祭典の始まり
* * *
――自分は、何をしている――?
グゥンっ……体がねじれ、はるか後方まで吹き飛んだ。
目だけは、絶対に離すまいと相手を睨みつけていた。離せば頭と体がバラバラになってしまう。
口端を歪めて、嗤う――その顔が憎らしくて、憎らしくて。
体を起して無理にでも駆ける。口に溜まった血は飲み込んだら体が壊れていくようだった。
――へぇ、弱いな。
嗤うな、嗤うなっ……!!
無理に走っても、すぐに心が折れそうになる。
遠い――この手も、何もかもが届かない。
――お前には、無理だよ。諦めろ。
馬鹿にするな!嗤うな!!
だから――殺してやる――
紅を流させる――絶対に許さない。
尖った爪、牙が月光をそり返す。反射した光は、全てただに目くらましにしかならなかった。
一閃――そして、鮮血が散った――――
* * *
「っ……!」
その朝、布団をはねのけてヴァニッシュは起き上がった。全身に汗をひどくかいて。
動悸がひどく、吐き気がしていた。胸がムカつき、口の中がカラカラに乾いていた。
目をこすって、ヴァニッシュは隣で眠る文を見た。
スヤスヤと――まるで子供だ。涎まで垂らしているのに――これが、【吸血鬼】――
「……文っ……」
「……んー……何ぃ……?呼んだ……?」
「――大好きだよ」
何とはなく出た言葉。無理をして、笑顔も作って。
寝ぼけた目をこすって、文はにぱっと笑んだ。
「俺も――好きー……」
「ありがとー……だーい好き……」
今のうちなのだ――きっと、今言っておかないともう言えなくなる。
文の頭を撫でながら、ヴァニッシュはその額に軽くキスをした。
「……何?ヴァニッシュ、怖い夢でも見た?」
「――別に。今日は特別な日だから……早起きしただけだよ」
「そっか……お祭りだもんなー……」
特別というほどではないけれど。とにかく、不安にさせたくない。
怖い夢――何を視たのかは覚えていない。だから、余計なことは言わなくてもいい。
朝日の昇った眩しい世界で、ヴァニッシュは文に軽く口づけた。
* * *
今日から、年に一回の『お祭り』が始まるらしい。祭り自体は何度かあるが、それぞれによって名前が違うらしい。
昼過ぎに、ようやくノアが目を覚まして降りてきた。
「……ん……うちの馬鹿、今度は何を騒いでいるんだ……?」
「ぁ、おはよう、ノア。……怒ってる?」
「馬鹿はどこだ?てめェには怒ってないよ」
「そっか……って、俺にはってどういうこと……?」
「意味くらい理解しろ。低脳だと、嗤われるぞ」
不機嫌、低血圧。それらが重なっていて、ノアはいつにも増していらいらしていた。
祭りに浮かれて、当の本人はいつもよりもさらに浮かれていた。
はぁ、と。ヴァニッシュとノアの口から同時にため息が吐き出された。
「……本当に【吸血鬼】なんだよな?」
「あぁ、一応は。最近、俺も疑い始めたところだ」
「信じてやれよ、お前は。仲間だろ」
「――それ以上だから」
そう言って言葉を止め、ノアは外で浮かれてはしゃぐ文の下へと駆けて行った。
まばゆいばかりの昼の日差し。溶けたり灰になったりはしないが、【吸血鬼】にとっては結構なダメージであった。
ガシッと、文の首根っこが掴まれる。
「くぉらぁっ!うるっさいんだよっ、てめェは!」
「ぐぇっ!?の、ノアぁー?」
「部屋に戻れ!てめェ、自分が何やってんのかわかってんのか!?」
ぐらぐらと、首が取れるかと思うほどにノアは文を前後に揺らした。
陸に上げられた魚のようにぴちぴちと跳ね、文はノアに弁解を図った。
「わ、わかってるから!怒んないで!」
「……どうせ、その調子じゃ止めても祭りに行くんだろう」
「お、わかってるじゃん。けど、祭りは楽しいけど……一人じゃ切ないって」
「知るか」
仲睦まじい、いつもの光景であった。ただの、他愛もない戯れ――
地面に落され、文は強く尻もちをついた。
「……何でそんなに怒ってんの」
「――てめェは、自分が何を言ってるのかわかってないから」
「えー?お祭り行こうって」
「そうじゃない。そろそろ――あの【狼】を見限れ」
「っ……は……?」
突然、ノアは文にそう言った。何を思うのか、小声でささやくように。
目に剣呑な光を宿し、文はノアの胸ぐらをつかんだ。
「―――お前、何言ってんの」
「そのままの意味だ。理解できたみたいだな?」
「からかうな!真面目な話してんのにっ……!」
「ちょっ、ちょっと二人とも!やめろって!」
口喧嘩の元凶であるヴァニッシュが、二人を止めに入った。やはり、ただならぬ空気を察したのだろう。
にぃっと笑み、ノアは言った。
「――俺は、てめェの言葉を忘れない。何かがあれば守ってやる。だから――考えろよ」
「うるさい!ノアっ……おかしいよ……っ!」
「――――禁忌を犯しておいて、今更そんなことを言うな」
冷たい――いつもよりも、ずっとずっと。
部屋に戻ろうとし、ノアは懐から小さな薄い冊子を取り出した。
「これでも読んでおけ。そして――忘れるな」
「はぁ……!?何それっ……!」
それだけ言い、ノアは一人で部屋に戻っていった。おかしくて仕方がないかのように静かに笑いながら。
むっとし、文は渡された冊子を開いた。
丁寧で達筆な字がつらつらと。ノアの字だと、すぐに分かった。
『能力について』――その字が、文の目を引いた。
「何これ……ヴァニッシュ、読む?」
「え……それじゃ、ちょっと……」
【吸血鬼】の能力――何を知ってどうしろというのか。
パラパラと頁をめくっていると――はたと、ヴァニッシュの目に一つの項目が映りこんだ。
――『他人の夢への無意識での介入』
何かを思いノアを追おうとするも、ヴァニッシュはその場でとどまった。
言うのが怖いから――?
きっと――あの人は見透かしているから――?
何を?どうして?
――知らないよ、お前のことなんて、誰も。
中睦まじい=仲睦まじいに改編しました