ムーンエッジ
* * *
――苦しい。
闇の中、刃に身を引き裂かれた。
それそのものの痛みよりも、後悔だけが痛みを残した。
狂ってしまったら――心をなくしてしまうのさえも厭わなければ。
そうしたら、きっとこんなにも苦しくなかっただろう。
「それは――違うねぇ」
――ノア?
「いいや――私は、ノアではないよ」
誰――何で、俺に話しかけんの?
「さぁ、何故だろうね?私に聞いちゃいけない。私はあくまで――君を見ているだけだから」
――――何言ってんの?俺に、何が言いたいわけ?
「いや、別に――君を見ていると、哀れで面白いんだよ。誰にも必要とされないのに、ただただ空回りして逃げている君が――バカらしくて大好きだよ」
*
ふわりと――浮くような感覚が、自分を覚醒させた。
「――――目が覚めたかい?アヤ」
「……誰……?」
綺麗なヒト――真っ白な長い髪、白い肌。目は、澄んだ綺麗な紅色をしていた。
ペテン師のようなペイントが、その右頬にあった。蒼く、涙のような形で。
燕尾服を身にまとったその男は、艶っぽくにこりと笑んだ。
「私?さぁ……誰だろうね?」
「……俺を知ってんの?」
「知ってるよ。何もかもを――君の全ては」
「俺の全て……?何で……?」
「――愛しているからね」
笑んでそういう、綺麗なそのヒト。どことなくノアに似ていて、不覚にも安心していた。
何もない、空間なのだ――自分はきっと今、どこか別のところにいる。直感的に、そう感じた。
くるりくるりと、その男は文の目の前で回って見せた。
果てのない――真っ白な空間。それに、柔らかな桃色の雲のような霧のようなものが漂っていた。上下左右、何も分からない。
「愛している……?どうして……」
「ずっと、一緒にいたじゃないか。私のことを君は知らなくても、私はよく知っている。ずっとずっと、楽しく見させてもらっていた。ノアのことも、君のことも――あの、狼のことも全て」
「……は……」
「愛してるって、言ってるだろう?いつまでもいつまでも、私はお前たちを見ているよ」
優しく、諭すように。この人が誰なのかわからない。
――不意に、空間がブレた。
「――何やってんの。その吸血鬼は、私の獲物だよ」
「んー?……あぁ、何言ってんの?勝手に人の“領域”に入ったくせに、今更そんなこと言う?」
増えた――今度は、かなり派手な格好をしている。
同じようなタキシードなのだが、まったく違っていた。確かにこちらもペテン師のような風貌ではあるが、もっと――狂気のような危険性を孕んでいた。
愛想良くにっと笑い、現れた男は尾を揺らした。
「君、文だね?君の噂は聞いているよ」
「噂……?」
「そう。――この男と同類。けど、君の方が面白い」
「――あんたも、誰」
頭がぼんやりする。思考がうまく働いてくれない。
頭頂部に生えている、ネコの耳――髪は鮮やかなライトグリーン――翠玉に近い色をしていたが――で、尾も同じ色をしていた。
「俺は――杯猫。俗に言われる、『ハイネコ』だよ」
「ハイネコ……?何それ……」
「『存在しない存在』だよ。まぁ、知ることはないさ。それよりも今は」
ヒュッと――猫は男を持っていた杖で指した。
にまりと笑み、男は言った。
「そう怖い顔するな。私は悪くない」
「だから困るんだよ。君は死んでても生きてても邪魔。強すぎる能力は邪魔にしかならないよ」
「あんたがそれを言う?」
あぁ、ノアがいてくれたら――そうすれば、ここまで解釈に困らないだろうに。
くすくすと笑いながら、猫は男に言った。
「――名前くらい教えてあげなよ。俺と友達だろう?」
「後者は関係ないな。けど――名前くらいなら」
「……え――」
静かに笑んだまま、男は文の手をそっと取った。
その刹那、ひどい悪寒が文の背筋を抜けた。
「――――“月の刃―ムーンエッジ―”――わかるかい?」
あァ――悪寒の正体はコレなのか――
にこにこと笑む男。それが、あの城に住んでいた『最狂』の【吸血鬼】――
呆然としている文を見て、ムーンエッジはよろしいとでも言うように頷いた。
「――ずっと君を見ていたという意味、わかったかい?ノアのことも、狼のこともずっとずっと――」
「……まぁ、あんたじゃなけりゃ変質者だね」
「黙れ。私は長い間、この変異の吸血鬼が来るのを待っていた。【和製吸血鬼】とは、そもそも東国の【吸血鬼】との混血だ。あってはいけないその組み合わせが、この化け物を生み出した」
「化け物、ね。間違っちゃいないけど――むしろ、俺のいる『世界』に来てほしいくらい。アヤがいればきっと、あっちも明るくなる」
――『世界』――『化け物』――何のことなのか、もうさっぱりわからない。思考が働かないのだから、仕方ないということにしてほしい。
猫もかまわず、不意にムーンエッジは文の手を強く引き、彼を抱きしめた。
「っ!?」
「あー、何……ノアって恐ろしいのに恨まれるよ」
「知るか。ノアは恐ろしいが、文は可愛いから。それに、あいつでは役不足だ」
「役不足……?」
「そう――君だからこそ、叶うことがあるんだよ」
甘く囁く言葉――まるで毒のように、自分の全てを蝕んだ。
文の耳元に口を寄せ、含めるようにムーンエッジは言った。
「私の――能力を殺して――」
殺して――そればかりが、ただただ頭の中で反響した。
髪を撫でる手が、妙に優しくさらに思考を鈍らせた。
ただ静かに――ムーンエッジは笑っていた。
猫の髪の色を桃色から緑色にしました。
ミスしてたの気付かなくてすみません。