宵闇とともに
* * *
「――おい、ヴァニッシュ」
からりと乾いた空気。洗濯物を干すのには絶好の天気であった。
くるりと振り向き、ヴァニッシュは籠を地面に置いた。
「何?もう少しかかるんだけど……」
「……何も感じないなのか、てめェ」
「?感じる……雨なら降らないよ」
「そうじゃない……」
わかってない。まぁ、そこはわかっていたが。
はぁと溜息を吐き、ノアは腕を組んだ。
「――陽が落ちるぞ。全て取り込むのだろう?」
「あ、うん。まだ終わってないけどって言っただろ」
「……守ってやる、な……」
ふと空を見やると、文が駆けて来るのが目の端に映った。
いや――落ちてくる――
二階から地面に飛び降り、文はニッと笑んだ。
「やっ。遠くを見てたんだけどさ」
「……何が見えた?」
「空が真っ暗になって――闇が来るよ」
熱く熱を帯びた世界から灯が消え始め――それはやがて一閃の光を残して沈んだ。
紫雲の残る空に、月がひときわ美しく映えた。
三日月の一歩手前――まだ、完全な月ではなかった。
「あ……何……?」
「――もう遅いな。日が暮れるまでに対処しようと思ったのだが」
「うーん……対象する気なかったくせに」
風に乗って香る、獣の匂い。それが遠く、近く――すぐそばにあった。
【狼】特有の、あの――嫌な匂いが。
――宵闇の中、静かに蒼が現れ始めていた。三人を囲むように、ぐるりと。
じりじりと中心によってただその場に立ったまま――ノアは、文に囁いた。
「……勝つつもりか?」
「ん?……んー、どうだろう。勝てたら勝ちたいけど」
「戦力的に負けてはいるが。雑魚ならどうにかなるだろうな」
「へぇ。――ヴァニッシュ、聞いた?」
「……うん、まぁ……どうするの?それで」
あの匂いだ――どんどん近付いて来るのは、もうわかっている。
黙って着流しの襟を正し、ノアは腕の組を解いた。
ぽかんとしているヴァニッシュの前で、片手が月にかざされた。
「――[夢と現の邂逅―ボーダーライン―]。前の仕返しをさせてもらう」
「――んじゃ、俺も。ノア傷つけたんだから、許せないじゃん?」
「……俺も……」
「同族だぞ。それでも構わないなら、勝手にしな」
にぱっと文が笑ってそう言った。
召喚した逆刃の大鎌を肩にのせ、ノアは月を仰いだ。
綺麗な綺麗な蒼い月――ブルームーン――
同じように手をかざし、文はすぐに手を降ろした。
「使いにくいなー……さすが俺の武器。[ヴァンパイア・ブラッド]」
「……魔法?」
「うん、そう。伯母様に仕込まれたのが結構昔だし……覚えてるのかわかんないけど」
手中へと現れた、形を持たない“何か”――それは紅く鈍く輝き、ふよふよと文の手の中に収まっていた。
わかっているかのように二人同時に身構え、そして――
刹那、二人の姿は消えていた。
呆然とはしているが、ヴァニッシュの眼にははっきりとその姿が見えていた。
――周囲の全てを裂く、ヴァンパイアの姿が。
「あぁー、狼だ。やっぱりこんなの……」
「さっさと――殺せ」
犬のような声をあげてはじかれていく狼の山。その死骸は卑しくも血なまぐさく、足元に血を流して横たわっていた。
悪鬼羅刹の如く――次々と鮮血が散った。
――――あの【狼】が現れるまでは。
「おー……先陣切ってったやつらは全滅か」
「もったいない……まぁ、弱者に用はありません」
「――やっと来たのか、化け物ども」
顔に付いた血を袖で拭い、ノアは目の前を睨んだ。
まだまだ残っている、敵の勢力――そして、先日の化け物。それが群れをなし、三人を見ていた。
にっと笑み、ヴァンが前へと出た。
「――久しぶりだな?ヴァニッシュ。俺のこと覚えてるか?」
「……嫌だ……」
「邪険にすんなよ。同志なのに、かわいそうに」
「嫌だ……嫌だっ、来るな!何で今更来たんだよっ……!」
ひどく怯え、ヴァニッシュは何度も震えながら首を振った。
とっさに、文はヴァニッシュの手首をつかんだ。
「待て。――知り合いか?」
「――……兄さん……だよ……」
「はぁ!?」
「驚いてるのか?俺がヴァニッシュの兄だということに」
そう言いながら、ヴァンは背負っていた大剣を振りあげた。
文を一瞬だけ見やり、ノアはヴァンと同時に駆け始めたクァトロを防いだ。
強い反動で、手が痺れるように痛んだ。
「ぐっ……!――文!そいつを離すな!」
「けどっ……!」
「離してよ……逃げないとっ……!」
あのヴァニッシュがここまで恐れるなんて――
――文に、月光の影が掛った。
「残念――逃がすかよ」
「なっ……」
いつの間にか目の前には狼の頭領が――
風を切り、大剣が文に襲いかかった。
――ギィンッ!!!
「ぐぁっ……!!」
「おわ……なるほど、硬質化の魔術か。自分の血を使うなんて、【ヴァンパイア】も落ちたな」
「うるっせえよ、おっさん……俺は【ヴァンパイア】じゃねえ!【吸血鬼】だ!!」
腕で受けた大剣をはじき返し、文は傷口を押さえた。
あの紅い塊は、空中から漂い降りてきてその傷口を包んだ。
「……お前、らしくないな」
「だからなんだ。そんなもの、関係ねぇだろ」
「はっ。血は偉大だ。お前の身体にだって、化け物の血が流れてる。違うか?」
「――だったら、嗤えばいいよ。俺なんて、それを裏切った馬鹿だから」
血の衝動に負けたのだ。そんなこと、今更言うまでもない。
血を舐め、文は腕にまとわりついたそれを引き剥がした。
「――ヴァニッシュ」
「っ……言わないでよ……言いたいことわかってるから……っ」
「――――――――守るよ」
にこっと、いつも通りに。あの笑みは崩さず、文はヴァンを睨んだ。
キィンッと、ノアがクァトロをはじいた。
「――さぁ――殺るぞ」
「生きていられるなんて―――思うなよ?」
「……ばかばかしい。さっさと回収して帰りますよ」
バサリと、カルヴォは本を開いた。
殺伐とした戦場をただ――明るく静かに月は眺めていた。