紅血
クチュッ――
「っ!んなっ!?」
「じっとしてて」
何故か怒られた。それにしても、驚いた。
ぬるりと舌が指を舐める。火傷にピリリと滲みて、痛くもむずがゆい。
だが、そんな甘い夢も終わりを告げた。
――がぷっ。
「!?い、いだだだだだだだだ!!」
「ぅあ……」
強く、指にかみつかれた。流石【狼】、かなり痛い。火傷以上に痛い。
慌てて手を離し、ヴァニッシュは口元を拭った。
「ぁ……そのっ、ごめん……!」
「へ、平気平気。痛くないから」
「痛いって言ったろ……ソース付いてたから……ごめん」
つまりは、おいしそうだったと。噛まれたことは確かに痛かったが、それ以上にびっくりした。眼も覚めた。
ぐりぐりとヴァニッシュの頭を優しく撫で、文は何ともないとでも言うように笑った。
「大丈夫だから。――これ、食べてくれたら許すよ」
「え……けど、これってノアの――」
「いいから。あったかいうちに、食べて」
ノアは食べてくれないだろう。なら、ヴァニッシュに食べてもらいたい。もとよりそのつもりだった。
噛まれた手を隠すようにして、文は笑顔で素早く部屋を出て行った。
* * *
その日、文はまだベッドに寝転がっていた。
――――「いつか、周りには誰もいなくなる。」そんなことを考えて。
昔から自分は特殊だった。自惚れだと嘲笑するやつがいても否定はしない。
苦しい――特殊ゆえに、誰にも近づけない。好きなものにも、ヒトにも。
「……どうすっかなー……」
「――文、入るぞ」
きしんでドアが開く。
眩しすぎる逆光の朝日の中に、着流し姿のノアがいた。
にひゃっと笑み、文は寝転がったままノアの方へ視線をずらした。
「んぁー、何?良いことでもあった?」
「いや、よくはない。むしろ悪い」
「そうなの?へぇ……言ってみ?聞いてあげるから」
なんだか久々に会った気がする。実際はそんなことはないのに。
ぺらんと、ノアは懐から封筒を取り出した。
「……まだ、野良犬が出るらしい。あいつが正体だと思ったのだが」
「マジで?えー……で、その封筒はなに?」
「俺たちに捕まえろと――まぁ、無茶難題を押し付けてきたというわけだ」
薄墨色の着流しが、朝日と違い目に優しくノアに映えていた。
封筒を受け取り、文はぐしぐしと目をこすった。
「ホントに無茶だな。で、返事は」
「していない。どうする、捕まえるのか」
「――殺した方が早い。けど、殺したら怒るだろ」
「俺はどうでもいい。獣など全て死ねばいい」
「またそんなこと言うし……」
獣嫌いも甚だしい。理由を挙げればキリがないらしいので今はスルー。
ベッドのふちに腰掛け、ノアは部屋の本棚から厚い本を一冊取り出してきた。
ノアの膝に顎をのせ、文は首をかしげた。
「そんな難しそうな本、読んで楽しいのか?」
「てめェはもっと本を読め」
「えー、無理。読んでよ」
「……読んでもつまらんぞ。自分で読め」
「つまんねーもんを読んでんのか?ノアになら、何言われても面白いって」
「うるさいぞ、女たらし」
冷めた眼で本を読み、人を全く相手にしないこの態度。これもすべて、ノアだから許せることなのだ。他人がこんなことしたらただの興醒めだ。
つまらなさそうに頬を膨らませて、文はノアの首に腕をからめた。
「――飲ませてよ。読んでる間だけでいいから」
「……読書に集中できない」
「集中する気なら、俺の部屋には来ないだろ。だから、いいじゃん?」
「……はぁ。好きにしろ、来たのは俺だ。返すのがめんどくさいからここで読むんだぞ」
「わかってるって。んじゃ、もらう――」
――本当は、てめェといたいんだ――なんて、口が裂かれようとも言えない。
ノアの膝の上に座り、文は舌で首筋を舐めた。
「……っ……」
ぴりっとした、淡い痛み。刺さった痛みとはまた違う。
白い牙がゆっくりと突き刺さる。痛みを伴うのに、文がこれで傍にいてくれる――
「ん――ぁあっ――っ……はぁ……っ……」
「っ、てめェ……もう少し静かに飲めないのか」
「う……だって、着物だから熱入っちゃって……ノアの着物姿ってエロいし、そんじょそこらのお嬢さんよりも美人だし……」
「……………………美人?」
「そう、美人。だから、じっとしてて」
首に空いた二つの穴。そこから流れ出す紅い液体に心がうずき、本能のままにノアに噛みつく。
はだけ乱れる肌は白く、肩には古い傷。美しさに全く合わない古傷と綺麗な白い肌に紅い色がよく映える。
「……痛い?」
「いや……前よりはマシだ。気にするな」
「……ノアは俺の血飲まないわけ」
「は……?」
一度だってされたことはない。いつもする方なのは俺だ。
珍しく目をまん丸にして、ノアは視線を本から外した。
「……てめェの血を飲むのか?」
「いいだろ。噛まれるのがどんな気持ちか知らないから」
噛まれたい。噛まれた時の気持ちがどんなものか知りたいというのもある。
それに――ノアに嫌われていたら生きていけない。