬉しそうに。
再び文の腕をつかみ、ノアは口を開いた。
「――俺は、別行動をとっているであろうあの三人を追う。そいつを――てめェを救ってやる」
「……無理しない程度に、頼む。ごめん」
「了解。無理はして当然」
「それは許さない。無事に、また三人で笑えるのなら――いつかみたいにご褒美を頂戴」
「……できにもよる。てめェが無事なら、それで――」
そこまで言って、言葉は中断された。
二発目の攻撃が、文とノアの間に入っていた。
「――一人にしないでよ。俺、足だけは速いんだ」
「……ノア」
「わかっている。必ず――」
そう、絶対だ。誰かが欠けるなんて、あってはならない。
二人の間を抜けて駆けていくノアを眺め、文はニッと笑んだ。
「――な、ヴァニッシュ。お前も欠けさせる気はないから」
「余裕じゃん、お兄さん。ぜんっぜん面白くない」
「そう?俺はずっと――二人に一途だよ」
頭上には三日月。満月でなければ威力は少々減ってしまうのだが、いたしかたない。
ふぉん……と、文の手中にあのふよふよとした何かが現れた。
「[ヴァンパイア・ブラッド]」
「へぇ、殺る気?俺を?愛してるとか言ったくせに」
「だから――正気に戻す」
破れた服の下には、あの痛々しい文字と絵が。魔方陣に十字架に、意味のないような羅列した言の葉。それの全てを、見てしまっている自分。それが憎らしくて、悔しくて。
傍にいてほしいのに、居てくれない。そんなこと、わかっているのに――
ふよふよを手中に戻し、文は静かにヴァニッシュを見つめていた。
――刹那。止まったような時が、動き出した。
どこから取り出したのか、ヴァニッシュの右手には剣の柄が握られていた。
素早く先攻を取ったヴァニッシュは、なぎ払うように剣を振った。
ヒュッと空を切った音がしたものの、文はとっさにヴァニッシュの懐へと入った。
ふよふよが、剣を形作る。
「っ!」
「何やってんの。当たるわけないじゃん」
かすめたが、それは服の端を切っただけだった。体には刃の先端さえも触れていない。
再び距離を取り、ヴァンッシュは言った。
「……あは、お兄さんっておんなじ匂いがする」
「どういうことか……説明は」
「たくさん――たくさんたくさん、雨が降るくらいに――殺したんだね」
なんと返していいのか――返せるのか――
俺は、何と答えを返したか。自分、固まってしまえば終わってしまうぞ。
ぼぅっとする頭をゆっくりと左右に振り、文は剣をヴァニッシュに向けた。
「――――――――――――――――――――――――――――――」
「……そう。俺と同じだね」
同じ――それだけで満たされていく。人間のような浅はかな感情が体の中で渦巻いている。
『すくって』やりたいと思うのは、間違いでないことを――どうして否定ができるんだ。
巣食って、救うのが。それが俺の役目であるように――