国家のスキャンダルを隠すための“恋人役”だった私ですが、本気で愛されたので彼はすべてを捨てました
数か月前、私の村に一人の若き政治家がやって来た。
その日、私は彼の隣に立っていた。村役場から借りた着物をまとい、「東京からの来賓に付き添うのに一番ふさわしい」と言われて。
――私の顔が「村を代表している」からだと。
彼は一団を引き連れ、カメラ用に鍛えられた微笑みを浮かべていた。地方に寄り添う若手政治家というイメージを築いている最中なのだ。
写真撮影が終わり、記者たちが村長を囲んでいる隙に、彼はふと私のほうへ視線を向けた。
「もし住民の不満があれば、直接僕に送ってください」
低い声で、まるで私だけに聞こえるように。
差し出された名刺。太字で印刷された名前、右上には政党のロゴ。その下に記されたのは事務所の番号。
私は一瞬、ためらった。
「個人の番号でもいいですよ」
冗談のように軽く付け加える。秘書が小さく笑いながらも、何かをスマートフォンに記録していた。
それが手続きだったのか、即興だったのか、私にはわからない。ただ覚えているのは、その日の夕方、彼が黒い車に乗り込む直前、秘書が近づいてきたこと。
「先生が、より早く連絡を取りたいとのことです。番号を教えていただけますか?」
私は少し震える手で、自分の番号を伝えた。
数日後、最初のメッセージが届いた。
政策の話ではない。
村のプロジェクトでもない。
ただ一言。
――あの日はありがとう。あなたの村のように温かい場所からだと、東京はとても遠く感じます。
それから私たちは頻繁にメッセージを交わすようになり、やがて――誰にも言えない関係になった。
そして私は、彼に会うために東京へ向かった。
新幹線の窓の外。
田んぼはビルに変わり、山は巨大な広告看板へと姿を変えていく。
足先が落ち着かない。まるで、プレゼントを待つ子どものように。
列車が止まる。
スーツケースを引き、スマートフォンを開く。最後のメッセージを確認する。
――待ってる。
駅を出ると、東京の空気は違っていた。速く、忙しく、迷う余白を与えない。
黒いスーツの男が近づいてくる。
「リナ様、こちらへ」
丁寧だが迷いのない声。ボディガードか、秘書か。この街では、守る者と監視する者の区別がつきにくい。
案内されたのは濃色のプレミアムバン。自動で開くドア。
深呼吸して、私は乗り込んだ。
中には、彼がいた。
「やっと来てくれたね」
「約束、守ったでしょ?」
できるだけ軽い声で返す。
「うん。来てくれてありがとう」
テレビで見たことのある、あの完璧に計算された一礼。
隣に座る。距離は近いのに、目に見えない会議テーブルが間にあるようだった。
「もう食事は?」
「新幹線でパンを少し」
正直に答えた瞬間、それがこの巨大都市にはあまりに素朴すぎる気がした。
彼は小さく笑う。
「そんなに遠慮しなくていい。いつも行く寿司屋に行こう」
――いつも行く店。
それは大人の世界の暗号のように聞こえた。常連席、専用の入口、窓のない個室。
「じゃあ……お願いします」
車は駅を離れる。
窓に映る私は、彼の高価なスーツの隣でひどく小さかった。
私は客人なのか。
それとも、別の何かとして呼ばれたのか。
やがて車は高い門をくぐり、静かな敷地へと入った。門は音もなく閉じる。映画の一場面のように静まり返っていた。
「ここは安全だ。あまり知られていない」
安全――誰にとって?
