クモリソラにて
おぼろげな姿、何もかもが蕩けて消えていく。消えてほしくはないから、必死で手を伸ばすのに。
音もなく、唇が軽く触れた。
「――俺の、傍にいてくれるって言ったよね……」
「……それが何だ」
「―――――死ぬ時は、俺に殺させて」
生きているから言えること。死んでしまえば、その権利はなくなってしまう。
少しも驚くこともなく、ノアは文の頭を撫でた。
「その時にならねばわからない。少なくとも――今はいよう」
「――今は当然。遊び相手が欲しいだろ」
「不死とは暇ということだからな。今はいるだろう」
だからと言って、こんな危なっかしい『遊び』はしたことがない。こんなこと、誰とだってしたいとは思わなかった。ノアだからこそ――なのだ。
けれど、言葉にはできない。してはいけないと、そんな気がする。
これは『遊び』なのだから。
ふっと体を起こし、ノアは文を起こした。
「――もう、飽きた。今日はいい」
「何それ……嫌いになったとか?」
「はっ、戯言だな。わかって言ってるだろう」
「当たり前だろ。けど……本当はなんで?」
「――――耳を貸せ」
顔にハテナマークを浮かべつつ、文はノアの口元に耳を寄せた。
はだけた服のボタンを留めながら、ノアは半分笑いながら言った。
「外に――傷だらけの狼がいる」
「!?は……何それ……」
「外だ。傷口が開くから、今すぐに止めて来い」
何やってんだ。俺よりも重傷負ってんのに、どうして外なんかに――
ひょいと窓の外を指し、ノアはくすりと笑んだ。
「今すぐだ。てめェも動けはしないだろうが、止めるだけなら問題ない」
「嘘だろ……ちょっと行ってくる!」
「あぁ――逝ってこい」
不穏発言。だが、気にしない。
窓に手と足をかけ、文ははるか下へと向いてその中へと一気に飛び込んだ。
はだけた服がはためく。風に包まれたまま、どこまでも真っ逆さまに――
――グシャリ――嫌な音がした。
「っ……!いっ……!!」
ひどい痛みが、文の身体を突き抜けた。はるか数十メートルより落ち、しかも岩に強く頭を打ち付けたのだから。
包帯の上からも血をダラダラと流し、文はどうにか起き上がった。
ゴゥ……と、強く風が吹いた。
それは何もかもを包み込み、流して、通り過ぎ。
まるで死んでいるかのような世界さえも、静かに破壊していくようだった。
「っ……ヴァニッシュ……?」
空を仰ぐ、黒い影。全身に包帯を巻いてあるその姿は、見覚えのある姿であった。
前にはなかった尾が、柔らかく揺れていた。風に凪いではいるが自分で無意識に揺らしているようだった。
体についた土を払い、文はヴァニッシュに駆けよった。
「おい、何やってんだよ。傷が開くだろ」
「――死にたいんだ」
「はぁ……!?何言ってんだよ!」
死にたい?この狼、気でも触れたのか?
空を仰いで動かず、ヴァニッシュはひくひくと耳を動かしていた。
「……死なせてよ。あんたなら、殺せるだろ?」
「馬鹿言うな。殺さない」
「……へぇ。落ちついてるじゃん。もっと感情的かと思ってた」
感情を無理に抑え、文はヴァニッシュの肩をつかんだ。
パンッと、あっという間にその手は払われた。
「触んないで。血の臭いがする」
「そんなの、お前の方がひどい。ほら、部屋に戻ろう」
ヴァニッシュの体に巻かれた包帯からは血が滲み続けていた。止まらずに、ずっと。
フードを深くかぶったまま、ヴァニッシュは文に尋ねた。声を震わせて。
「……同情って言うんだろ、そういうの」
「同情?生憎、そんなものは持ってない」
「じゃあ、何。嗤いに来た?」
「……訳わかんねぇ。いいから、戻れ。体痛いだろ?」
「平気。こんなの慣れてる」
「慣れていい筈ないだろ。痛いなら、はっきりそう言え」
自分を助けてくれたヒトが、痛みに慣れていい筈がない。いくら【狼】が怪我や病気に強いと言っても、痛みは感覚として同じなのに。
何とも頑固な【狼】――それにしびれを切らし、文はフードを引っぺがした。
「っ、こんなのかぶってるから暗くなるんだろ?笑っててよ」
「……馬鹿じゃねーの」
風が、ひときわ強く吹いた。
ボロボロと、みっともなく。頬を伝って、涙がヴァニッシュを濡らしていた。
再び曇った空を見上げ、ヴァニッシュは袖で顔を拭った。
「――――嗤っていーよ。馬鹿だろ」
「……なんで泣いてんの」
「わかってくれたら嬉しいんだけど。あんた、俺よりも馬鹿だから」
「……ま、そうだよな」
このまま、笑っていてくれないか――そんな、無茶な願いもしてみるのだが。
自虐めいてそう言い、ヴァニッシュは不意に文の方を向いた。
無表情にも近い、まっすぐな表情。唇はきりっと真横に結ばれており、瞳は文を射抜くように真っ直ぐであった。
「……怒ってるのかそうじゃないのか、俺には分からないんだけど」
「―――――――――――――死ねばいいのに」
低く呟かれた言葉。尾が、やんわりと揺れる。
手を伸ばし、笑うことはなく。ただただ、ヴァニッシュは文を――文だけを見ていた。
ドンッと、文の胴にヴァニッシュがぶつかった。
「……血なまぐさい」
「お相子だろ?お前も血の匂いしかしない」
「――それが好きな癖に」
ああ、そうだよ――大好きだから、困るんだ。
ふらついているヴァニッシュを文は両腕で抱きしめた。離さないように、けれど少し緩めに。
ベっとりと――赤黒い血液が、文の四肢に絡みついた。