吸血鬼の写真
*
風が心地良い、うららかな昼下がり。【吸血鬼】には毒なのだが、そんなことどうでもよくなってくる。それほどにいい天気だった。
見晴らしの良い丘の上。わざわざそこまで出かけて、これこそピクニックだろう。本音を言うなら夜がよかったのに――夜は眠くなるから。
バスケットを地面に下ろし、文はノアの手を引いた。
「本っ当にお日様ダメなの?こんなに綺麗なのに」
「嫌いなものは嫌いなんだ。悪いか」
「……人生損してるよ、きっと。こんなに綺麗で――魅力的――」
仰いだ空はどうにも青く――目が眩んでしまった。
真っ黒な蝙蝠傘を差し、ノアは丘の上からはるか後方を見下ろした。
「……ピクニック、な」
「え?あぁ、本当に嫌だったの?」
「別に。ここまで来ればどうでもいい」
木陰に腰をおろし、ノアは少し疲れたような表情を見せてそう言った。
その隣に座って、文はバスケットを開けた。
「ヴァニッシュー、昼飯はー?」
「っあ、ちょっと待ってっ……!」
「……なんだあれは」
両手に抱えた袋のようなもの。ヴァニッシュはそのせいで遅れを取っていた。
薄汚れた麻袋。ほこりをかぶっていたそれは、ヴァニッシュが到達すると同時に地面の上に投げ出された。
「……これは?」
「――『撮影機』だって。サツエイキって何?」
「俗に言う、カメラだよ。これはかなり古いものだけど」
袋から出されたそれは、古びていて使えるのかさえ分からないようなものだった。
ヴァニッシュも座らせて、文はニッと笑んだ。
「とにかく、先に昼飯!んで、みんなで写真撮ンの」
「……【吸血鬼】は――」
「ノア。――――言わないでよ?」
ノアの口元に箸で卵焼きを持っていき、文は笑顔のままそう言った。
少々黒く焦げついているその卵焼きを、ヴァニッシュはおいしそうに食べ始めた。
「ん、おいしい」
「当然。はい、ノアあーんして」
「……は?」
「これは当たり前なんだぜー?儀式みたいなもんだよ」
「違うだろう。何なんだ、一体……」
「いいからいいから。でないと――噛むよ」
笑顔でそういうものの、文は決して箸を離そうとはしなかった。
傘を差したまま、ノアは眉をひそめた。
そして、小さくそれをかじった。
「……まずい」
「えー?何で?おいしいじゃん」
「――そもそも、人の食い物が嫌いなんだ。知っているだろう」
「……俺の作ったものでもダメって……んじゃ、俺でも食べる?」
おにぎりの一つをむしゃむしゃと子供のように食べながら、文はそう言った。
ぶしゅっと、ヴァニッシュがお茶を吹いた。
「ん?あれ……変なこと言ったか?」
「別に……変な【吸血鬼】だなと……」
「ふん。てめェだっておかしなものだ。こんなやつがいいなんて――」
「それはあんたも同じだろ。文のこと、好きで好きでたまらな――」
「黙っていろ、獣が」
ギロリとヴァニッシュを睨みつけ、ノアは文の身体を抱き寄せた。
箸から滑り落ちた卵焼きは、宙を華麗に舞ってヴァニッシュの口の中に収まった。犬がフリスビーを取る、あの要領で。
もぐもぐと口を動かして、ヴァニッシュは箸でノアの頬を刺しにかかった。それも無言で。
「――なんだ?」
「俺に喧嘩売ってんの?文のこと、独占するのはズルいんじゃない?」
「昔からこうだからな。それに、てめェの好きな文は別だろう?」
「っ……どういう意味」
「たとえば――家族として――」
ヒュッ。箸がノアの目の前の空を刺した。
構わずにおにぎりを食べている文は、うりうりと空いている手でヴァニッシュの頭を撫でた。
「あんまり物騒なことするなって。ノアのこと、嫌いじゃないだろ?」
「――好きではないよ。今みたいなのは大っ嫌い」
「そうか。なら――文」
「んー?……あー、うん。その顔は何かまた余計なこと考えてるだろ……」
笑顔が怖い。どう言うことなんだ。
二つ目のおにぎりもぺろりと平らげた文は、カットリンゴを一つ食べながら振り返った。
――二人の間に、再び箸が刺さった。
「……手が滑った」