案内されたのは、看板も目立たない個室のみの寿司店。
トロの握り、艶やかなウニ。
一皿ずつ、静かに差し出される。
「考えたいときはここに来る。誰も邪魔しない」
私は彼を見つめる。
「ここでは、少し違う顔をしているね」
「どう違う?」
「自由。でも、もっと慎重」
彼は薄く笑った。
食事の後、裏口から別の車へ。
辿り着いたのは、静かな通りに佇む小さなカフェだった。
「今日から、ここは君のものだ」
「……え?」
「上は住居にしてある。目立たない場所だ。僕も目立たず来られる」
すべては、私が来る前から決まっていた。
その夜。
二階の個室で、彼はようやく政治家の顔を脱いだ。
ジャケットを脱ぎ、ネクタイを机に置き、私の隣に座る。そして、何も言わずに私の膝に頭を預けた。
「妻は、こうしてくれない。彼女は完璧主義で……」
私の手を取り、自分の髪へ導く。
「正直、疲れたんだ。こうやって撫でてもらいたい」
私は静かに髪を撫でる。
テレビの中の彼は強く、理知的で、揺るがない。
村では優しい来訪者。
だがここでは、甘える子どものようだった。
「ここでだけ、そんな顔をするの?」
彼は見上げる。
「本当の僕を知っているのは、君だけだから」
私は微笑む。
――違う。
私は、彼がどんな人間かを知っている。
そして、私の前で“どんな自分でいたいのか”も。
彼はここで自由を感じているのかもしれない。
けれど。
彼のすべてを見ているのは――
きっと、私のほうだ。
「ケンジ……」
そう呟きながら、私は彼の髪をやさしく撫でた。
指先が髪を梳くたびに、彼は静かに目を閉じる。
まだ本格的な夏にも入っていないというのに、部屋の空気はやけに温かかった。分厚いカーテンが都会の光を遮り、まるで外の世界そのものがここへ招かれていないかのようだった。
「村では幸せだったか?」
目を閉じたまま、彼が問う。
簡単な質問に聞こえる。
けれど、言葉を常に計算する男の口から出るものに、単純なものなどない。
「昔は、ね」
私は答える。
「今は?」
すぐには返さなかった。
撫でていた手が、ほんの一瞬だけ止まる。
そのわずかな沈黙に気づいたのか、彼は目を開き、私を見上げた。
「今は……東京にいるから」
ようやくそう言うと、彼は薄く微笑んだ。
満足した笑みではない。言葉にしなかった部分まで理解したという、そんな顔。
そのとき、ソファ脇の小さなテーブルに置かれた彼のスマートフォンが震えた。
一度。
そして静寂。
彼は画面を一瞥し、内容を確認することもなく電源を落とした。
「……奥さま?」
私はあくまで平坦な声で尋ねる。
彼はすぐには答えなかった。
ゆっくりと私の膝から身を起こし、背筋を伸ばす。椅子にかけていたジャケットを手に取る仕草は、どこか儀式のようだった。
「君が気にする必要はない」
やわらかい声。
――やわらかすぎる声。
私は彼が“顔”を戻していく様子を見ていた。
舞台裏で仮面を付け替える役者のように。
「このカフェは君名義だ。すべて合法的に処理してある。僕と結びつく証拠はない」
「……本当に?」
私は首をかしげる。
彼は一歩近づき、私の前に立った。
「リナ」
低く、ほとんど囁きのような声。
「僕は、リスクを管理できないことはしない」
――管理。
“安全”よりも、ずっと正直な言葉。
私は立ち上がる。
近すぎて礼儀正しくはなく、遠すぎて恋人とも呼べない距離。
「じゃあ、私は?」
静かに問う。
「リスク……それとも、計画の一部?」
その夜、初めて彼はすぐに答えを出さなかった。
私の顔に何かを探すように視線を巡らせる。
他の女たちには見つけられなかった何かを。
「君は……」
やがて彼は言った。
「唯一、完全にはコントロールできない存在だ」
甘い台詞にも聞こえる。
けれど、彼のような男が“制御できないもの”を好むとは思えない。
外を車が走り抜ける音がかすかに響く。
街は何も知らないまま動き続けている。
彼の指先が私の頬に触れ、親指がそっと撫でた。
「夜明け前には戻らないと。明日は記者会見だ」
もちろん。
彼の世界は常に動いている。
数分も経たないうちに、昨夜私の膝に頭を預けていた男は、公の人物へと戻っていた。
扉の前で立ち止まる。
「夜はあまり出歩かないでくれ。この辺りは静かだが……東京だから」
それは気遣いにも、警告にも聞こえた。
扉が閉まる。
部屋が急に広く、そして静かになる。
私はカーテンを少しだけ開けた。
細い隙間から見える裏路地。
黒い車が、まだそこに停まっている。
エンジンをかけたまま。
待機。
私は小さく笑った。
彼はすべてを管理しているつもりだろう。
けれど忘れている。
彼が選んだのは、甘いメッセージにときめく村娘だけではない。
私は――隠されるために東京へ来たわけじゃない。
◇◇◇
日が変わる。
カフェは正式に私の名義となった。
真新しい木の床、まだ誰も座っていない椅子、触れたことのないカップ。
整いすぎている。
準備されすぎている。
テレビをつけると、彼の記者会見が映し出された。
「ケンジさん、今後の国家の方向性については?」
画面の中の彼は完璧だった。
乱れない声、計算された間。
強さと温かさを絶妙に混ぜた言葉。
昨夜、私の膝で甘えていた男の影はどこにもない。
私はテレビを消した。
この関係は複雑だ。
公の場では未来の顔。
私の前では、権力ではなく“愛されること”を求める男。
けれど私は、ただの隠れ家の管理人にはならない。
この店を本当に生かす。
朝のコーヒーの香り、ドアベルの音、常連客の笑い声。
存在理由を持たせる。
“隠すため”ではなく、“在るため”に。
数日後、Openの札が揺れ始めた。
学生、会社員、子ども連れの母親。
カフェは呼吸を始める。
けれど夜になると、裏路地にはまた黒い車。
あれは彼の車ではない。
――セーフハウス。
誰のための?
