醒めた夢
「能力――?」
殺す――『能力』という概念を殺すなんて、そんなことありえない。
しばらくその光景を見ていた猫だったが、やがて呆れたように溜息を吐いた。
「――うちの馬鹿どもと同じように見えるから、やめてくれる?」
「……あぁ、お前のところにも狼がいたな。しかし、【吸血鬼】とは違う」
「知ってるよ。……で?いつになったらここから出て行ってくれる?そのアヤっての、もうここの空気に耐えられてないよ。殺すどころか――廃人になるよ」
「わかっている。しかし――私の姿が維持できるとすれば、ここくらいしかないだろう。城にあるのは、ただの文字だ。私であって私でない」
声が頭の中で反響する。視界には姿は映るが、他には何もないように見える。
チッと舌打ち、ムーンエッジは文に強く言った。
「聞こえるか、文。君はあの狼と一緒に居たいんだろう」
「ヴァニッシュ……?」
「そう、あの狼だ。平穏を願っても、そんなものは存在しない。だからこそ、君は全てを敵に回して戦わなくてはならない」
「戦う……」
オウム返しに答えるしかなかった。神経が全て麻痺しているような――体の感覚がもうない。
耳をぴくぴくと動かし、猫は言った。
「早く。俺、今日はお茶会の約束あるんだよねー……可愛い妹とかと」
「うるさいな、シスコン。――ムードが台無しだ」
「へぇ、そんなものあったんだ?食べられないものに興味はない」
そう言いながら、猫はそっと文の唇を指先でなぞった。
ぱちりと、文は瞬きをして猫を見ていた。
「――――さぁ、出て行くんだ」
「……あんたは……」
「俺の全てを知ろうとしちゃいけない。でないと――俺と同じになってしまうよ」
「勝手に話を進めるな。私の用が終わっていない」
「そうなの?要するに、ノアの持っている本を燃やせばいいんでしょうが。そんな簡単な説明もできないのかい?」
「っ……黙れ。あれには理由がある。何もなしに納得なんてできるはずもない。わかっているのか、ハイネコ」
「わかっているよ。けど――アヤなら理解する。もうわかっているだろう?」
にぃっと、意地悪く猫が微笑んでいた。
答え――そう、わかっている。わかっているのだ。
俺は、本を燃やさなければいけない。
なぜなら、そこにムーンエッジの全てが存在しているから。
壊さなければいけない――何もかもを二人のために――
少しさみしそうな表情をしたものの、ムーンエッジはわかったとでも言うように頷いた。
「……では、これでお別れだ。いいね」
「……お別れ?」
「そうだよ。私は、君に壊されるのを待っている。それがいつになってもかまわない。だから、君の手で壊すんだ」
「――了解」
にこりと、文は返事とともに笑んだ。
パチンと、何かの弾ける音が文の耳に木霊した。
「それじゃ――帰って。今すぐに」
「っ……!」
淡かったその空間に、突如として光が強く差し込んだ。
そしてそれは文を攫うように、ムーンエッジの手から彼を離していた。
体を浸食する光の束。それはまるで、文を殺そうとしているかのように強い光だった。
さらに薄れていく意識の中、文ははっきりと目に映るものを見た。
こちらを見て笑っている、ノアの姿を。
* * *
――途方もなく――眩しい。
手を伸ばせば届く距離に、あのヒトは笑っていた。
伸ばしたら、きっと――届いたのであろう。
「…………文」
あァ――自分を誰かが呼んでいる――綺麗な、あの声で。
目覚めたいのに、体が言うことを聞かない。
それでも起きなければ――自分を待ってくれているのだから。
「――ノア……?」
「……起きたか?」
ひっそりと、紡がれる声。それが空間に反響し、淡い色を付けた。
覚醒はしない。ただぼんやりと――目の前に映る世界を見つめた。
