狼月
* * *
暗い世界――何もない、暗闇の世界だった。
魔法で作られた月光を浴び、影がいくつか幻のように揺らめいていた。
机の上に乗った厚い本をめくり、一つの影が静かに微笑した。
「そうですか――あなた方も、同じことを考えていたとは」
「同じ種族だろう!第一、お前たちは負けたんだぞ」
「戦略的撤退ですよ。そんな言葉も知らないのですか、そちらの野蛮な種族は」
ガンッと音を立てて机が叩かれた。
にぃっと笑み、男の傍にいた獣が椅子の上に乗った。
「クァトロ、静かになさい。私の機嫌を損ねるつもりですか」
「……カルヴォ、こいつ、食べていい?」
「いけません。あなたは食い意地が張りすぎです。そんなあなたも好きですが」
「……おたくのその獣も、こっちの種族なんだ。頭よりも体での実力行使。あんたの一族は理屈っぽくていけねえ」
カルヴォにそう言い、その男はけらけらと笑った。
本を閉じ、カルヴォはフードを脱いで困ったように頭を掻いた。
「――理屈だからこそ、クァトロを生み出せた。この、美しき化け物を」
「っ、趣味がわかんねえ。こんなにされちまってよオ……気高い狼の血はどうした」
「そんなもの、血筋の問題ですよ。私は研究のために、あの狼を捕えたい」
「……ヴァニッシュか」
無精髭を撫でながら、男は机の上にどかりと座った。
束ねたこげ茶色の髪に煙草の匂いをまとわせ、男は雑に羽織った土埃によって汚れた上着を翻した。
「こんな暗い所にいないで、この月光を浴びればいい。あのヴァニッシュも、“覚醒”できるんだろ?」
「――さァ、どうでしょう。“覚醒”は、者により様々ですよ。それに――アレは――」
「つべこべ言うな。――――お前の一族の汚点だろ。こっちにとっても、血族という点では大差ねえけどな」
「――零―vanish―ですからね――」
そう言って、カルヴォは空を仰いだ。
ふ――っと、月は闇の中で光を失った。
* * *
「えーっ!?何、あの写真撮れてなかったの!?」
「仕方ないだろう。フィルムに入ってなかったんだ」
晴れた日、文はノアにそう叫んでいた。カメラを手に持って。
文を自分から離し、ノアは面倒くさそうに言った。
「だから、言っているだろう。わかれ」
「だって、あんなに楽しかったのに……!何してんだよっ!」
「仕方ないと言ってるんだ。いい加減にしないと、ここから追い出すぞ」
「何それ!?っ、ノアが悪いんだろ!?」
「違う。カメラが悪い」
写真くらい、あってもいいじゃないか。三人で写った、大切な証拠なのに。
深く溜息を吐き、ノアはチッと舌打った。
「もういいだろ。ほら、下がれ」
「……ひっでぇ」
「ふん。あぁ――なんだ?何か言いたげだな」
「だって……ノアは、もう俺と一緒に写真撮れないだろ……」
「あぁ、したくない。あんなもの、ない方がいい」
やはり、文は知らなかった。あの写真に写る『姿』を。
溜息を吐き、文は諦めて空を仰いだ。
青空――綺麗な、雲ひとつない空であった。
「……ねぇ」
「は?……何だ」
「――もっと言ってもいい?何回も、ずっとずっと一緒にいられるときは」
「……何を」
わかっているくせに、と文は微かに笑んだ。
青い空は、いつも温かく――けれど無情で。自分を嗤っているように見えるのだ。
愛してるなんて、そんなこと言わないでよって。古い古い、言い回しの文句だ。何を思うのか、そんなことを言うなんて馬鹿げている。
振り向いて、文はノアにニッと笑みかけた。
「愛しいよ……ノアのこと、愛しくて愛しくて仕方ない」
「っ……何だそれは」
「愛しいんだ。愛しい――愛しいんだよ」
「……古い言い方だな」
「古い?好きなのに?」
「古い。愛しいなんて、そんなもの」
狂おしいほどに愛おしい。そんなこと、わかっているのだろう。好きなことに境界はない。
外で洗濯物を干しているヴァニッシュを見やり、ノアは言った。
「――そろそろ――来るころじゃないか?」
「ん――何が?結婚式の準備さん?」
「アホ言うな。――化け物ども――だよ」
あの【狼】――その何かを感じ、ノアはヴァニッシュを見ていた。
んーと唸って少し考え、文はヴァニッシュを同じように見ていた。
「……来る、かな?」
「あぁ。そろそろ、月のある日だろう」
「へ?月なんて、毎日出てるだろ」
「俺たちの言う『月』の満月とは違い、あいつらは三日月だ。月の光を完全には必要としないのに、月がなければ力も出せない」
「……ヴァニッシュも?」
「知らん。ただ、マリア達もいない――いたとしても、手伝うかどうかは不明だろう」
そう言って、ノアは部屋を出た。あの厚い本を一冊抱えて。
呆然とヴァニッシュを見続け、そして文はノアの後を追った。
空は青いのに―――パラリと、雨が数滴振りそそいだ。
* * *
暗い暗い、陽の射しこまない世界。闇色の、月の綺麗な悪夢―ナイトメア―
「さぁ!――今宵は宴だ――」
「踊り狂い、壊してしまおう――!」
クルリクルリ、狂い狂い。綺麗な綺麗な美しい世界――美しいのに、欠けた世界――
杯を片手に酒をあおり、男はカルヴォにもそれを差し出した。
「飲めよ。俺たちの種族は、これを好む」
「あなたの血族だけでしょう。私はそんなもの飲まない」
「そうかい。なら、勝手に騒がせてもらうぜ」
そう言って一気にそれを飲み干し、男は笑った。
黙って本を読み続け、カルヴォはその騒々しさを無視した。
騒ぐ狼の中化から、一人の狼が男の前へと出た。
「――ヴァン様――そろそろ、陽の落ちる時間となりますが」
「そうか。なら――行くぞ」
杯を投げ捨て、ヴァンはマントを翻した。
人工的な魔法の月は、その色を変え――紅く染まった。