◇◇◇
夜七時。
私はわざと早く店を閉めた。
彼が来るなら、他の誰かに時間を割いている姿は見せたくなかった。
シャワーを浴びていると、下階の扉が開く音。
「リナ、いるか?」
鼓動が跳ねる。
「ケンジ……一緒に入る?」
冗談半分、本音半分。
湯気に包まれながら、私は彼の背を洗う。
「今日はどうだった?」
「……疲れた。本当に」
政治家の声ではない。
ただの、疲れ切った男の声。
「家には帰らないの?」
「誰もいない。だから面倒で」
私は少しだけ間を置いた。
「奥さまは?」
彼の腕が背後から回る。
「今は、その話はしないでくれ」
懇願のような声音。
それ以上は聞かなかった。
湯上がりに作ったオムライス。
村で食べたあの味。
「懐かしいな」
彼は呟く。
「帰ってきたみたいだ」
その言葉が、胸を温め――少しだけ痛ませた。
夜が深まる。
「ここで寝る? それとも帰る?」
問いは、軽くない。
彼は私を見つめる。
「帰れば、また“疲れてはいけない人間”に戻る」
頬に触れる指。
「ここでは……僕でいられる」
完全な答えではない。
それでも私は毛布を広げた。
「じゃあ、泊まって」
彼は隣に横たわる。
荒々しさはない。ただ、互いの体温を確かめるように。
腕が私の腰に回る。
呼吸がゆっくりと整っていく。
目を閉じる直前、思う。
彼が今夜ここにいるのは――
私を求めたから?
それとも、隠れ場所が必要だったから?
初めて、その疑問は怖くなかった。
これはただの恋じゃない。
最後に“去れなくなる”のは――
いったい、どちらなのだろう。
翌朝、私は彼を車まで見送った。
「リナ、また来る」
窓を下ろしたまま、ケンジはそう言った。
「いつでも来ていいよ」
私は微笑む。
「……でも、必ず気をつけて」
彼は一瞬だけ私を見つめ、ゆっくりと頷いた。
「君もだ」
窓が上がる。
車は静かに走り去り、角を曲がって見えなくなるまで、私はその場に立ち尽くしていた。
胸の奥がざわつく。
それは単なる寂しさではない。
形を持たない予感――まだ名づけられていない何か。
カフェに戻る。
気づかないうちに、裏路地には黒い車が停まっていた。
スモークガラス。エンジンはかかったまま。
数時間後、テレビが緊急ニュースを流す。
《復興資金が幽霊建設会社へ――複数の大物議員が関与か》
画面に並ぶ数字。何十億円という単位。
名前が読み上げられていく。
ケンジの名はない。
だが彼はコメントを求められる若手議員の代表として、マイクの前に立っていた。
「全面的な調査と透明性を支持します」
静かな声。揺らぎのない表情。
その直後、私のスマートフォンに通知が届く。
ぼやけた写真。
若手政治家と女性が、私有地で密会――顔は隠されている。
けれど、女の服装。
白いゆったりしたブラウス。灰色のスカート。
――今、私が着ているものと同じ。
血の気が引く。
メッセージが届く。
ケンジ:
《今すぐ家を出て隠れてくれ。金と人を送る。状況が危険だ》
私は打つ。
《……あなた?》
すぐに返る。
《違う。でも彼らには“別の物語”が必要なんだ》
テレビでは、巨額の不正よりも“不倫疑惑”が大きく扱われ始めていた。
ハッシュタグは数字よりも速く拡散する。
電話が鳴る。
「よく聞いてくれ」
彼の声はもう甘くない。
「資金の件で俺の関与は出なかった。だから誰かが判断した。大きな名前を守るには、俺を壊すほうが早い」
「……あなたが選ばれたの?」
「個人的スキャンダルなら、国は傷つかない」
国。
私は小さく、苦く笑った。
「私は?」
数秒の沈黙。
「守る」
「消えろって言うことで?」
彼は息をのむ。
「顔が割れれば、君は餌になる。メディアは真実じゃなく、物語を欲しがる」
画面ではこう報じられている。
《新世代政治家の道徳的崩壊――》
不正のニュースは二番手へと落ちていく。
私は理解した。
国はスキャンダルを必要としている。
そして禁断の恋は、何十億円よりも売れる。
「……事前に知ってた?」
沈黙。
「すべてではない」
あまりに慎重な答え。
裏路地の黒い車は、まだ動かない。
