あなたにキスを
* * *
静かな、朝もやの中に溶けてしまうような吐息。まだ日は昇っておらず、ただただその光景は微笑ましいものであった。
そっと、文は自分の隣で眠る青年の頭を撫でた。
「こうしてたら……可愛いのに……」
眠っていれば、おとなしいいい子なのに。どうして起きている時はあんなにも苦しそうなんだろうか――全てとまではいかずとも、苦しければ話してくれればいいのに。
自分の傍にいてくれるこの子を愛おしく思いつつ、文はその頬を手の甲で撫でた。ノアにしてもらったように。
「……な、ノア」
「――あぁ、どうかしたか」
窓辺に腰掛けた、宵闇の麗人。それはいつもと同じように、表情もなく読書をしていた。厚い本を黙って読むその姿は、どうにも憂鬱気で儚げだった。
ちょいちょいとヴァニッシュの包帯を引き、文は楽しそうにくすくすと笑った。
「かわいいよなぁ……こいつ、俺の腕ずっと掴んでるけど」
「嫌なら、突き離せ。てめェは優しすぎる」
「――優しくなんてねぇよ。甘いんだ、自分にも誰にも」
もぞもぞと、包帯を引いたせいでヴァニッシュが動いた。それもまた、愛嬌と言うやつなのだろう。
ぴくぴくと動く獣耳を触りたいのを何とかこらえ、文は自虐的に笑った。
本を閉じ、ノアは文の隣に腰掛けた。
「――――見たのか?」
「うん――見た。けど、ノアも知ってたんだろ?」
「こいつの傷に手当を最初にしたのは俺だからな。それくらい、わかってない方がおかしい」
「記憶がないことも見抜くんだもん、ノアはすごいよ」
文がそう言って褒めてみても、ノアは何も反応せずにヴァニッシュを見ていた。
傷だらけ――それは、今に始まったことではなかった。ヴァニッシュの手当てをしたノアだけがわかることは、今は文もわかっていた。
やわらかな髪を撫でてやり、文は言った。
「背中も、胸も、腹も、脚も――全部、絵と字で埋まってた」
「――あぁ、そうだよ。傷も、生半可なものでもないのに治っている」
「【吸血鬼】並の再生力ってことだよな。【狼】はこんなに強いもんか?」
「獣だから、一応はな。それでも――強すぎる」
わかっているのだ――ヴァニッシュがただの【狼】でないことくらい。そこまで落ちぶれたわけじゃあない。
にっこりと笑んで、文は言葉を吐き出すように言った。
「ずっと……見えてないだけだったんだよな……見てやれたらよかったのに……っ」
「今更遅い。それに、いずれこいつの傷も治る」
「わかってるよ……けど、見てられないじゃんか……」
「――知ってしまったからな。だから、同情か?」
「っ、違うっ!」
食ってかかった――ノアにこんなことをするのは初めてだ。
ふっと鼻で嗤い、ノアは文にぐっと迫った。
「今更―――遅すぎるんだよ!てめェはいつだって――」
「っ……わかってる……っ!」
「いいや、わかってなどいないな。わかっているのなら―――――どうして今更泣く―――――?」
ボロボロボロボロ、みっともない。昨日のヴァニッシュよりももっと、醜く馬鹿らしい。
固く唇を噛み、まるで文は子供のようだった。ノアを呆れさせるほどに。
――むくりと、不意にヴァニッシュが起き上がった。
「んー……ぉあ……おはよ……」
「っ……ひぐっ……」
「!?え、何……なんで泣いてんの……?」
「てめェが心配をかけさせるからだ。さっさと、止めてくれ」
「はぁ!?ちょ、文……おなかでも痛いのか?」
ベタだ。そんなわけないと言いたいのに、どうにも涙のせいで言えなくなっている。
袖で頬をこすって、文はヴァニッシュにがばりと抱きついた。
びくっと、ヴァニッシュが跳ねた。
「ぅおわぁっ!?だ……大丈夫か……?」
「――ヴァニッシュ、ごめんっ……!」
「え……?文、何言ってんだよ?おかしいぞお前」
「痛いなら痛いって言ってくれればいいのに……何で強がって……見破ってやれない俺が悪いんだけど……っ、俺を殴って!」
「はあぁぁぁぁぁあぁあ!?」
急に、「俺を殴れ」と。誰だって驚く。
ポカーンとしているヴァニッシュを見て、ノアはくすくすと笑った。
「あ……何、笑うなよ」
「――ずっと張りつめていただろう。てめェも笑うのかと、安心した」
「こっちのセリフ。あんたこそ、笑うんだ?」
「笑わないはずがない。こんなにもかわいい主人がいるのだからな」
「……主人……」
複雑そうな表情で、ヴァニッシュは文の顔を覗き込んだ。
涙やら鼻水でぐしょぐしょになった顔に、【吸血鬼】としての面は見当たらなかった。ただ、一方的に泣いているどこにでもいる青年の姿であった。
しばらくその顔を見ていたヴァニッシュは、ティッシュでぐしぐしと涙と鼻水を拭き取ってやった。
「……これじゃ、どっちが年上かわかんないな。けど、あんたは笑っててよ。泣いたら、せっかくかっこいいのに台無しだろ。鼻水流すなんて子供だぞ」
「だってっ……勝手に手当てして、怪我見ちゃって……」
「――もう、いいから。過去の話だろ、そんなもん」
――本当は――わかってほしいんだよ。
気付いてくれる人なんていなかったから――嬉しいんだよ。
けど、何もかもを言っちゃあ――終わるだろう――?
文に笑いかけ、ヴァニッシュは安心したように未だ流れ続ける涙をぺロリと舐めた。
「ん、しょっぱい……ま、仕方ないよな」
「……はぇ?」
「泣いてたら、元気づけんの。当たり前だろ?あんたみたいな馬鹿にわかるとは思わないけど」
「……元気づけてくれてんの?」
「っ、仕方ないだろ……ノアが睨むんだし……」
「誰も睨んじゃいないが」
「いいんだよ、そんなことはっ!こいつには、泣いてほしくないんだから――」
言った。言ってしまった。
ふ……と、文がヴァニッシュに強くしがみついた。
「んなっ……!?」
「そっか……そんなに、俺のこと心配してくれてたのか……」
「っ、何言ってんだよ、変態バカ野郎っ!離せ!」
「さっきまで俺の腕つかんでたのはお前だろ?さっきもほっぺ舐めたし、昨日だってあんなに――」
「うるっさいな!どうだっていいだろ!?笑うな!」
怒っているのか――それでも、優しい怒りであった。楽しいからこそ、照れているように。
それをわかっていて意地悪をし、文はノアの方を向いて言った。
「――ノア、だーい好き」
「は?何故……俺に言う?」
「――――ヴァニッシュと違って、表情が硬いから。嫌ってほしくないだろ?」
「――さぁな。嫌われようと、どうでもいい」
「そんなこと言うなよな。俺がさみしいのに」
大好きな大好きなノア。何度『遊んだって』足りないくらいに楽しい。
大好きな大好きなヴァニッシュ。何度いろんな表情を見ても足りない。
だから、好きってのは何度言っても足りるはずがない。足りてほしくない。
ぽかんとしている二人を見て、文はただ笑っていた。いつの間にか涙は止まり、笑みが陽のない部屋でもよく映えていた。
ニコニコと笑んだまま、文は二人の頬にキスをした――