「……嘘つけええぇぇえぇえ!」
「ホントだって。文には刺さないよ」
「だそうだ。――――首、いいな?」
「っ……いい、けど……っ!?」
刺さる牙――ピリッと、ほんの一瞬だけ痛みを伴った。
サラサラの髪が肌を滑る。腕にも、胸元にもその髪が心地よく撫でる。
快楽に溶けてしまいそうな――そんな感覚――
長い長い数十秒感。この為に感覚という概念があると言っても過言ではない。
「っ……何……?空腹?」
「いや、違う。――嫉妬だよ」
「……あてつけか。冗談抜いて、刺すよ」
「勝手にしろ。とにかく、俺の食事は終わったんだ」
そう言って、ノアは持ってきた本を開いて読み始めた。他には特に干渉もせずに。
むっとしているヴァニッシュに、文は笑って言った。
「――ほら、あーん」
「っ!?え、何で……」
「不公平は嫌いなんだよ。ほら、早く口あけて……」
といっても箸でつかんでいるのはリンゴなのだが。予想以上に持ってきた量と食べるスピードが合わなかった。
躊躇うこともなくパクリとそれを食べ、ヴァニッシュはノアを鼻で嗤った。
「……ふん」
「――わざわざガキの挑発には乗らんぞ」
「返す時点で乗ってるよ。おっさんのくせに……」
「年をとることは悪いことではない。むしろ、知識を蓄えてどんどん魅力を増せる。その分、文を落とせる確立も過ごした年月によって高くなる」
「っ……文っ!」
「は、はぃ!?」
「っ――――チューしよう!」
――脳内フリーズ。
真赤に赤面して、ヴァニッシュは叫ぶように言った。
ゴンッ!!
「……何ぬかしとるんだ、青二才が」
「いったぁっ……!何すんだよ!」
「幼さが滲み出てる。これだから、ガキは」
「あー、もう!喧嘩するな!」
とりあえずノアを抑えて、文はヴァニッシュの頭を何度もなでてやった。拳が堕ちたところを、しつこいくらいに。
――傘を差したまま、ノアは二人を木陰に並べた。
「――――写真、撮るぞ」
「は……何でこのタイミングで……」
「陽が強くなってきた。夕刻に近づいてるからな」
「で……どうやって……」
「シャッターは押してやる。だから――」
「あ!俺が押すからっ!だから、俺真ん中で、ノアが左でヴァニッシュが右なー」
急に嬉しそうにそう言って、文はカメラに向かって走っていった。
傘を閉じて置き、ノアは渋々それに同意した。
三脚の上の、古いカメラ――それは、光を淡く反射させ、三人を調度映せるようになっていた。
レンズを覗いてピントを合わせ、文は二人に向かって駆けだした。
「あと十秒っ!」
じーっという、独特の歯車が回るような音。心地よいその音と、足音が混じった。
なんとか並んだ七秒前。
ポーズがわからなくて戸惑った四秒前。
文の頬にキスをした一秒前―――――――
カシャッ。乾いた音が、カメラから弾けた。
「……は……」
「両手に花だな。よかったな、文」
「い、いや……何が……」
「ごちそう様っ。現像どうしよっか」
「いい、俺がやる。てめェらは遊んで来い、ガキども」
「ガキって言うな」
――頬が熱を帯びて――アツい――
呆然としていた文の手を強くヴァニッシュが引いた。
「ほら、遊びに来たんだろ。遊ばないと」
「……ヴァニッシュ」
「へ……何?」
「ごめん……アツい……」
陽の熱りのせいならいいのだが。ノアの言っていた通り、少し雲に隠れていた陽が出始めていた。
ヴァニッシュの手を握り返し、文は震える体のまま空気が抜けたようにドサリと草原に倒れこんだ。
――笑いながら――嬉しそうに―――
*
――……【吸血鬼】は――
続きを言えなかった。苦しむのがわかっていてやっているとしか思えない。
【吸血鬼】はカメラに映らない―――――
わかっているはずなのに――どうしてこんなもの持ち出した?
ヴァニッシュを苦しめたいのか?
あいつは――何を考えている――?
現像した写真――それに映るのは。
愛おしそうに誰かの頬に唇を寄せているヴァニッシュと。
泣きながら笑っていた、文の姿であった――――