「人は送って」
私は静かに言った。
「でも私は逃げない」
「リナ――」
「カフェは開ける」
彼は黙った。
「……今夜行く」
通話が切れる。
ここはもうセーフハウスじゃない。
嵐の目だ。
◇◇◇
夜。
「リナさん」
ドアを叩く声。
「誰?」
「涼です。ケンジ様の使いです。安全な場所へ」
黒いスーツ。整いすぎた笑み。
「本人が来ると言った。待つ」
「緊急会議中です。報道陣がこの周辺を嗅ぎ回っています。時間がありません」
焦りすぎている。
「彼から直接連絡を待つ」
「……では少しだけ中へ」
拒むべきだった。
けれど不安が、ほんの少しだけ扉を開かせた。
彼は素早く入る。
スマートフォンを見せる。
《涼について行け。抵抗するな。信じろ》
短すぎる文章。
ケンジはこんな打ち方をしない。
「本当に彼から?」
涼は答えず、水を差し出す。
「お疲れでしょう」
――迷い。
一口だけ。
世界が揺れる。
「……何を」
「申し訳ありません」
声が変わる。
暗闇。
◇◇◇
目を覚ます。
白い天井。
冷たい空気。
「目が覚めたのね、泥棒猫」
氷のような声。
振り向くと、一人の女。
見覚えがある。
――由月。
体は拘束され、服は剥がされていた。
「誰……」
「私はケンジの正妻よ」
シャッター音。
「なぜ写真を?」
「“夫を奪った女”の顔を、世間に見せるため」
胸が崩れる。
子どもがいることを、私は知らなかった。
由月が近づき、顎を掴む。
「私は彼を愛してる。彼の名を守ってきた。侮辱も飲み込んだ。あなたは数か月で壊した」
涙がこぼれる。
彼女は拭いながら囁く。
「愛してるなら証明して。消えて。完全に」
ナイフを差し出す。
「武士の覚悟を見せて」
怖い。
確かに私は罪を犯した。
でも、誰かの名誉のために死ぬ?
そのとき――
扉が破られる。
「由月!」
ケンジ。
顔は蒼白。呼吸は荒い。
「触るな!」
彼は私を覆い、拘束を解く。
震える手。
「リナ……」
由月が叫ぶ。
「どういうこと!? なぜその女を守るの!」
「俺はリナを愛している」
静かだが、確かな声。
由月の崩れた叫び。
「愛してるのは私よ! 政略結婚を受け入れたのも、子どもを産んだのも、全部あなたのため!」
ケンジは目を閉じる。
「最初から愛ではなかった。家同士の契約だ」
由月は膝から崩れ落ちる。
「時間が経てば愛せると言った!」
「……努力はした」
乾いた笑い。
「努力?」
長い沈黙の末、彼は言った。
「本当には、愛せなかった」
空気が凍る。
「子どもに関しては……俺の罪だ。だが、もう一つの過ちは犯さない」
彼は私の手を握る。
「愛しているのは、リナだ」
由月が震える。
「今ここを出たら、あなたのキャリアは終わる」
彼は即答しない。
そして。
「君を失うほうが、怖い」
◇◇◇
数週間後。
大規模な記者会見。
私は彼の隣に立っていた。
「リナとの関係は事実です。強制も、陰謀もない。私の責任です」
フラッシュ。
「公職を辞し、正式に離婚を申請します」
「すべてを失う覚悟ですか?」
彼は私を一瞬見て、答えた。
「舞台を失っても、正直な人生を得られるなら」
その発言で、隠されかけた巨額不正は再燃した。
世論は“なぜ彼が標的だったのか”を疑い始める。
ケンジは政治を去った。
◇◇◇
数か月後。
カフェは本物のカフェになった。
秘密の警備も、裏口の車もない。
木の香り。コーヒーの湯気。朝の笑い声。
私は窓際に座っている。
お腹は七か月。
キッチンでエプロン姿のケンジ。
「リナ、少し待って」
差し出されたオムライス。
ケチャップで書かれた文字。
《ママと赤ちゃんへ》
「字、下手」
「昔は法律に署名してた。今はケチャップだ。進化だろ?」
彼は向かいに座る。
カメラの前では見せなかった顔。
計算のない眼差し。
「後悔してる?」
首を振る。
「地位は失った。でも家を得た」
彼の手が、そっと私のお腹に触れる。
外では看板が風に揺れる。
記者も、閃光もない。
ただ、選び取った人生。
偽装ではなく。
愛でも逃避でもなく。
――選択としての、幸せ。