――体中が痛む。ずきずきと、疼くように。
「ノア……居るんだろ……?」
「ずっと傍に――いるよ」
「そう……よかった……」
そうだ――俺は、負けたんだ――
体中を砕かれて、壊されて――そして、ヴァニッシュを失った。
悔しいのに、言葉が出ない。何も言う資格はない。
包帯だらけの半身を起し、文はノアの方を向いた。
「――――血が足りない」
「あぁ、だろうな――どうすればいい?何か取ってこようか」
「……ノアが欲しい」
答えはいらない。言ったのだから、有言実行だ。
いつかのように――貪って貪って、ノアを失くしてしまえばいい――
ノアを半ば強引に抱き寄せ、文は言った。
「――貰っていいんだろ。そんな目をしてる。泣き腫らした――紅い目だ」
「……てめェごときに、泣くかよ」
「泣いた、だろ。血と一緒に、舐めてやるよ」
――あァ――しょっぱい――――優しい【吸血鬼】の涙の味だ。
ノアの眼の淵を舐め、文は憂い気のある眼差しでその眼を見つめた。
「……責めないのか」
「どうして――?」
「全ての責任は……俺の……」
「――俺のせいだ」
互いに傷をつけあって、それを舐め合って――意味のない、覚醒のしない自分の裏側だ。
静かにノアを見つめ続け、文は躊躇うことなく唇を落とした。
流れ込む血液、崇高なる愛情――手の中で跳ねる鼓動に、脈は零に近い。
好きだよ――大好きなんだ――けど、そんなお前が怖いよ――
「……っは……」
「……へたくそ」
わかってるくせに――痛いことも、嫌いじゃない癖に――
舌を絡め、血を飲み干して。貪って貪って貪って、呼吸なんてもとよりしていやしないから――
何度も錆の味のするキスを繰り返し、文は静かに微笑んだ。
「――大っ嫌い」
「……気が合うな。俺もそうだ」
「大っ嫌い、大っ嫌い――嫌いだよ、嫌い嫌い嫌い」
「……そう……だな……」
ほら――言ってよ。俺が「嫌い」だって言ってるんだから、早く。
ほんの少し表情を曇らせて、ノアは息を吐いた。
「……それ以上、責めないでくれ」
「どうして――俺は、ノアが大っ嫌いなんだよ――」
「……好きだと言わないのは、俺が悪いのか」
「――負けたのが悔しいから――子供みたいなんだけどさ……悲しくて仕方がないんだよ」
答えにならない答え。ノアが何を求めているのかなんてわからない。だけど、自分の言いたいことは先に言ってしまわないと言えなくなる。
文の頬に唇を寄せ、ノアは言った。
「――永遠に、てめェの傍にいる。嫌われようとも、何があろうとも――」
「……うざいよ」
「だから、何だ。俺が不満でも、離れる気はない」
「離れてよ。ずっとずっと――遠くに」
「断る。愛しているんだ――離れたく、ない」
きっぱりと、馬鹿らしい。そんなこと言われても、心を動かそうなんて――
傍にいて――
俺を見捨てないでーー
――愛して――
「………………………大っ嫌い」
「大好きだ。てめェのためなら――死ぬ覚悟もできている。とっくの昔に」
「………………………………………大っ嫌いだ。ノアのこと、心底嫌い」
「構わない。永遠に、居続けてやる」
好き、好き、大好き――口に出す言葉をわかっているから、ノアは微笑む。
固く唇を噛み、文はノアの胸に顔を埋めた。
好きだよ――通じてる?
このコエが、聞こえてる?
いつでも俺は、ノアを愛してるんだ――
キスして――愛して――見捨てないで――
もっともっと、近くにいて――――
優しく文の髪を撫でるノアは、文の何が聞こえたわけでもないのに静かに微笑んでいた。
「好きだよ――ずっと、ずっと――」
返事なんて――そんなの、必要ないよ――
狂ってしまうほどに――ノアが想うほどに――
俺は壊れてるんだよ――――